2ヶ月7日 17時間00分 前
「……様、お話が」
ジャック・ステイは執事の呼ぶ自分の本当の名をひさしぶりに聞いて、驚いた。その名が嫌いだったわけではない。ただ、あまりにも長くわずらわしかったため、普段使いのジャック・ステイのほうに愛着があった。
「…何か?」
「お父上の真の遺言をお伝えするときが参りました」
国王であった父の崩御からかなりの時間が立っていた。父と公言することは、憚かられることではあったが、むしろ公然の秘密としてステイを皆が認めていた。デザイナーズチルドレンであるという生い立ちは、父の子であることに障害にはならず、むしろ神にも届く秀でた息子として、正妻である后妃様と実子である皇子すらステイを愛でて止まぬほどであった。実のところ、父の生前、皇太子であった現国王こそがステイが王を継ぐことを最も切望していたほどである。
空軍中将というのがステイの正式な肩書きであったが、アメリカ留学中に取った宇宙飛行士の称号のほうがタイ国民には人気だった。ステイのことは王子様と国民は呼びならわしていたが、宇宙王という呼び名もあって、こちらもそこそこの人気があった。
もし、ステイがデザイナーズチルドレンではなく、ただの王家に縁あるだけの者であったなら、むしろ普通に王におさまっていたのかもしれない。
父の死後、公事、私事に関わらず多忙を極めたステイだったが、その忙しさが父の死の衝撃からステイを遠ざけてくれていた。いま執事から遺言という言葉を聞いて、あらためて父のことを思った。
「それはここで聞けば良いのかな?」
いいえ、と執事は否定した「地下の祭祀場にてお伝えするようにとの亡き国王陛下のお言葉にございます」
ーー開かずの間か
それはこの屋敷内で唯一、ステイが立ち入ることを許されなかった場所だった。
地下に向かう道すがら、唐突に執事がステイに話しかけた。
「ジャック様…」
執事にそう呼ばれるのは本当にひさしぶりで、ステイは足を止めて老人に向かい振り返った。
「急で申し訳ありませんが、この爺め、お暇をいただこうと思っております」
そう、と言ったきり、ジャックは言葉が出てこなかった。物心ついてから執事はずっとこの屋敷を守っていた。この老人が家からいなくなるなど、ステイには思いもよらなかったのだ。
「…長い間、ありがとう、その、とてもお世話になった」
老人は、寂しげではあったが、何故かおどけたような口調でステイに言う。
「サムソク様に諭されました」
「兄うえ…、いや…、国王陛下に?」
「私が我慢するのだから、お前も我慢しろと」
問おうとするステイをその笑みで押し止め、老人は祭祀場の荘厳な扉を開いた。
そこは祭祀場などではなかった。
カプセルの中に横たわった人がいる。カプセルは保護液で満たされており、胸から上の部分が透明になっていて顔が見える。
ステイはこの女を知っていた。
エキゾチックな面持ちでハリウッドを風靡した東洋のセレブリティー、スクリーンでの彼女を見たものは恍惚のあまり、ただ涙を流すことしかできなかったという。クメールの月神と異名をとったその人は、かつて皇太子だった頃の父の婚約者だった。
幸福の絶頂にあった2人に一発の銃弾が放たれた。彼女が皇太子を庇ったとも、直接お妃候補が狙われたとも判然とはしなかった。いずれにせよ一人は生き、一人は死んだ。
「生きてはおられません。残念ながら」
呆然とするステイの後ろから老執事が声をかけた「傷は塞ぎましたが、それで生き返るわけではない。お父上は痛く悲しまれ、そのまま痩せ細って消え去ってしまうのでは、と私どもは心配しましました」
老人は淡々と語る。まるで昨日の出来事であったかのように。いや、彼にとってはそこから時は止まっており、ただ惰性のみが彼を死なせなかっただけかも知れぬ。だが彼には彼の役目があった。
「お父上を死から手繰り寄せる細い糸として、この方を生前と同様の姿で保存するしか方法がなかったのです。誰にとっても辛いことでしたが、それしか方法がなかった。そんな時です。あの紳士が現れたのは…」
ここで老執事は言葉を止めた。言いあぐねていたが、意を決して言葉を放った。
「生き返らせることはできないが、母になることはできる。レオンハルト・ベルンシュタイン教授はそう言いました」
「では…、この人は」
「はい、遺伝的にも、いえ、魂の繋がりから言っても、ジャック様、間違いなくあなたの本当のお母様です」
声も出せずただ漠然と見つめるステイに、老執事は一通の書簡を手渡した。
「もう私にはご説明できません。どうか、これを…」
ステイは執事から渡された手紙の封を切って読み出した。
親愛なるジャック
おかしな話だが国父が息子に語りかける言葉でないことは承知している。いままでこのように語りかけたこともなかった。だが今際の際のこの時にどうしてもこのようにお前を呼びたかった。
ジャック。
私はお前の母親の前でこの手紙を渡すようアディルに託した。彼は拒んだが、最後は私の頼みを聞いてくれると信じている。だから私はお前があの人の前でこの遺言を読んでいるものとして話そう。
あの人のことを話す前に、どうしてもお前に話したいことがある。そう、お母さんのことだ。お前を育てた義理の母、皇后のことだ。あれには本当に迷惑をかけた。私がいままで生きながらえてきたのはひとえにお母さんのおかげだ。本当に感謝してもしきれない。お母さんが逝くときに手を握って許しを乞うたが、「わたしあのひとの大ファンでしたのよ。だから一生、とても楽しかったの」と笑っていた。私のことも、お前のことも、サムソクのことも、皆好きだと言っていた。
そう、そのサムソクのことだ。お前の年の離れた兄だ。サムソクは昔から好奇心旺盛でどこにでも首を突っ込みたがる。そしてこの部屋を見つけた。お前の兄はお前の母が何者であるかを明かし、それをもってお前を国王につけるべきだと私に進言した。確かに彼の意見は正しいのかもしれない。上手くやればタイとクメール、いや、アユタヤとクメールのわだかまりも解ける、と。サムソクの言い分は正しいのかもしれない。しかし、私の時もそうだったのだ。私が皇太子で彼女が婚約者。双方の礎になると思っていたのだ。だが彼女は犠牲となり、私はひとり残った。もしジャックをうしなうようなことになれば、こんどこそ私はこの世の全てを呪い、全てを打ち壊すことだろう。私のわがままを聞いてサムソクは矛をおさめた。私がどれだけ理不尽な男かサムソクはよく知っていたのだ。あれは良い王になる。
ジャック。
お前は全てにおいて私にはできすぎた子だった。私の血が半分混じっているから、と誰もが言った。違う。私の血さえなければお前はもっと素晴らしいものになれる。その思いが常に私を苛んでいた。お前がアメリカに留学したいと言ったとき、周りのものすべてが、こぞって反対した。誰もお前を手放したくなかったのだ。私も最初は反対だった。だが宇宙に行きたいというお前の望みを聞いて、ようやく得心した。クメールの月神は地上にいるべきものではない。お前はただ仮の宿としてタイに住まわっただけ、西洋の思想家の言った、神のものは神に返せ、というのはある意味正しいのかもしれない。
結局、私は何がしたかったのか。おかしなことだ。私には夢があった。いつか彼女が目覚め、何事もなかったかのように朝食をとりながらお母さんと談笑し、サムソクとお前がフルーツを取り分けて、足りなくなった分を執事のアディルが運んでくる。そんなありもしない夢を常に見ていた気がする。絶対にそんなときが来ないことはわかっている。妄執だ。だが、その夢をどうしても捨てることができなかった。
ジャック。
私たち、いや、私の妄執から自由になるときが来た。ジャック、優しい息子よ。これからは誰に遠慮することなく自由に生きて欲しい。ただ、その前にあのひとの亡き骸にさよならを言ってほしい。いかに形が整っていようとも、あれはお前の母親の亡き骸なのだ。私は自分ではとうとう彼女にさよならを言えなかった。こんなことを頼むのは父親として恥ずかしいばかりだが、どうか頼む。
最後になるが、ジャック、お前の父親であったことがとても誇らしい。もう我々のことは思い出さずとも良い。前だけを見て思う様の生涯を全うすることを切に願う。
手紙に大粒の涙が落ちた。保護液の中の母は微笑んでいるように見えた。
父の願いを叶えるべく、ジャックは彼女にさよならと言った。そして手紙に向かって、さよならと言った。




