12年10ヶ月12日 23時間11分 前
「本当に感謝の気持ちでいっぱいです。なんとお礼を申し上げたら良いのか…」
「轍の知り合いだって言うから、来てみただけ、役に立ったんなら何より」
パレアナは院長に向かって言った。轍の知り合いだから、というのは方便だが、まるきりの嘘というほどでもない。
「だいたいの子は目処がついたしね。これから来る子についても、そう面倒はない。問題はあの2人、それからヨウムと子犬」
「私の過ちです」
「責任問題はこの際どうでもいいんで、起こったことだけを話してほしい」
「レオンハルト・ベルンシュタイン教授…」
「知ってる」
「あの子の姉にあたる娘が亡くなった時でした。あの人が現れたのは」
「だまってクローンにしておけば良かった」
「そう、いまなら、そう思います。間がさした、としか言いようが…」
「それなら原体は保存されてる?」
「はい」
「まあ、そっちに関しては、少し望みが出てきた」
「本当ですか?」
「原体の保存状況にもよるけど、現状との遺伝子差分が取れればね」
院長の張り詰めた表情が緩み、目から一筋涙がこぼれた。
「それはそうと、トリとイヌだ。あれは、どういうこと?」
「なんとかしようと思ったんです」院長は言った「もう、さすがに人間では…、だから、実験動物で症状緩和ができないかと、試してみようと…」
「その程度の思いつきだと原体保存は望み薄か」
「はい?」
「ヨウムとパピヨンの生殖原細胞、とってある?」
「ありません…」
「ないならないでしょうがない。あとあの子、赤毛の子、あれは何?」
「あの子に関しては、私どももよくわからないのです」
「よくわからない?」
「他所からの紹介で来た子ですが、両親はいません。紹介元の病院でも素性はよくわからないとのことでした。神経芽腫の拡がりが激しく急なので、もとの病院では対応が難しいと、ここにやってきました」
「さっちゃん、って、幸子とか?」
「いえ、名前もよくわからないのです。バナナが好きなものですから、なんとなく、さっちゃん、と」
「ああ童謡の」
「そうです」
目を閉じて沈黙思考するパレアナ、そのパレアナを凝視する院長を、えも言われぬ違和感が襲う。
確かに彼女は患者たちを救った。そしてコマチも治りつつあるという。彼女に対する感謝の念は真実で、いささかの翳りもないと断言できる、
のだが、
命は等しく平等というのは医師としては当然のこと、だが、そこにはわずかばかりの偽善の混じる余地もある。しかし彼女は鳥と犬の命も人と同様に考えているようだ。いや、むしろ…
ーー人を人とは思っていない
と言うほうが近いような気がする。
「どうしたらいいのか迷っている」パレアナは目蓋を開けた「なんとかするには、もうアイツに頼るしかないんだが…」
「どなたですか?」院長は恐る恐る訊いてみた「どなたにお願いすれば?」
「私の彼氏」
「は?」
「彼氏はなんでもできるんだよ。できないことはない」
「それで、何か不都合でも?」
「おおありだよ」パレアナは不満げに窓の遠くに視線を向けた。空に雲が2つ浮いている「アイツはなんでもできるけど、やっていいこととやっちゃいけないことの区別がつかない。昔から、ずっとそうだ」
遊戯室の中を、さっちゃんが両手で胸を叩きながら練り歩く。
「うっほ、うっほ」
「うぅほ、うぅほ」
「きゅーん、くーん」
「うっほ、うっほ」
ヨウムと子犬、それにコマチ先生が、さっちゃんの後をついて囃したてる。
「うっほ、うっほ」さっちゃんが言った「ねえ、先生、あたしゴリラになりたいの」
「うん、すごいぞ、さっちゃんゴリラ、本物そっくり」
「そうじゃなくてぇ」さっちゃんが口を尖らす「本当のゴリラになりたいの」
「バナナ好きだから?」
「バナナも好きだけどね。ほんとに好きなのはメロゴールド」
「グレープフルーツみたいなヤツだな」
「そう、でも、もっと、甘いよ。この間、いっしょに食べたでしょ」
「そうだっけ? あ、そうかも」コマチ先生はちょっと困った顔をした。
さっちゃんは、両手を胸から頭の上に移し、いっぱいに背伸びした。そして、ゆらゆら体を揺らす。
「ゴリラになって、木の上でお昼寝するんだ」
「木の上で寝たら、落っこちちゃうよ」
「落ちないよ、ゴリラだもん、ゴリラは落ちない」
そして笑うと、さっちゃんは、小首を傾げて言った。
「メロゴールド食べたの忘れたでしょ、先生」
「あ、…うん」
「しょうがないのよ、先生はこれからいろいろ忘れる、あたしのことも忘れてしまう」
「そんなことないよ」
「忘れてもいいんだよ」さっちゃんはコマチ先生に抱きついた「先生が忘れても、あたしが代わりに憶えてるから、でんでんでん、も憶えたよ」
鮮やかな速度でパネルに指を滑らせながらパレアナさんは腫瘍を掻爬していく。
亜空間掻爬装置というのが新しい機械の正体だった。コマチはパレアナさんの手際を驚きに満ちた眼差しで見つめている。
「あ、この場所、NMRに切り替えて」
「あ、はい」
NMRでも病巣が取り除かれたのがわかる。
「あと、少し残ってるけど、残りやってみる?」
「え?」
「いや、もう、だいぶ慣れたろうしさ、ゆっくりでいいから、使ってみない?」
「あ、いや、わたしは…」
大きく首と手を振るコマチに、パレアナさんも、ま、そっか、と無理強いはしなかった。
パレアナさんは、残りの腫瘍を手早く取り除くと、中の男の子に声をかけた。
「はい、おしまい。外出るよ。そのまま寝ててね」
患者の男の子の世話を他の看護士さんに任せて、パレアナさんはコマチのほうを向いた。
「さて、そろそろコマチちゃんのほうを進めようか」
「じゃ、中入ります」
「待て待て、モノには順序ってモンがある」
「順序?」
「治療方針とか、後遺症とか、その他諸々話すんだろ? 医者じゃないから詳しくはないんだけど」
「そういうのは治療前にするんですよ。もう治療中でしょ?」そう言ってコマチは亜空間掻爬装置を顎で指した「あそこ何回も入ったし」
「適合を診てた。掻爬は部分的にしかしてない。あまり影響でなさそうなところ」
「そうですか」コマチはパレアナさんの意図を察し頭を垂れた「で?」
「あなたの大脳皮質の17%を腫瘍が占めている。幸い、小脳、視神経を含めて他の神経系への転移はない。掻爬にはざっと10時間かかるあなたはいちおう成人クラスとして、体力あるから一気に行う。全身麻酔するから心配はないよ」
「10時間寝て起きたら全快ってことですか?」
「そう簡単でもないよ。脳みそ2割弱なくなるわけだし」
「術後の機能障害は?」
「たいしたことないよ。コマチの脳細胞は常人の10倍近くあるから、2割減っても、まだ8倍ある」パレアナさんはそこで言葉を止め、探るように視線を向けた「知ってた?」
「まあ、いろいろ…」
「この病院は、あなたを癒すために建てられた」
「お母さんが建てました。院長ですけど。お金だけは昔からあったみたいで」
「その院長に頼まれて、っていうか、ほんとはおかあさんの親戚が私の知り合いだったっていう、まあ、それで頼まれて来たんだよ」パレアナさんは巻き込まれた、と暗に強調した「だから、その、今回の話はデザイナーズチルドレンのことと絡んでるような、そうでもないような、なんというか、そういう感じだと思って欲しいわけ」
「はあ…」
「だから、さっちゃんの話もね…」
「さっちゃん? あの子もわたしと同じ?」
「いやあ、それがさ、あんまり…、同じなような、そうでもないような…」
「治るの? さっちゃんも?」
「それは、治すけどさ」
ーーよかった
コマチは両掌で顔を覆う、その指の隙間から涙がこぼれた。
「で、まあ、こっからは術後の話なんだけどさ」
「治るんじゃないの?」
コマチは涙をぬぐいもせずに顔をあげた。
「いや、治すけど…」パレアナさんは歯切れが悪い「稼働中の脳細胞17%削るから、記憶ってのは脳細胞だけでストックするもんじゃないけど影響はある。忘れるんだよ、何かを。何を忘れるかはよくわからない」




