4年10ヶ月7日 17時間10分 前
築25年と古めかしい上に、6階建、個数17と小規模なマンションである。
霞ヶ関駅から徒歩10分の立地ということで、問い合わせも多い。個人所有と聞いて憤慨するものもいないではないが、大抵は間取りやら立地の不自然さから納得するわけである。
家主は金銭に関して比較的頓着のないたちであるから、自分の縁者以外は住まわせていない。部屋の空きは半数を超えているが、10室ちょっとの貸し出しでは経費を捻出するのも難しくそのままにしている。
これで持つのか、と問われれば、持つわけなどない。相続税の分割納付もかなりキツイ。売り払おうかという話も出たが、親から譲り受けた財産のうち残っている唯一のものということもあり、ここで過ごした思い出もあってなかなか踏ん切りがつかなった。
そういうことで相続当初は色々逡巡していたわけだが、愚痴まがいに初美さんに相談すると、よござんす、と軽く受け流されてそのままになった。
以来、亮二はこのマンションも含めて、生活費その他について苦労した覚えがない。もちろん給与は手付かずで渡してはいるが、たとえば、この夫婦の過ごす居室の調度など、公務員の安月給では到底贖うことは不可能なものばかりである。
蓄えがありましたから、などと初美さんは涼やかに笑うが、たぶん、魔法か何かを使っているのだろうと二瓶亮二は漠然と考えていた。
妻の実家のことについては、少し調べたことがある。
吉祥財団というのがあるが、それは吉祥家とその当代の活動を維持するためにつくられた財団法人で、ごくごく簡単に言うと、吉祥当代というお姫様のわがままを聞くためにつくられた組織らしかった。
そういうものです、でも実家とは縁を切ってますので、と初美さんは言うわけだが、その財団規模と政財界への影響は生半可なものでなく、はたして親戚中でも中枢に近かったと目される彼女が、そんな簡単に縁を切るなどできるものかどうか、亮二には見当もつかない。
ただ、縁をきりました、と言われたら、たかが夫でしかない亮二には、そうですか、としか返しようがない。
そんなこんなで、初美さんがどうやって二瓶家を切り盛りしているのか、亮二にはまったくわからないのだが、亮二の仕事場に近いこのマンションのことを初美さんはことのほか気に入っていた。
夫が家に早く帰ってくるからである。
「今日も綺麗ですね。大好きです」
家のドアを開けた亮二は、今日も約束の言葉を言う。
「初美も、初美も、亮二さん大好き」
言いながら、初美さんはぴょんぴょん飛び跳ねている。可愛らしい。
柄物単衣で飛び跳ねる様は、見方によっては、はしたないととる人もいるだろう。亮二はたいてい初美さんの顔に見惚れているので気にならないらしい。
食卓の生姜焼きに気を取られていたものの、今日は亮二にとって大切な出来事があった。あなたにとって大切なことはわたしに必ず教えてください、といつもしつこいほどに言われている。夕食の席に着く前に亮二は初美さんに声をかけた。
「今日、吉祥頑頭さんにお会いしましたよ。確か御親戚では?」
え? と一瞬、初美は戸惑いの表情を浮かべ、しばしの間、思案顔になった。やがて、ぽそりと口から言葉がこぼれる。
「…がんとう、と言うと、弓手の坊ちゃん? ああ、だとすると、轍ちゃんの…」いつもの初美とは趣を異にする端正な表情で、一言ずつ夫に説明する「親戚と言えば、確かに親戚だと思います。従姉妹のお婿さんだと、思うのです」
「すごい人ですね、頑頭さんは」亮二は子供が笑うように顔をほころばせた「少し前から、一緒に仕事できないかと狙ってまして、ようやく、という感じですかね」
「お仕事がらみなんですね」初美の貌が弛む、あきらかに安堵の表情を浮かべた「優秀な方だと思います。実家でも評判でしたし…」
「やはり、遠縁であることぐらいは、お話しするほうがいいのかな?」
「だめです」
突然の剣幕に亮二は驚いて初美を見た「あ、そ、そうですか」
「絶対、だめです」
実家がからむと途端にこうなる。あまりに険が立つので、亮二はいまだに理由を聞く機会を逃していた。
初美自身も少し反省したのか、声が柔らかくなった「頑頭さんも、轍ちゃんも良い人たちです。お子さんがお生まれになったと聞いておりますので、本当はお会いしたいのですけど…」
「あまり気乗りしないのであれば、とくには…」
「あの家は魔窟です」初美は言い切った「寄る者すべてを不幸にします。とくに殿方はけっして近寄ってはいけません」
「あのぉ…」亮二は言い淀んだ「頑頭…さんもですか?」
「頑頭さんは大丈夫…だと思います」言ったものの初美も口調は怪しげだった「弓手の家は吉祥のことをよくご存知ですし、なにより轍が頑頭さんに指一本触れることを許さないでしょう」
「誰が触れようとするんです?」
「吉祥の婿以外すべて」初美の言葉にはすべてを諦めた者の念がこもっていた「あの一族、完全な女系家族で女しか生まれません。その上、好い男と見ればすぐに自分のものにしようとする。永年家を守り続けてきた業のようなものだ、なんて取り繕ってますが、ただ単に極端に男好きなだけです。好い男が現れれば親も子も姉妹も関係ありません」
「は、はぁ…」
「ですから」言いすぎたか、と初美も思ったらしい、こほん、と小さく咳払いした「亮二さんも吉祥の本家に行こうなどとはけっして思わないでくださいね」
「頑頭さんは良いんですよね。その、お婿さんだから」
「もちろんです」初美は答えた「昔から利発なお子さんでした。問題あるのは吉祥の家だけです。頑頭さんなら家のこともよくご存知でしょうから、その点も安心です」
ついつい力が入ってしまいました、初美さんは詫びた「さめる前に召し上がってください。ワインもどうぞ、今日はシラーズの良いのがありました」
初美さんは生姜焼きの隣にワイングラスを置く。亮二も勧められるままに食卓に着いた。
「それにしても」単衣の右袖を左手で押さえながら、初美さんはグラスにワインを注ぐ「弓手の坊ちゃんとは、もう20年は会っていません。さぞかし立派になられたんでしょう?」
それは、もう…
生姜焼きを摘む合間に嬉々として頑頭のことを語る亮二を、初美も嬉しそうに眺めている。
「…そうだ。初美さんも頑頭さんに会ってみませんか? なんなら家にお招きしても」
「…それは、だめです」
「だめですか…」
はい、と初美は力なく答える「轍ちゃんは悪い子ではありませんが、頑頭さんが我が家に来たなどと言うことが知れたら、恐ろしいことになります。それに、そういうことは吉祥の家相手に隠し通せることではありません」
「…は、はぁ」
「吉祥家内の揉め事というのは、それ以外ないんです。それが嫌で、初美は家を出ました」
「…そうですか」
詳しいことは聞くべきではない、と言うことぐらいは亮二にも想像はできた。それに…
さっきから、坊ちゃんと呼ぶときの初美の表情に、違和感、というより、既視感、のようなものを亮二は感じていた。遠い日、初めて会ったあの食堂でも初美は同じ貌をしていたのだ。
気取られまい、としたのが不味かったのだろう。
涙を抑えるように貌を歪ませ、初美は不自然な笑いを浮かべた。
ーーそれが吉祥の女です
「好きです」
それは亮二のほうの追加の約束で、その日の二度目の言葉だった。
食卓から立ち上がった亮二は、初美に寄り添い抱きしめた。初美はもはや堪えきれず、亮二の胸の中でさめざめと涙を流していた。




