23年11ヶ月2日 18時間07分 前
店前の暖簾に手をかけ、そわそわと人待ち顔の店員がいる。
まあ、食堂なのである。通りかかった男が引戸に手をかけ店に入ろうとする。と、ものすごい形相で店員に睨まれた。
「あ、もう店じまいなんで」
あらためて顔を見ればけっこうな美人である。
「まあ、そう言わないで、俺、食うの早いし…」
「うるさい、店じまい、って言ったら店じまいだ。どっか行け」
口だけでなく、よく伸びる左足でもって、お客未満を往来に蹴飛ばす。あまりの剣幕に、這うようにまろびつ男は逃げた。
男の後ろ姿をしばらく睨みつけていた女店員だったが、突然、表情が和らぐと、べっぴん度が5割は増した。
こちらに歩いてくる常連客を見つけたのである。
「まだ、大丈夫ですか?」
「もちろん、もちろん、ささ、中へどうぞ」
客を店内にうながすと、暖簾を外して準備中のフダを下げた。引戸に鍵までかける念の入り用だ。
店内はいつも通りがらんとしていた。客がいない。こんなんで大丈夫か、と亮二は思うのだが、まさか自分以外の客を玄関前で追い返しているとは、普通、思わない。しょうが焼き定食で、と奥の厨房に声をかけた。
はーい、いつものね、と店員さん、初美さんの声が聞こえる。初美さんはガラスコップと水差しを持ってきて亮二のとなりにつくと、水差しでコップに水を注いだ。
店内には4卓のテーブルがあるのだが、なぜかいつも初美さんは亮二のとなりに腰掛ける。閑古鳥が鳴いているし、暇なんだろうな、と亮二は見当違いの推量をする。
「まあた、落ちたんですかぁ?」初美さんはカゴに入れたカバンからのぞく原稿用紙の束を見逃さない「読んでいい?」
「いいですけど」断る口実をなにも思いつかなかった。
初美さんは原稿用紙をカバンから抜くと、ささっと目を通す「いまどき手書き原稿とか、普通はワープロとか使うんじゃないんですか? あなたは字が綺麗だから良いけど」
「あまりプリンターの字とか好きじゃないんです。それに、キーボードぽちぽち押してるだけだと、なんか書いてる気がしないっていうか…」
「S F書いてるのに? もしかしてパソコンとか使えない系? まさかね。東大生なのに」
「パソコンとS F関係ないですよ」
「え? じゃあ、ほんとに使えないの?」
「使えます」
初美さんは読みかけの原稿をテーブルに置くと、厨房の奥へと姿を消し、大きなお盆にしょうが焼き定食を乗せて持ってきた。
「はい、どうぞ」
そして、こんどは亮二の真ん前に陣取り、両手で頬杖をつきながら、嬉しそうに亮二が生姜焼きを食べるのを見ている。
いつものことだ。
最初のうちは、とまどって食事も喉を通らない有様だったが、何度も通う内に慣れた。それにテレビ見ながら食事するよりは、麗しい初美さんの顔を眺めながら食べる方が良い。
なぜ、こんなことをするのか
幾度か聞いてみたい衝動に駆られたことはあるが、そんなことをして、次にどうなるか見当もつかなかったので、ついぞ尋ねることはできなかった。女神に事のあらましを尋ねたら、そこで夢が覚めてしまう、そんな気もした。
「そんなに宇宙に行きたい?」
ーーえ?
亮二は茶碗と箸を盆に返し、戸惑いの貌を浮かべた。
「ねえ、あなた」問いかける初美さんは笑顔のまま続ける「宇宙に行ってみたいの?」
「行きたいです」
自分でも驚いたが、亮二は本当に素直な気持ちでそう答えた。
「でしょうね。あなたの書く小説、いつも宇宙に行く話ばかりだもの」
ねえ、と、彼女は、試すように亮二の瞳を覗き込んだ「わたしが宇宙に連れて行ってあげる、って言ったらどうする?」
「魂あげます」
やだ、と彼女は目をまん丸にして笑い転げた。その顔も美しかった。
「わたし、魔女とか、そういうのじゃないし」だが、そう言う彼女の目に、暗い陰が堕ちたように見えた「…でも、考えようによったら、うちの一族はそんなものかもしれないね」
彼女は居住いを正し、ピッと背筋を立てた。
「2つ、お願いがあります」
「魂だけじゃ足りませんか?」
まあ、それも、欲しいですけどね、予期せぬ返答が多いので、さすがの初美も少し戸惑いをみせる。
「経済産業省に入省してください」
ーーは?
こんどは亮二が驚く番だった。
「先の省庁再編で通産省から名前が変わったやつですか?」
「そうです、けど…」
「弁護士になろうかと思ってたんですが、僕、文1だし」
「経済産業省です」
「キャリア志望ではないんですが」
「経産省です」
「財務とか法務とか外務とかは」
「そういうのは関係ないんです。宇宙に行くためです」
「文部科学省、でもない?」
「違います」初美は泣きそうな顔になった「うまく説明できないの。でも、あなたが宇宙に行くためには経済産業省でないとダメなの。お願い、わたしを信じて」
亮二は真剣に彼女を見つめた。もとより初美を疑ったことなど一度もなかったし、これからも疑う必要はないと思えた。この世に信じられないことなどいくらでもあるのだ。初美を疑う理由など何もないと思う。
「わかりました。経済産業省に入ります」
ーーよかった
安堵からもあるのだろう、ぎりぎり堪えていた初美の涙が、そのままひとすじ溢れた。
あらあら、などと言いながら、恥ずかしげに涙を抑える初美はとても可愛らしかった。
一仕事終えた、と思ったのか、初美はすっかり落ち着いてしまっている。亮二はおずおずと彼女に声をかけた。
「…あの」
「はい?」
「お願いは2つあると聞きましたが、もうひとつのお願いは?」
とたんに初美は顔を赤らめ、下を向いて亮二の視線から顔を隠してしまう。
「…あの」
「ちょっと待って」
下を向いたまま初美が言う。
「待ってください…、あの、お願い、と言っても、2つめは、できれば、そうしていただきたい、という程度のもので、ですから、あなたが、できない、と仰られたら、それは? それで、なんと申したらよろしいのかしら…、お願い? というほどのものではなくて…」
「はい」
「初美のことを愛してくださいます?」
「はい」
初美は、すべての想いを振り絞ってしまい、抜け殻のようになってしまったのだが、
亮二には、あまり伝わってなかったらしい。
「それで、もうひとつのお願いのほうは…」
初美は顔を上げた。そこには初美の好みを全て兼ね備えた顔があったのだが、残念なことに、初美の言葉をまったく理解できていないようだった。
「初美のこと好きですか?」
「はい。それで、お願いのほうは?」
幸せと絶望とが、一緒に襲ってくる。
そんなことが現実にあるなど、つい先刻まで思いもしなかった。
せっかく理想の殿方が現れたと言うのに、
・・・
・・
・
この男、信じられないほど鈍い。
初美は、かつて使えた先達の力に頼ろうかと、一瞬思ったのだがやめた。
むしろ、それは絶対にしてはならない。
初美は、ものすごく、いっぱい、思考を巡らせた。こんなに頭を使ったことはついぞない。なるべく分かりやすく、伝えようと初美は思った。
「一日一度で良いんです」初美は蚊の鳴くような声で言った「初美のことを、好きだ、と言ってください。それが2つめのお願いです」
「好きです」
今日はあまりにもいろんなことが起きて、だから、心というものが身体から離れてしまってふわふわと浮いてるようだった。だから、目の前の愛しい男が、そんな言葉を発するとは、初美には、思いもよらなかったのだ。
「僕のほうからもお願いがあるんです」
「はい?」
「もう一度言って良いですか?」
「何をでしょう?」
「一日に一度と言われましたが、もう一度言いたいのです」
「え?」
「貴女が大好きです」




