12年11ヶ月2日 1時間31分 前
その病院は山中にあって、鬱蒼と生い茂る木々に埋もれ、世間から隠れるようにひっそりと建っていた。
外来は受け付けておらず、紹介のみで即入院が必要な患者ばかりが養生している。
小児がんの専門病院であった。
他の病院では快癒が難しい症状の患者が多かった。
受け入れる患者の特性上、半ば治療、半ば緩和ケアという運用もしかたのないものだった。
そんな病院であったのだが、
ある日を境に状況が劇的に変化した。
ある先生がやってきたのだ。
先生は大きな機械と一緒にやってきた。
いきなり現れた機械は、病院の玄関から入り切らず、その機械専用の建屋が用意された。大きなトンネルのような機械で、X線CTスキャナーやMRIといった中に人が入るタイプの検査機器よりもずっと大きい。患者の子の中には「宇宙船が運んできた」と皆に触れ回る者もいたのだが、信じるものはいなかった。
先生の方は、一緒に来た機械よりずっと普通だった。女の先生で、患者の子供たちのお母さんと同じ歳か、ことによると先生の方が若いかもしれない。
先生は、病院の中を縦横無尽に走り回っていた。他の先生や看護師さんたちと違って、直接子供たちと話すことはない。検査の機械を操作したり、コンピューターを操作したり、そして一番大事なのは、あの新しくて大きな機械を使うこと。患者の子供たちは、おっかなびっくりで、先生と廊下ですれ違う時には、さっと身をかわした。見た目はこわなくないし、優しそうなのだが、なんとも近寄りがたい感じがした。
子供たちにとって、この時点では、変な機械が来た、というのと、変な先生が来た、ということだけだったのだが、しばらくすると、たいへんなウワサになった。
あの大きな機械に入って治療を受けると、家に帰れる、というのだ。
実際、治療の成果は上々のようで、先生が来て1週間も経たないのに3人退院したのだ。別の大きな病院に移っただけ、という子もいたが、それだって家の近くの病院だ。そうすれば毎日お母さんにもお父さんにも会える。
最初、怖がってあの機械に入るのを嫌がる子供もいたが、こうなってくると話が違う。皆、自分の番が来るのを心待ちにしている。
機械に入るのは一回30分ぐらい、効果は子供によって違った。一番早い子は2回で終了、他の子も治療を重ねるうちに見違えるほど元気になった。
いままでの病院での生活がウソのように、子供たちも医師も看護師たちも、きぼうの渦の真っ只中にいるかのように笑いあった。
「コマチ先生」
女の子がしずしずと寄ってきた。
「あたしも機械入ったよ」
コマチ先生と呼ばれた女医さんは、女の子を抱っこした。先生、というかとても若い、高校生にしか見えない。もちろん病院で一番若い、そのせいで子供たちに人気があった。
足元に子犬がすりよってくる。ばさっ、とヨウムも飛んできた。
遊戯室にいる子犬もヨウムも特別な殺菌したりワクチン接種をしている。アニマルセラピー用の動物たちだ。
「ほうほう、機械入ったかぁ。べつに怖くなかったろ。だいじょうぶだったろ?」
「うん、だいじょうぶだった。先生も入ったことある?」
「最初に入ったさあ。いちばん最初に」先生は女の子の頭を撫ぜながらいった。赤毛のその子は頭をなでられるのが好きだった「大人でもだいじょうぶだから、子供ならもっと簡単、さっちゃんもすぐ慣れるさ」
「うん、がんばる」
さっちゃんは、目の美しい子だった。どうかすると引き込まれそうな深い瞳の色をしていた。
「お、もう昼寝の時間だよ」コマチ先生は、抱いていていたさっちゃんを下ろし、手をつないだ「さあ、ベッドに行こう」
遊戯室の出入口で、ヨウムと子犬がじゃれついてくる。名残惜しそうに、さっちゃんは、サヨナラと動物たちに言った。彼らは遊戯室から外に出られない。そういうキマリなのだ。
廊下を歩きながら、さっちゃんはコマチ先生に訊ねた。
「あの機械は病院の外から来たんだよね」
「そうだよ」
「外って、どんなとこ?」
うーん、とコマチ先生は困ってしまった「外のことは、よくわかんないんだよね。先生も」
「でも、よしえちゃん、退院するって、お家に帰るって」
「うん、そうだね」
「お家って何」
「ちっちゃな病院みたいなもんだよ。たぶん、そうだ」
「たぶん?」
「よくわからない」
さあ、ベッドだよ、コマチ先生はさっちゃんを抱き上げ、ベッドに寝かせた。
「先生、でんでんでん歌って」
いいよ、と言って、コマチ先生は歌い出した。
「むかし、わたしがすきだったもの…」
さっちゃんは目を閉じて歌に聞き入る。
きゃらぶきやねの すいみつとう
かっぱのどうを きた よろい
からになった つばめのす
でんでんでん と なる たいこ
むかし むかし むかしの わたし…
コマチ先生の肩を叩く者があった。
「院長先生が呼んでますよ」
はあい、と先生は、さっちゃんを起こさぬように静かに病室から立ち去った。
院長室は入るだけで緊張する。
最近はあの新しい先生も一緒のことが多くて、なおさら態度が固くなる。
でも、コマチ先生としてはあの新しい先生のことが嫌いなわけではない。
不思議な人だった。
病院の中にいる誰とも似ていない。リモートで会う他の人とも違っていた。映画の中の人に似たような人はいた気がする。でも、具体的に誰? と聞かれると困ってしまう。
パレアナさんは、自分のことを先生と呼ばないで、と言った。理由は医師ではないから、だと言う。
ただ、そう言われるとコマチ先生も困ってしまう。
コマチ先生も、たぶん、先生と呼ばれる資格がないような気がする。医師免許に準じる資格は持っているのだが、何より、コマチ先生はものごころついてから、この病院を出たことがない。医師というのがそういうものではないらしいことは、医師になる勉強をしているうちに知った。臨床やらなにやらもすべてこの病院ですませた。
でもまあ、みんながコマチ先生と呼んでいるし、それで不都合はないから、コマチ先生だ。
パレアナさんは先生と呼ばれると何か不都合なことがあるのだろう。
そういうことは、深く立ち入らないのが先生だと思う。
院長室に入ったコマチ先生は、パレアナさん、と呼びかけた。
「パレアナさん、まだ私、施術に立ち会わないといけませんか?」
パレアナさんと院長先生は、同時にコマチ先生の顔を見つめた。だろうな、という顔つきだった。
「立ち会うのは嫌かな?」言ったのはパレアナさんではなく院長先生、女3人でツノ突き合わせた状況では年長者が取りしきるのが上策だろう。
「嫌、っていうほどでもないですが」そう言ってからコマチ先生は思い直した「やっぱり嫌です」
正直でよろしい、院長先生は言った。
「嫌でしょうけど、頑張ってね」
パレアナさんはにこやかに微笑んだ。有無を言わさず、というのはこういう顔かとコマチ先生は思った。
「わかりました。がんばります」
それで要件というのは、と院長先生にコマチ先生は訊ねたのだが、もう用はすみました、などと院長先生は言う。
「あなたもそこに突っ立ってないでお座りなさい。あなたに聞きたいことも聞いたし、こちらが言いたいことも言ってしまったし、あとはお茶でも飲みましょう」




