19年2ヶ月26日 9時間46分 前
その少年は、いつも夕日と共に現れた。
アルは岸壁から海を眺める少年を見ていた。
昨日も来ていた。一昨日も来ていた。それを見ていた。一週間前もいたと思う。先月は? よくわからない。
アルが暇だった、というのもある。
いや、アルだって、さすがに、ずっと暇だったということはない。
ただ、気がつくといた。海を見ている少年がいた。
声をかけるかどうか、ずいぶん迷ったのだ。
どう見たって怪しい。
でも、とうとう好奇心が勝ってしまった。
「あの、こ…」
アルが声をかけるのを待っていたかのように、少年が振り向いた。
「ボクはインチワーニ・ガルベストン」
「ガルベストン? ああ、それで」
少年が見ていたのはガルベストン湾だ。
その大きな入江はテキサスにあって、トリニティ川とサンジャシント川が合わさり、外海のメキシコ湾からガルベストン島とボリヴァル半島の間の隘路を通って流れ込む潮流が、入り混じって複雑な色を成す。
「いや、違う」インチワーニ・ガルベストンが言った「ボクの本当の名前は、地球の言葉では発音しづらい。いちばん似ているのがインチワーニ・ガルベストンだっただけだ」
「地球の言葉?」
「ボクは宇宙人だ」
ーーやっぱり、声なんかかけるんじゃなかった
アルの戸惑いを察したのか、ガルベストンは言った。
「ボクが宇宙人かどうかは本当はよくわからない。でもセドリックが宇宙人だと言ったから、宇宙人だと思う」
「セドリック?」
「そう、セドリック。彼はいつも正しい」
ーーわからないことだらけだ
「ここに来る前は、どこにいたの?」こんなこと、聞いたところでどうなるものでもない。アルもそうは思うのだが、彼は自分のことを宇宙人だというのだ。宇宙人ならちょっと興味がある。
「シンタグマメソドロジーにいた。デザイナーズチルドレンの育成空間だ」
ーー聞かないほうが良かった、かな?
「どうしていつも海を見ているの?」
「ガルベストンだから」少年は言った「まったく同じではないが、発音が似ている。見ていれば何かわかるかもしれない」
それで、何がわかった? 訊いたときには、少年の姿はかき消えていた。
次の日も少年はいた。
アルは走り寄った。昨日のようなヘマをしないためにも、真っ先に早口で言った。
「ボクはアーノルド・ビザンツ」
そうか、と少年は言った。
「キミは、ええと、確か…、インチ…」
「インチワーニ・ガルベストン」
「そう、インチワーニ・ガルベストン」
「長いからインチでいいよ。みんなそう呼ぶ」
「ボクのことはアルと呼んで」
「わかった。アル」
「インチは何星人なの?」
「それは、どこから来たのかということ?」
「そう」
「シンタグマメソドロジーだよ」
「それはどこ? 火星? 金星? それとも別の太陽系? それとも別の…」
「別の空間だな」
「異次元?」
「異次元と言えば異次元。亜空間のひとつだ」
「よくわからない」
「わからないだろうな。説明するのは難しい」
「いつも見てるけど、インチがどこから来るのかわからないんだ」
「そりゃ、わからないだろうな」
インチは突然消えた。アルも覚悟はしていたが、それでも驚いた。アルは逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、それでも辛抱強く我慢した。
インチが現れた。
アルはほっとしてため息を着いた「本当に宇宙人なんだね」
「それはどうかな?」インチはふたたび海を眺めつつ言った「セドリックもパレアナも同じことができる。リリオンもだ。いや、リリオンはちょっと違うか、いつも寝ているし」
「リリオンって誰?」
「ボクの恋人」
そうかあ、アルはなんとなく腑に落ちた。宇宙人なんだから恋人ぐらいはいるよな。
「セドリックもパレアナも地球人に見えるよ。でもボクをシンタグマメソドロジーから連れ出してくれた」
「助けてもらったの?」
「そういうことになるかな、シンタグマメソドロジーに長くいると過剰適応を起こす。そうなる前に出ないといけない」
「出ないとどうなるの?」
答えは返らず、アルはまたひとりぼっちになった。
次にインチを見つけたとき、アルはすっ飛んでいって大声で叫んだ。
「いなくなるときは、いきなりいなくならないで、いまからいなくなるって言って、ちゃんと、消える前に言って」
「あ、ああぁ」
インチは頼りなく返事した。わかったよ、と言った。インチの機嫌を悪くしたかもしれない。でも、それでも、アルは言いたかった。
「ずいぶん間が空いたけど、どこか行ってた?」
「いや、そうかな?」インチは戸惑っている「そんなに長かったか? 時間のことはわからないけど」
インチに悪気はないようだった。アルは、しまった、と思った。インチが宇宙人なのを忘れていたのだ。
「ごめん、ボクも君の時間のことはわからないや」
「お互い様だな」
そうか、じゃあ、話しておいたほうがいいのかな、とインチが切り出した。
「何のこと?」
「今日は、そうだな」インチは夕日を指差した「あの太陽が水平線にすっかり沈むとき、そのときにボクは帰る」
「わかった。ありがとう」
「そして、もう、しばらくここには来ない」
「…そう、なんだ」
考えてみれば、インチは宇宙人なんだ。地球にいるほうが普通ではないんだろう。
「これから宇宙に行くんだ。その準備をする」
「そう、もう明日は宇宙に行くんだね」
「いや…」インチは沈みかけの夕日を見ながら言った「行くのは20年くらい先だ。セドリックの子供が10歳になったら、仲間たちと一緒に宇宙に行く」
「子供が10歳で20年後って、まだ、その子生まれてないじゃないか」
「そうだよ」
「何でそんなことがわかるの?」
「セドリックは何でもわかるんだよ。だからセドリックなんだし」
「そうなの?」
「そうだよ。エッジワース・カイパーベルトから小惑星も持ってこなくちゃならないし、いろいろ大変なんだ」
「小惑星を? なぜ?」
「天体宇宙船を作る。直径500キロメートルぐらいの小惑星が必要だ。それに最終形式のデザイナーズチルドレンを3体産み出さないといけない」
「天体宇宙船?」
「太陽系から出て、外宇宙に行くには、それぐらいの大きさの宇宙船が必要なんだ。500キロメートルだと、まだ小さいぐらいだ」
そういうものなのかもしれない。アルにはよくわからなかったが、インチは宇宙人なんだし、本当に宇宙に行くには、そんな大きな宇宙船が必要なのかもしれない。
「ボクも行ってみたいな」
「どこに?」
「宇宙に」
それは無理だよ、とインチは言った「アルは頭が良くない」
「うん」アルはうつむいた。それはしかたがない。インチの言っていることはほとんどわからなかったし、頭が悪いと言われるのは当然だ。
「宇宙は危険だ」インチは言った「危機に遭遇したとき、自分で乗り越えられない者は宇宙に行くべきじゃない。だから、頭が良くないと宇宙には行けない」
「わかった」
アルはインチの言葉に納得するしかなかった。
夕日が沈む。
夕日の上辺がかろうじて海上に出ているだけ、もう時間がない。
アルにはインチにどうしても聞きたいことがあった。
「また、会える? もう一度アルはインチに会える?」
会えるよ、という言葉を最後に、インチの姿はアルの眼前からかき消えた。




