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カニカマ高専

作者: 猫寿司

◆◆◆ 第一章「カニカマライン」 ◆◆◆


「カニカマ・マインド! 我々はカニではない、だがカニを超えろ!」


蛍光灯の光を浴びて、黄ばんだテプラで打ち出された謎めいた標語が、蒸気のこもる工場内に虚しく掲げられている。田村航平は、その標語の下を流れるベルトコンベアを、死んだ魚のような目で見つめていた。いや、死んだ魚はまだいい。加工される前の原型を留めているだけマシだ。俺はもはや、どこの馬の骨とも知れぬ魚たちの、アイデンティティを根こそぎ奪われたすり身に近い。


高専を卒業してまだ数年。都会で一旗揚げるほどの野心もなく、かといって実家の小さな町工場を継ぐほどの覚悟もない。地元の安定企業だという評判を鵜呑みにし、ささやかながらも地に足のついた社会人生活を夢見て「丸川食品」の門を叩いた。最初の数ヶ月は、日本の食卓を彩る「ものづくり」の一端を担うことに、かすかな誇りさえ感じていた。だが、その夢はとうにカニカマのすり身と一緒にラインの向こうへ消え去り、今ではすっかりカニ風味になっていた。


航平の仕事は、猛烈なスピードで流れてくるカニカマのパックを検品し、段ボールに詰めることだ。ただの検品ではない。丸川食品には、創業者のカニカマ哲学が凝縮された、恐ろしく厳格な検品マニュアルが存在する。その一つが「情熱グラデーション検査」だ。カニカマの表面を彩る赤色のグラデーションが、社内規格「カニレッド7号」の基準を満たしているか、特殊なカラーチャートに透かして一瞬で判別しなくてはならないのだ。


「航平ちゃん、また魂がカニカマと一緒に流れてっちゃってるよ! そのままコンベアに巻き込まれて、あんたも情熱グラデーションの一部にされちゃうよ!」


隣のラインから、けたたましい笑い声が飛んできた。声の主は、この工場のパート主婦たちのまとめ役であり、「音速のパッカー」の異名を持つ佐伯美智子だ。四十代も半ばに差し掛かった彼女は、目にも止まらぬ速さでカニカマをパックに詰めながら、涼しい顔で冗談を飛ばすことができる唯一の人間だった。その手さばきはもはや職人芸の域に達しており、パックされたカニカマが心なしか誇らしげに見えるほどだ。しかし最近、その笑顔の裏に隠された疲労の色を、航平は感じ取っていた。彼女がこっそり腰に、丸川食品が福利厚生の一環として開発した「カニカマ成分配合(キトサン入り)鎮痛湿布」を何枚も貼っているのを、航平は知っている。


「うちらなんて、カニカマみたいなもんよねえ。安くて、便利で、そこそこ人気もあるけど、結局は『本物』の正社員じゃない。風味だけってやつ?」


美智子の自虐ギャグに、周りのパート主婦たちが乾いた笑い声を上げる。しかし、正社員としてこの工場に就職したはずの航平には、その冗談が笑えなかった。自分の給与明細を思い出す。正社員とは名ばかりの、パートと大差ない時給換算。ボーナスはカニカマ現物支給だった年もある。しかも、ちょっと崩れたB級品だ。俺も、カニ風味の労働者なのかもしれない。


その日の深夜。繁忙期でもないのに、工場は煌々と明かりが灯っていた。ライバル企業が発売した「ウニ風味かまぼこ」に一方的に対抗心を燃やした還暦の田辺工場長が、「我が社は『伊勢海老風味カニカマ(ただし香料のみ)』で迎え撃つ! 今のうちに作れるだけ作っておけ!」と無茶な号令を発したからだ。カニですらない。もはやエビだ。アイデンティティの崩壊が止まらない。


航平の視線の先で、美智子の指先が微かに震えている。いつもは正確無比な彼女の手つきが、今日はわずかに乱れ、パックの角を潰してしまっている。彼女は誰にも気づかれないように、素早くそのパックをラインの下に隠した。完璧主義者の彼女にとって、許しがたいミスだったのだろう。


「課長、もうみんな限界です。美智子さんも、顔色がカニレッド7号じゃなくて、完全にカニホワイト1号ですよ……」 航平がおずおずと、定年を数年後に控えた鈴木課長に進言するが、課長は神経質そうに眉をひそめるだけだった。


「工場長命令だ。俺に言うな。それに、代わりならいくらでもいるんだぞ、田村くん。カニカマのすり身と同じだ」


その言葉が、マニュアル通りの定型文のように響いた瞬間だった。ガシャン、と金属が床に落ちる大きな音がした。見ると、美智子がラインの脇で崩れるように倒れていた。しかしその姿は、まるで悲劇のヒロインのように美しく、右手には完璧な「情熱グラデーション」を持つカニカマが一本、固く握りしめられていた。


「美智子さん!」


航平が駆け寄ると、彼女は真っ青な顔で、浅い呼吸を繰り返していた。過労だ。それは誰の目にも明らかで、そして予見されていた結末だった。しかし、鈴木課長は救急車を呼ぶよりも先に、工場長のオフィスへ報告に走った。その背中が、ひどく小さく、情けなく見えた。


航平は、ぐったりとした美智子を抱えながら、煮え繰り返るような怒りと、何もできなかった自分への無力感に震えていた。伊勢海老の香料が甘ったるく充満する工場で、航平は初めて、はっきりと「闘わなければならない」と思った。



◆◆◆ 第二章「労働組合はじめました」 ◆◆◆


美智子の一件は、幸いにも大事には至らず、彼女は数日の休養を経て職場に復帰した。しかし、工場の空気は、まるで湿った段ボールのように重く、よどんでいた。


航平はまず一人で鈴木課長に作業環境の改善を直訴したが、「俺も板挟みなんだ。我慢してくれ」と繰り返すばかりで話にならなかった。次に数人の同僚に声をかけたが、「家族がいるから」「事を荒立てたくない」と怖気付かれてしまった。


「労働組合、作りませんか」


諦めかけた航平が最後に頼ったのは、昼休みの喫煙所にいた美智子だった。彼女は深く煙草の煙を吐き出しながら、航平の目をじっと見た。


「……本物のカニはさ、漁獲量が決まってて、漁業法だかなんだか知んないけど、法律で守られてるんでしょ。なのにさ、うちらカニカマは獲り放題、使い捨て放題ってわけだ。やってらんないよね」


その一言が、空気を変えた。美智子が腹を括ったことで、他のパートたちも恐る恐る同調し始めた。かくして、「丸川食品労働組合」とひとまず名付けられた組織は、ファミレスのドリンクバーでひっそりと結成された。美智子がメロンソーダを片手に「このドリンクバーのように、我々の権利もおかわり自由であるべきよ!」と高らかに宣言し、ささやかな拍手が起こった。


要求書を携え、航平と美智子は工場長室のドアを叩いた。田辺工場長は、カニの甲羅のように分厚いレンズの奥の冷たい目で二人を一瞥すると、要求書に目も通さずに言い放った。


「嫌なら辞めろ。代わりはいくらでもいる。君たちにはカニカマ・マインドが足りん! 私など、若い頃は給料の代わりにカニカマの切れ端で飢えをしのぎ、その塩分で喉の渇きを覚えることで己を鍛えたものだ!」


意味不明の武勇伝に言葉を失う二人を前に、工場長は恍惚の表情を浮かべている。交渉は決裂した。


「こうなったら、ストライキよ!」 ファミレスに戻った美智子が、ヤケクソ気味に叫んだ。


そして決行された、丸川食品史上初のストライキ。その日は、記録的な大雪だった。雪に埋もれた工場の門前で、数人が手作りのプラカードを凍える手で掲げている。プラカードには「我々はすり身じゃない、人間だ!」「そのカニカマ、誰かの涙味」といった、切実なスローガンが並んでいた。


すると、その背後に大型バスがゆっくりと滑り込んできた。バスから降りてきたのは、無表情な若者たちだった。派遣会社から日払いで動員された、ただのアルバイトだ。


「ここっすか。寒いなー。早く終わらせてネカフェ行きてえ」


彼らはストライキの横断幕にも、プラカードを掲げる航平たちにも一瞥もくれず、スマホでゲームをしながら黙々と工場に吸い込まれていく。その中の一人が、航平の顔を見てヘラヘラと手を振った。高専の同級生だった。


「おー、航平じゃん。こんなとこで何やってんの? あ、これ? 派遣会社に登録したら、すぐ紹介されたんだ。日給1万円。楽な仕事だって話だし、ラッキーだよな」


悪意のない言葉が、鋭利な刃物のように突き刺さる。それを見て、美智子は遠い目をした。

――カニカマは、代替可能。


ストライキはわずか二時間で終わり、翌月の給与明細には「諸事情調整額 ▲5,000円」の無慈悲な赤文字が並んでいた。



◆◆◆ 第三章「蟹工船」 ◆◆◆


ストライキの惨敗から数日後の夜。航平は、築40年の木造アパートの一室にいた。六畳一間、風呂なし、共同トイレ。壁には茶色いシミが地図のように広がり、どこからか隙間風が吹き込んでくる。夕食は、スーパーの見切り品だった半額のカップ麺と、会社から現物支給されたB級品の崩れカニカマだ。


テレビもない部屋で、航平はスマホの画面をタップした。電子書籍の『蟹工船』。こんな状況だからこそ、先人たちの闘いに何かヒントがあるかもしれない。そう思ったのだ。


『「おい、地獄さ行ぐんだで!」――そう誰かが云った。』


冒頭の一文で、もう心が折れそうだった。陰惨な描写、過酷な労働。読んでいるだけで、部屋の寒さが一層身に染みる。自分の置かれた状況と重ね合わせようにも、あまりにスケールが違いすぎた。船の上ではないし、暴力的な監督もいない。ただ、静かで、陰湿で、代替可能という名の現代的な地獄がここにあるだけだ。


結局、航平は最後まで読まないうちに、カップ麺のスープも飲み干さずに眠りに落ちてしまった。スマホの画面には、照らし出された『蟹工船』のページが、まるで墓標のように静かに光っていた。


そんなある日、思いがけない人物が工場を訪れた。

「おーい、田村! こんなところで燻ってたのか!」


聞き覚えのある大声に振り返ると、そこに立っていたのは、航平の高専時代の恩師である松原先生だった。四十代の熱血教師は、作業着に身を包んだ航平を見て、目を丸くしている。


「先生こそ、どうしてここに?」

「決まってるだろ、工場見学だよ。最近の若いモンは、社会の厳しさを知らなすぎるからな。俺が直々に、ものづくりの現場というものを…」


そう言って松原が後ろを指差すと、そこには見慣れた母校の制服を着た十数人の高専生たちが、好奇心と若干の退屈さが入り混じった顔で立っていた。


松原先生は、鈴木課長に案内され、得意満面で生徒たちに解説を始めた。

「いいか、君たち! この高速ラインこそが、日本の技術力の結晶だ! この効率化された生産現場が、我々の食卓を支えているんだぞ!」


先生が熱弁を振るう最中、生徒たちの視線は別の場所にも注がれていた。ラインの速度についていけず、小さなミスをしたパートの女性を、生徒たちの前であるにもかかわらず、鈴木課長がネチネチと、しかし周囲には聞こえない絶妙な声量で叱責している。女性は俯き、ただ黙って手を動かし続けていた。


その直後、老朽化したラインの機械がけたたましい音を立てて不調を起こし、カニカマがマシンガンのように断続的に射出されるというアクシデントが発生した。パートさんたちが「あらあら」「また始まったよ」と慣れた手つきで身をかがめて避ける中、生徒たちはポカンとしている。


一人の生徒が、冷静な口調で鈴木課長に質問した。

「すみません、このコンベアの駆動モーター、型番からすると推奨される負荷を大幅に超えて稼働させていませんか? 発火のリスクも想定されますが、安全対策は? それと、先ほど従業員の方を叱責されていましたが、あれは日常的な光景なのですか? 精神的な負荷は生産性に影響しないというマニュアルでもあるのでしょうか? あと、さっきからカニカマが射出されてますけど、あれは仕様ですか?」


その的確すぎる三段攻撃に、鈴木課長の顔からサッと血の気が引いた。彼は安全管理責任者でもあったのだ。松原先生の顔も、みるみるうちに曇っていくのが航平にも分かった。彼は、自分の教え子が、こんな危険とパワハラが隣り合わせの場所で、生気のない顔で働いているという現実を目の当たりにしたのだ。彼が教室で語ってきた「社会」や「仕事」という言葉が、いかに薄っぺらかったかを突きつけられていた。


その夜、松原先生から電話があった。

「田村、すまんかった。俺は、何も知らなかった。お前の後輩たちも、相当ショックを受けていた。『あのカニカマ、もう食べられない』とか言ってたぞ……」

電話の向こうで、先生は悔しそうに声を震わせていた。



◆◆◆ 第四章「政治という名の分厚い壁」 ◆◆◆


後輩の高専生がSNSに投稿した「#ブラックすぎるカニカマ工場」の動画は、マシンガンカニカマの面白映像も相まって、瞬く間に拡散された。テレビが取り上げ、会社の株価は下がり、田辺工場長は「悪質なフェイクニュースだ。あのカニカマ射出は従業員の士気を高めるためのアトラクションだ」と会見で顔を引きつらせた。


「今だ、田村くん! 世論を味方につけて、政治を動かすんだ!」 松原先生は息巻いたが、現実は分厚い壁だった。


まず訪ねたのは、リベラルを標榜する左派政党の地元支部。応対に出たのは、アイロンの効いたシャツを着た、いかにもインテリ然とした党員だった。彼は航平の話を熱心に聞いた後、同情的な表情でこう言った。「お気持ちはよく分かります。労働者の搾取は、後期資本主義における構造的な問題であり、由々しき問題です。ただ、我々が今優先的に取り組んでいくべきなのは、よりインターセクショナルな視点から、声なき声に耳を傾けることなのです。大変申し上げにくいのですが、田村さんのようなシスジェンダーでヘテロセクシュアルの日本人男性は、既存の権力構造の中ではマジョリティ側に属します。あなたの問題を優先することは、ダイバーシティ&インクルージョンの観点から見て、いささか…。それより、このカニカマというプロダクト自体が、ある種の文化的盗用にあたらないか、という視点も必要かもしれませんね。カニへのリスペクトはありますか?」

航平は、自分が生まれて初めて「マジョリティ」という名の壁にぶつかり、労働者である前に属性で判断されるという理不尽を食らった。


次に頼ったのは、地元選出の保守系大物議員。後援会の事務所で待っていると、恰幅のいい議員本人が現れ、航平の肩を力強く叩いた。

「君か! SNSで話題の若者は! その行動力、素晴らしい! だが甘い! 田村くん。君の言うことも分かる。だが、物事には順序というものがある! この国を支えてこられた先輩方、つまり高齢者の皆さんの年金と医療を、まず盤石にせねばならんのだ。国の予算は無限ではない。今の君たちの苦労は、いわば未来への投資、いや、この美しい日本という国体を支えるための尊い礎なのだよ! そもそも、最近の若者は権利ばかり主張して義務を果たさん! 感謝が足りんのだ、感謝が! 黙って働く美徳というものをだね…」

議員は航平の訴えをほとんど聞かず、一方的に精神論を熱弁すると、「まあ、これでも食べて元気を出したまえ」と、事務所の机にあった金箔がまぶされた桐箱入りの「開運!必勝カニカマ」を一本くれた。若者の労働問題は、高齢者の票と、美しい精神論の前では、高級カニカマ一本ほどの価値もなかった。


絶望感が航平を包み始めた頃、鈴木課長から情けない声で電話がかかってきた。

「田村くん…頼むから、もうやめてくれ……。俺には、まだ住宅ローンが20年も残ってるんだ……。それに、この前娘がな、『パパのお仕事、カニカマ作る人なんでしょ? カッコ悪い』って言うんだ……。俺の父親としての威厳も、もうすり身にされちまったよ……」

その声は、政治家たちの力強い演説よりも、ずっとリアルな重みを持っていた。



◆◆◆ 第五章「カニカマ高専」 ◆◆◆


SNSの騒ぎも、政治家への陳情も、結局は空振りに終わった。会社は、二度目のストライキを計画していた航平たちに対し、巧みな切り崩し工作を行った。生活という弱みを突かれ、仲間は一人、また一人と抜けていった。


組合は崩壊し、航平は田辺工場長から「自己都合退職」という名の解雇宣告を受けた。


実家に戻り、無気力な日々を過ごしていた航平の元を、松原先生と数人の後輩たちが訪れた。

「先輩、すみませんでした。俺たちが動画を上げたせいで……」

「いや、お前らのせいじゃない」 航平は力なく首を振った。


「田村、いや、田村くん。俺たちにも、何かできないだろうか」 松原先生が切り出した。「君が工場でこっそり撮っていた写真や、給与明細のデータ。そして、君自身の体験談。それを、もっと多くの人に、正確に伝えることはできないだろうか」


後輩の一人が、ノートパソコンを開いた。

「俺たち、サイトを作ったんです。感情的な告発じゃなくて、データで示すサイトを。給与と労働時間を入力すると『カニカマ偏差値』が算出される機能も付けました。先輩の持っている情報が、最後のピースなんです」


サイトのタイトルは、『カニカマ高専』。それは、感情的な糾弾ではなく、高専生らしい、データと技術に基づいた冷静な告発のプラットフォームだった。航平は、自分が集めてきた証拠を、彼らに託した。解雇された今、失うものはもう何もなかった。


航平が提供した内部資料によって、『カニカマ高専』は、ただの学生サイトから、無視できない調査報道メディアへと変貌を遂げた。サイトには、同様の境遇に苦しむ人々からの声が、日に日に増えていった。


だが、反撃はすぐにやってきた。ある日、航平の実家に、丸川食品の顧問弁護士を名乗る人物から内容証明郵便が届いた。なぜかカニカマのすり身を練り込んで作られた、妙に生臭い紙に「名誉毀損および営業妨害、不正競争防止法違反(営業秘密の漏洩)」という物々しい文言が並び、サイトの即時閉鎖と謝罪がなければ法的措置に移行すると書かれていた。


「お前、一体何てことをしてくれたんだ!」 郵便物を見た父が、声を荒らげた。「たかがカニカマのことで、家族まで巻き込む気か! 男なら、カニカマの一本や二本、文句言わずに飲み込んで黙って働くのが一番なんだ!」

母はただ泣いているだけだった。航平は何も言い返せなかった。「男なら」という謎のカニカマ精神論が、鉛のように重くのしかかる。


松原先生からも、憔悴しきった声で電話がかかってきた。「学校にまで、会社から抗議が来た。俺の立場も、かなりまずいことになっている……」


後輩たちを集めた公民館の空気は重かった。

「どうする、先輩……」

「……サイトは、一旦閉じよう」 航平は、苦渋の決断を下した。「先生や、みんなの未来を潰すわけにはいかない」


サイトは閉鎖された。丸川食品の勝利宣言のようなプレスリリースが、地方紙の片隅に小さく載った。


数週間後、航平はハローワークの待合室で、硬い椅子に座っていた。職員は同情的な目をしながらも、「丸川食品さんと揉めたとなると、この辺りでの再就職は、正直かなり厳しいかもしれませんね」と告げた。世界は何も変わらなかった。それどころか、自分は社会から弾き出されただけだった。


その帰り道、ファミレスに立ち寄った。ぼんやりと窓の外を眺めていると、一人の青年がおずおずと声をかけてきた。

「あの……田村さん、ですよね? 『カニカマ高専』、見てました」


サイトを通じて連絡してきた、別の食品工場で働く青年だった。

「うちの工場も、全く同じなんです。ちくわ工場なんですけど、『竹輪の穴のように心を無にしろ』が社訓で……」 彼は、震える手でスマホの画面を見せた。


「……結局、何も変えられなかったよ」 航平は、自嘲気味に呟いた。「サイトも閉じたし、俺はクビになった。あんたに教えられることなんて、何もない」


すると、青年は強く首を振った。

「そんなことないです! あのサイトがあったから、俺は一人じゃないって思えた。自分の給料がおかしいって、初めて気づけたんです。それに……」

青年はスマホを操作し、ある画面を見せた。それは、「DeepCrab」と名付けられた、海外の匿名掲示板だった。そこには、『カニカマ高専』に掲載されていた全てのデータが、何者かの手によって転載され、アーカイブとして保存されていた。スレッドのタイトルはこうだ。

『Marukawa Foods's production line has critical vulnerability!』(訳:丸川食品の生産ラインには致命的な脆弱性がある!)

スレッドを読み進めると、単なる機械の欠陥だけでなく、低賃金労働やパワハラといった労働問題が「安価な製品を生み出すための構造的な欠陥(Structural Flaw)」であり、「経営上の脆弱性(Management Vulnerability)」だと指摘されていた。世界中のギークたちが、日本の労働問題を面白半分に、しかし的確に分析し、議論を交わしていたのだ。


「サイトは消えても、事実は消えない。そう教えてくれたのは、田村さんたちです。俺、諦めません」


航平は、画面に映る無機質な文字列を、ただじっと見つめていた。

革命は起きなかったし、英雄も生まれなかった。自分は敗北した。だが、自分が灯した小さな火は、完全に消えたわけではなかった。見知らぬ誰かの心の中で、まだ静かに燃え続けている。


彼の戦いは終わった。だが、日本全国の“カニカマ”たちの、声なき声の反撃は、まだ始まったばかりだった。

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