4年11ヶ月10日 14時間37分 前
「やあ、遠いところすまないな」
「いや、こちらこそ、ユータでは都合が悪いので、代わりに来た。インチ、インチワーニ・ガルベストンだ」
「なんだって」教授が驚いて声を上げた「申し訳ないんだが、もう一度、名前を言ってくれ」
「インチワーニ・ガルベストン」
「すまん、今すぐ行かないといけないか? その、時間は…、少しでいいから時間をもらえないか?」
インチは壁時計の秒針を見た。3秒数えて答える「ぎりぎりネバって20分かな。その後だと46時間後になる」
教授はスマートフォンにかじりついて大声をあげた「ビザンツ先生、アル、いますぐ来てくれ。教授室、いますぐだ」
教授のあまりの剣幕に大急ぎで駆けつけたビザンツは、教授室に入るなり息を飲んだ。
ーーインチ
「やあ、アル、久しぶりだ」言ってしまってから、インチはちょっと困った顔をした「久しぶりだ、でいいんだよな」
「いいんだよ。久しぶり、で。あいかわらず時間のことは苦手なんだな」
「まあ、そうだ。今回も、それほど時間はないと思う。ところで…」インチは困惑したままの顔を教授に向けた「一緒に行くのか?」
「一緒に行かない」教授の代わりにアルが答えた。
そうか、とインチが安堵している。インチは顔に出やすい。
「まあ、あと15分くらいか」ここで気がついたが教授はずいぶんと厳つい宇宙服を着ている「俺のことは気にせず、2人でしゃべってくれ」
「教授、その宇宙服は?」
「俺のことはいいって言ったろ」そう言って腕を振る教授だが、その動作もぎこちない「まだ亜空間は慣れないから、変なとこ出たらこまるからな」
「亜空間走路使うんですか?」
「コロナウィルスのせいで航空便が取れなかったんだ。感染の危険もある。亜空間を使うほうが安全だ」
「まあ、そうですね」
「だからぁ、俺のことはいいから」教授がたまらず大声をあげた。アルとインチ交互に顔を見比べる「なんか話すことないのか、その、お互いに…」
「元気そうで何よりだ」
「そっちも」
「ところで、何かしゃべることある?」
「いや…、ああ、そうだ」アルは何か思いついたらしく微笑んだ「また、会えるかな? キミと」
「そりゃ、当然、会えるさ。当たり前だろう」
「良かった。じゃあ、とりあえず話すことはないかな」
「ということだけど、どうする?」
インチに促された教授は渋い顔をしていたが、無言でヘルメットのバイザーを閉めた。教授とインチの周囲が球形に歪み、不意にもとの状態に戻った時、2人の姿は消えていた。
ーーじゃあ、あとはこの道をまっすぐ行けば良いから
教授に言い渡したインチは、すぐに消えてしまった。亜空間走路を使った初めての長距離移動だったが、教授はその余韻を噛み締めつつも、新しい環境に馴染むことに神経の大部分を切り替えつつあった。
丘の上である。
頂こそ平らで、下草のあいだに土が見え隠れしていたが、少し下がると段をつけて綺麗に整地されている。2メートルほどの幅の農道はまっすぐで、インチの言う通り迷いようもなかった。教授はヘルメットを脱いで左手にぶら下げると、道に沿って下っていった。
まっすぐだよ、と言われたにも関わらず、教授はあちこち見回している。10メートル四方に四角く区切られたエリアそれぞれにいろんな野菜が植えてある。とうもろこし、キャベツ、トマトなど、季節はバラバラなのに、収穫時期と、育成時期で区切られている、そんな奇妙な農園だった。
その収穫期のエリアに3体のロボットを従えた娘がいた。作業着に麦わら帽をかぶっている。長い髪をふたつに分けて結んでいる。
ここは日本だったな、と思い出した教授は、彼女に話しかけた。
「イヨウ、ベッピンサン、ゴキゲンイカガ?」
麦わら帽の彼女は、じっと、教授を見ている。うん、あまり正しい日本語ではなかったのかもしれない。警戒心ありありなのは見た目でわかるが、不思議にも、彼女のほうから声をかけてきた。
「お前どこから来た?」
「NewYork」
英語のほうがまだマシか。教授も英語で話しかけてみた。
「何してるの?」
「農場の管理人」そして彼女は聞き返した「お前は?」
教授と言いかけて、やめた。教授はもうやめたんだった。さて、どうするか…
「俺も」
「同じ? どう言う意味?」
「工場長?、いや〜、工場長だよ」
我ながらめちゃくちゃではある。でも、工場長ならいけるかと思った。あせった教授ー工場長は、いきなり訊ねた。
「ユータくんに会いに来たんだ。ユータくんだよ」
「ああ、坊ちゃんか」管理人さんがつぶやく「坊ちゃんなら、この道まっすぐ行った家にいるよ」
「坊ちゃん?」
「奥さんの息子さんだから、坊ちゃんだよ」
「奥さん? ああ、そういうことか」
ユータくんのお母さんにはまだ会ったことはない。いろいろ噂は聞いているが、奥さんだって言うなら奥さんなんだろう。
「ちなみに、ユータくんのお父さんは何て言うんだ?」
「旦那さん」
なんとなくおかしいような気もするが、ローマではローマ人みたいにするわけだし、ここは日本だ。日本人のやり方にしよう。
「いろいろ、ありがとな、俺はドゥーマ・アッシャーだ。よろしくな」
「工場長じゃないのか?」管理人さんは、困惑した顔で訊ねた「さっき、そう言った」
「あ、まあ、工場長でいいけどさ」こんどは工場長が面食らう番だ「名前だよ、名前。アンタ、名前はなんて言うんだ?」
「名前?」管理人さんの困惑がますます深くなる「名前、要るのか?」
「あ、いや、どうだろ?」工場長は頭をフル回転させた。ここが踏ん張りどころだ。正しい選択をしないといろんなものがダメになる「あんまりたいしたことじゃ無い気もするな…。そうだ、晩飯は何だ?」
「ばんめし?」
「晩ごはんだよ」
ばんごはんは奥さんが作る、と管理人さんが言った「アタシは材料を持っていくだけだ」
「へぇ、何持ってくんだ? 俺は肉が好きだな」
「鶏肉と卵がある。好きなら持っていってやろう」
「ほう、そいつはすごいな。初日からご馳走だ」
管理人さんは、突っ立っているロボットに二言、三言告げた。ロボットたちはキャベツを採り始めた。
「なんかアンタは危なっかしい」管理人さんは工場長の前に出た「連れてってやるから、付いてきな」
「え?」
「行くんだろ? 坊ちゃんのところへ」
大急ぎで追いかけると、工場長は管理人さんに並んだ。管理人さんは歩きながら、しげしげと工場長を見上げる。
「優男で若いのはしかたないが、アンタ髭生やしたほうがいい」
「え、えぇぇ」
「工場長ってな、もっと威厳が必要なんだよ。アタシはそう思う」
さすがに、
こんなことを言われて言い返せるほどの胆力は工場長にはなかった。
工場長は管理人さんと並んで歩いたが、いつにもなく心が晴れやかだった。こんなおかしな女と出くわしたのは初めてだったし、そもそもが、こんな可愛い娘と並んで歩くなんて、生まれてこの方、経験したことがなかったからだ。




