1日 0時間07分 前
「ああ、こちらはもうすぐできるから」
「これトムヤムクンなの?」ジャックがかき混ぜる鍋を覗いてアイジュマルが訊ねる。
「トムヤムガイだね。エビじゃなくて鶏肉だから」ジャックは思い出し顔で言う「保険の先生、だったかな。農場の管理もしてる人。入用ならエビも出せるけど、すぐは無理、って言われた。不思議な人だ」
「そう、そうなの」アイジュマルが息せききって話だす「あの人、アッシャー博士とも仲良しみたいで…、そうそう、アッシャー博士がいたのよ、ここに。そういう噂は聞いてたんだけど、本当にいた」
「ボクも会ったよ」なぜかジャックは含み笑いだ「おひさしぶりです、って挨拶したんだけど、ああ、うん、とか…、たぶんこっちのことは覚えてなかったな。それでもしばらく話して、ボクらがデザイナーズチルドレンだとわかると、少しボクらのことを思い出したみたいだった」
ジャックはスープを椀に盛るとパクチーを添えた。
「さあ、こっちはできたぞ」
「ケバブも焼けてる」アイジュマルも言う「羊肉があるのにもびっくりだわ。結構な種類のスパイスもあるし、地球で料理するよりよっぽど好みの味にできる。すぐテーブルに持って行くわ。いただきましょう」
テーブルについたアイジュマルは、ジャックへの礼もそこそこにトムヤムガイをスプーンで口に運んだ「おいしい」
「ありがとう、しばらく作ってなかったけど、そこそこ食べられるな。シシケバブも美味しいよ」
「ジャックが料理得意だなんて知らなかった」
「得意ってほどじゃない。アメリカ留学中に、無性にタイ料理が食べたくなって、自分で作り始めたんだ。留学先ではタイ料理はあまりなかったから、材料探すだけでも一苦労だった」ジャックは自分の椀のパクチーをフォークでつついた「それが、ここはもうほとんど宇宙なのにパクチーもある。ナンプラーもパレアナに分けてもらった。何かもう不思議な気分だよ」
「さっきも言ったけど」アイジュマルは大皿からシシケバブを取って匂いをかいだ「農場の管理人さん? あとメロゴールドっていう大きな女の人、何種類もスパイスをくれた。薬の材料にもするからたくさん育ててるって。合成だと、こう、パンチが効かない、とか? 良くわからないけど、いろいろ栽培してるみたい」
「そのメロゴールドって人、自分のことゴリラだって言ってた」
「うん、私も聞いた。でも…、まさかね?」
「やたら流暢にしゃべるヨウムもいるし、いや、そもそもユータの犬、えーと、何だっけ?」
「トッペン」
「そう、トッペン。犬がしゃべるんだから、あの人がゴリラでもそうおかしくはないかもしれない。あとガネーシャも…」
「オールインワンのこと?」
「うん、まあ…」ジャックはアイジュマルの問いかけに言葉をにごした「…そう、オールインワン、そうなんだけど、何と言うかな…、神話? いや、おとぎ話の世界なんだよ、ここは」
「おとぎ話? 何のこと?」
「だってさ」ジャックは自分でもわけがわからず、言葉を選びながらもどうにかアイジュマルに伝えようとしてみた「犬がしゃべるんだよ。ゴリラの女の子がとうもろこしの収穫を手伝ってて、鶏肉も羊肉も牛乳もチーズも、パクチーも、ナンプラーもある。そしてオールインワンーーガネーシャがこの星の運行を司っているんだ。だって星だよ? 地球からは見えないけど直径500キロメートルの星だ。もうここは宇宙だ。なのにここでボクはスキーをした。もう、おとぎ話だよ。絵本の中の世界だ」
アイジュマルにもジャックの言いたいことは、なんとなくわかるような気がした。漠然と月見台を目指していた時とは違う。空に浮かんでいるというだけで、そこは普通の世界、いままで住んでいた世界とさほど変わらない。そう勝手に思い込んでいたのだ。でも、実際に来てみたら、何もかもが違う。
「ボクはユータによく叱られるんだけど…」
そういうジャックの顔は、叱られてしょげているという風ではなく、アイジュマルには、むしろ嬉しそうに見えた。
「この、絵本の中の世界、っていうかな、その中でまだいろいろ仕組みがわからないからなんだと思うんだよ」
「仕組み?」
「うん、だから、ユータの真似をしてみようと思ったんだ」
「ユータを真似るの?」
そうなんだ、とジャックは頷く「ここでは何をしていいのか、よくわからなかったから、とりあえずユータを真似してみようと思った。真似ると言っても、ユータにできてボクにできないことは山ほどあるから、真似られることだけ真似ようと思ったんだ」
「それは、そう…、かもね」だんだんジャックの言い分がわからなくなってきたので、アイジュマルはあいまいに相槌を打った。
「この間、ユータとシノノメがピクニックをしてるのに出くわした」
「そ、そう…」
「ユータとシノノメは幼馴染なんだ。幼馴染は絵本の中だとピクニックとか当たり前にするんだよ。ボクはいままで幼馴染とピクニックなんかしたことなかったけど、ここでこそ、そういうことを真似てみるべきだと…」
ーーえ?
「…本当はピクニックが良かったんだけど、こんな大嵐じゃ、外でってわけにはいかないし、でも幼馴染と一緒に食事作って食べるとか…」
「ちょ、ちょっと待って」話の展開が自分の考えていたのとまったく違う。あせったアイジュマルは声も震える「幼馴染って、いったい誰?」
「キミとボクだよ」ジャックは怪訝な顔で答えた「ボクたち初めて会ったの5歳の時じゃないか、教授が定期検診だって、ボクら、いや他にも何人かいたけど集めていろいろ調べた時…」
「何でそんなこと覚えてるの?」
「覚えてないの?」
「いや、覚えてるけど…」
「じゃあ、一緒だよ」
「一緒じゃないでしょ」アイジュマルは思わず叫んだ「だって、あなた王子様じゃない。庶民がホンモノの王子様なんかに会ったら驚いて一生覚えてるわよ」
「ボクだってキミみたいに頭の良い女の子に会ったのは初めてだったんだ。覚えてておかしくはないだろ」
「おかしいわよ」
「何でだよ」
「頭良い女の子ならパレアナがいるでしょ」
「それはもっと後じゃないか。パレアナはセドリックも一緒にいたし、茶会のメンバーもいた。セドリックたちがいなくなって、それで教授が飽きて、あと、まあ、十歳そこそこの子を親元から長い間引き離すのも無理だったんだろう。実際、ボクの父はかなり怒ってたし、何の話だっけ? ああ、ボクとキミが幼馴染だって話だ」
「ジャック、落ち着きましょう」落ち着いてないのはアイジュマルのほうだ「とにかく、落ち着いて話しをするのよ。まず、あなたはタイの王子でしょ。私みたいな庶民とは幼馴染なわけがないの? わかる?」
「王子はもうやめたし」
「勝手にやめていいものじゃないでしょ」
「勝手にはやめてない。亡くなった父がいろいろ手をまわしてくれて…」一瞬、ジャックは言葉を止めた。目を瞑って何かに耐えるような顔つきになったが、はっきりとアイジュマルに伝えた「とにかく、きちんと王子はやめている」
「それじゃ、困るのよ」
「何が? 誰が困るんだ?」
「私が困るの」アイジュマルは落ち着く気配すら見せない「だって…、あなたが王子じゃなくて、私と幼馴染で、2人でお食事作って、それで一緒に食べてるとか、こんなの…、こんなの…」
ずっとがまんしてきたのだ。
ジャックと初めて会ったときから、そんなことは決して望んではいけないと思っていた。
途方もない夢など見ないほうが良い。
ずっと、そう思ってきたから、何もかもが変わってしまったのに気がつかなかった。
ーーでも、本当にいいの?
とりあえず、いまアイジュマルに出来ること、決して泣いてはいけない。
アイジュマルは必死に耐えた。
ジャックは、
ジャックは、もちろん、狼狽えていた。目の前のアイジュマルの様子を見て、また何か失敗したらしいのはジャックにもわかったが、いったい何を間違えたのか、本当に見当がつかなかったのだ。




