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第一話「春の嵐」

 時は、明冶九年、もうじき桜が満開になろうとするある夜のこと


月明かりの下、石垣と松陰が長く続くお掘り沿いの道を、一人の男を乗せた黒塗りの車が走ってゆく


男は、心を落ち着かせる様に、月明かりの反射するお堀の水面を車窓から横目に眺めていた


ひとしきり走った頃、まだ江戸城の面影を残す大きな皇居の裏門へと到着した


男が車のドアの窓硝子を下ろすと、門衛の若い皇宮警察官が誰であるか確認しようと近付いて来た


警官は、烏帽子に白い狩衣を纏ったまだ年若なその男の端正な顔を確認し「これは土御門様、お待ち致しておりました」と声をかける


「夜更けに申し訳ない」頭を軽く下げながら静かだが、凛とした声で男が返す


男の名は土御門晴正(つちみかどはるまさ)、年若であるが、陰陽博士にまでなった程の実力の持ち主である


中に控えていたもう一人の警官は、その声を聞いて直ぐ受話器を取りその旨を伝える


受話器が置かれ暫くすると、ゴォ…ギィィ…と木と金属が軋む鈍い音をたてながら、重厚な門がゆっくりと開いてゆく


車が門を通り過ぎるのを警官達は敬礼で見送ると、再び門は閉ざされた


正殿の玄関前に車が到着すると、晴正はそこで待っていた侍女達に付き添われながら、控えの間へと向かった


玄関正面の壁には、墨と金泥で描かれた巨大な富士が飾られている


それに目をやりながら左へ進むと、壁に取り付けられた、優しい明るさの豪華な電灯が連なる、インペリアルブルーの絨毯が引かれた廊下が奥へと続く


少し歩くと、美しい木目の洋風な扉の前に到着した


侍女達によって扉が開かれ、中へと通される


部屋には、心の落ち着く何とも言えぬ好い香りの香が焚き染められている


部屋は簡素ではあるが、白木の歴史を感じさせる造りで、中央に置かれた美しい木製テーブルの上には、黒漆の螺鈿の箱が一つ西陣織のランナーの上に飾られていた


窓際には、大きな備前焼の壺に桜が一枝生けてあり春を感じさせる


晴正は、テーブルの前の椅子に腰掛けるとそれらを暫く眺めていた


スッと身体に馴染む形の、実に座り心地の良い紅いビロードの張られた椅子である


やがて、向かいに見える扉がゆっくりと開き、白髪で小柄な燕尾服姿の侍従長が入って来た


「晴正殿、帝のお支度が整われるまで今暫くお待ちを…」侍従長は歩きながら声をかけてきた


「この様な夜更けに誠に申し訳ございません」晴正は立ち上がり深く頭を下げた


「何か異変でございますかな…」侍従長のゆったりとした声に晴正は「はい」と答えながらゆっくりと頷いた


二人が椅子に腰掛け少し言葉を交わしていると、向かいの扉から侍女が入って来て「帝がお待ちでございます」と声を掛けて来た


その扉から部屋を出ると、和風な蝋燭の意匠を凝らした美しい電灯が壁に並ぶ、光沢のある深緑の厚い絨毯の引かれた長い廊下を二人は早足で歩く


「もうじき桜が満開だというに…」ポツりと侍従長が呟いた


「春の嵐にございまする」晴正は続ける


やがて、木目も美しく、彫刻が細かく施された見た者が圧倒される程大きな扉の前に到着した


「土御門殿にございます」侍従長が扉に向かい声をかける


「うむ」中から声がすると、左右の侍女達によって扉が開かれた


侍従長を先頭に、晴正が続けて中へと入る


「この様な夜更けに大変申し訳御座いませぬ、急ぎお耳に入れたき事があり、晴正罷り越しました」晴正は深々と頭を下げる


帝は、光沢を放つ大きな木製テーブルの正面に着座されている


きっちりと七三に整えられた黒髪にはっきりとした眉、口から顎に立派な髭を蓄えた、言わずとも気品に満ち溢れた御顔立ちである


服装は、まだ少し馴染まぬ様子の高級感溢れる洋装を御召になられていた


「その様な挨拶はよいから、早うこちらへ参れ」帝の親しみの籠った声に、晴正は側まで進み出た


「お前が急ぎ来たと言うことは、春の嵐であろうな…」ゆっくりと帝が続ける


「はっ、先程暗部の者より不穏な霊力を感知したとの報告と共に、艮の空に凶星の赤い影を捉えましてございまする」


二人の間に一瞬にして張り詰めた空気が漂う


「いよいよ時が来たか… 爺あれを…」帝の声がそれを打ち破る


「ははっ」侍従長は、帝の背後の飾り戸棚から紫の絹で包まれた長い木箱を取り出し、テーブルの上に静かに置くと紐を解いて包を広げた


帝が箱を開けると、中から紅い組紐の柄と菊の花を意匠とした金色の鍔に見事な金蒔絵の富士が鞘に施された一振りの太刀が現れた


「我が愛刀日輪である これを持て…」帝は立ち上がると、晴正に真っ直ぐな眼差しを送りながら、その太刀を手に取り差し出した


帝がこの太刀を渡すと言うことは、帝都防衛の全権を晴正に託すと言う事の他ならず、全幅の信頼をおいている証もであった


「帝の魂とも言えます日輪を私めなどに…この晴正、命に代えましても帝とこの帝都を必ず守り抜きまする…」晴正は、感動に震えながら両手で恭しく太刀を受け取ると、帝の目をしっかりと見詰め返す


窓から見える東の空が薄明るく染まり始めていた

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