// 1-4 船旅
頬を、湿った風が撫でていく。
少し生臭いような、それでいて懐かしさを感じる潮風を感じながら、私は船の進む先を見つめていた。
私たちは今、北の大陸へと向かう海路を進んでいる。
船を操るのは、この道25年のベテラン、アーサーさんとその仲間たちだ。
物心ついたころから船に乗っていたらしく、実年齢の割に、その腕は確かなものだった。
乗っている船はいわゆる帆船だ。詳しくはないが、海賊モノの映画とかでよく見るタイプの、15~25人乗りの船だった。
「まぁ、中学生が想像するRPGの船っていったらこうだよねぇ」
この世界は、中学時代に私が作ったゲームがベースになっているらしい。
あくまでベースといったのは、明らかに私が用意したものではない設定や描写が存在するからだ。
例えば、先ほども述べたアーサーさんの存在などがあげられるだろう。
アーサーさんのようなキャラは私の趣味ではない。いや、今の私的にはそれなりに惹かれるキャラクター性を持ってはいるのだが、中学時代の私は、ああいうタイプのキャラを好んではいなかったはずだ。
アーサーさん以外にも、例はある。その中で、最も謎が多いのは『主人公』であるサニアだけに閲覧できる『チュートリアル』だろう。
『主人公』であるサニアは、『メニュー』と呼ばれる何かにアクセスすることができる。
サニアはその『メニュー』を通じて、『チュートリアル』の他、『装備変更』などを行うことができる。
『メニュー』の存在自体、メタっぽいというかなんというか、この世界からだいぶ浮いた存在なのだけれど、かつてゲーム制作者であった私自身が用意したものであり、ゲームをベースにしている以上不思議ではない。
しかし、『チュートリアル』の記載内容については別だ。
私は直接閲覧することはできないが、サニアの話によると『チュートリアル』にはこの世界の外側の世界、つまり『現実』についての記載があるらしい。
その記述によると、私が『現実』に帰還するためには、この世界を『クリア』した際に発生するという『光』に触れる必要があるとのこと。
どう考えても、中学時代の私がそんな文言をゲーム内に残すはずがない。
色々と突っ込みどころはあるし、ゲームクリアを目指す以上危険が伴うわけだけれど...それでも、私が『現実』に戻るためには、その『チュートリアル』に従う他ないのだった。
船出する前、港町『ポートランド』で出会った老人の言葉を思い出す。
老人は、生きていくために働くのであって、働くために死んでしまっては意味がないと言っていた。
私は、生き残るために『現実』に戻りたいわけじゃない。
ただ、『現実』に戻れないのなら、この世界で生きていても意味がないと考えていた。
色々理由はあるけれど、やっぱり、ほら、両親とか妹とか、ついでにシュン君とかペタ沢とかさ。
そういう人たちが今も私の帰りを待っていると思うと、早く帰らなくちゃという気持ちになってしまう。
私って、自分で思っていたよりも人間味のあるやつだったんだなぁ。
そんな風に思いつつ、私は次の『波』に備える。
ん?『波』とはなにかって? そりゃあ...
と、不意に胃が痙攣するのを感じる。
反射的に、喉の奥がきゅっと引き絞られる。
「あっ、もうだめ」
私はとっさに、船の外に顔を出す。と同時に、盛大に魚の餌をまき散らす。
ーー船出から2時間、先ほどから私は、魚の餌やりに精を出していた。
「ま、まぁ、長距離の航海なんて初めてだしね...そりゃこうなるよね...」
私の三半規管はぼろぼろだぁ。
「ミヤ猫殿、調子はどうだ」
船室から、この世界の『主人公』であるサニアが顔を出す。
「へ、へへ。これくらい余裕っすよ、ほんと」
私は引きつった笑みを浮かべつつ、サニアに手を振る。
実際、もう出すものは出したので、だいぶ楽になったのは確かだ。
「サニアは、船酔いとか平気な人?」
私と比べ、サニアやアーサーさんたちは平然としている。
プロ漁師のアーサーさんたちはともかく、サニアは問題ないのだろうか。
「あぁ、状態異常には耐性があるからな。死霊系の幻惑呪文に比べれば大したことはないさ」
うーん、こっちはこっちでプロだなぁ。
「まっ、初めてにしては頑張った方っしょ。北の大陸まであと4時間くらいだしサ、気合入れてこーぜ」
相変わらずチャラチャラしているアーサーさんが、水筒片手に私を励ます。
「ほら、これ飲みなって。さっき渡し船のおっちゃんに酔い止め貰っといたんだ。ほら、イッキ、イッキ」
「あ、ありがとうございます...」
見た目は完全に飲み会でイッキを強要する悪いお兄さんだが、100%親切心なのでその言葉に従う。
味は良くないが、香辛料のような香りが喉を通じて鼻から抜けていく。
これは...いいものだ。
「ちょっと良くなりました、ありがとうございます。アーサーさん」
「いいってことよ。猫っち達には世界救ってもらうわけだしサ」
『猫っち』というのは、私のことなのか?
察するに、この世界での私の通り名になってしまった『ミヤ猫』から来ているのだろうけれど、もはや本名の『ミヤコ』は影も形もなくなってしまっている。
まぁ、ちょっとかわいいから許そうではないか。
「ははは...。まぁ、世界を救うのは主にサニアの方ですけどね」
「もちろん、さっちんも期待してるぜ? でも、猫っちだって、自分で思っているより良いところあると思うぜ?」
『さっちん』とはサニアのことか...いつの間にそんなに仲良くなったの?
私、何も聞いてないんだけど...。
と、ちょっとだけ嫉妬心が顔を出してしまったが、冷静に考えると私も『猫っち』なんて愛称に発展するほどアーサーさんと会話したわけではない。
おそらく、これもアーサーさんのキャラクター性なのだろう。
ところで、アーサーさんが言う、私の良いところってなんだろう。
少なくとも、『主人公』と並び立てるほどのものは持ってないよ?
「へへ、ご期待に沿えるようがんばります」
「おう、頑張れー」
そう言うと、アーサーさんは私から離れ、てきぱきと船員たちに指示を出していく。
どうやら、私のために作業の手を止めてくれていたようだ。
なにそれ、優しい...。
***
事前の私の予想に反して、船旅は絶好調だった。
嵐が来ることもないし、海峡を塞ぐ魔物にも遭遇していない。幽霊船やら海賊船なんていうアクシデントも発生していない。
このゲームでは、海路のイベントを用意していなかったのか?
ふと、そんなことまで考え始めてしまう。
海路で魔物に襲われるというのは、あくまで中学時代の私の趣味嗜好をトレースして、『あの時の私ならきっとこうするはず!』という予想に基づいたものだ。
私の想定が甘く、実際にはそのようなイベントを用意していなかった可能性もゼロではない。
ゼロではないが...。
「うーん、やっぱり何度考えても、それはないよなぁ」
他のゲームならまだしも、このゲームには水の災いとまで言われるボスが存在するらしい。
そんなボスが存在するゲームで、海路での戦闘イベントを挟まないなんてことは絶対にありえない。
私は必然性を重んじるたちなのだ。
海に災いあれば海戦を。空に災いあれば空中戦を。
というわけで、改めて気を引き締める。
アーサーさんの話によれば、北の大陸まではおよそ4時間。
この4時間のうちに、必ず何かしらのアクシデントが発生する。
「改めて、サニアに話をしておくか」
サニアと話をするために船室の入ろうとしたその時ーー。
不意に、船に影が差す。
「おっ、ついに嵐でも来るのかな?」
予想が当たったことに若干テンションを上げつつ空を見上げる私。
その目に入り込んだのは、空を埋め尽くす黒い塊だった。
一見、暗雲のように見えるそれは、蚊柱のように、小さくて黒いなにかが大量に集まってできたものであることが分かった。
さらに目を凝らす。
しかし、あまりに小さくて、一般的な人間である私には判別がつかない。
私は、見張り台に立っている船員の1人に声をかけた。
「すいませーん! あれ、なんだか分かりますかぁ!」
空を指さしながら声を張り上げる。
見張り台に立っている船員は真上を向き、そのまま目を見開く。
膝を震わせ、その場に崩れ落ち、そして船中に響き渡る声で告げた。
「黒竜だッ! 黒竜の群れが空に! 空に!」
あー、なるほど、黒竜ね。うんうん。
いやでもさ、黒竜って、ようはドラゴンでしょ?
あれはどう見たって、ドラゴンなんてサイズでは...。
そう思い、改めて空を見上げる。
最初に見たとき、私はそれが小さくて黒いなにかに思えた。
しかし、それは間違いだった。
あまりに天高くを飛行しているそれは、逆に言えば、それほど遠くにありながら、私の肉眼でもかろうじて捉えられるほどのサイズであるということ。
ドラゴンの群れ。それも黒竜。
それが、暗雲と見間違うほどに空を覆いつくしていた。
「どらごんだぁぁぁあああ!!!」
私は思わず叫んでしまっていた。
見張り係と私の声を聞いて、他の船員やアーサーさん、サニアたちが甲板に現れる。
「あれは黒竜か。数体程度なら問題はないが、あの量は...まずいな」
サニアがそんなことを呟く。数体程度なら問題ないんですね、さすがです。
「黒竜って言ったら、あれっしょ? 邪龍とかいうやつの眷属。でも、邪龍って確かもう死んだんじゃなかったっけ?」
アーサーさんがサニアに尋ねる。
そうだ。確かに、前にサニアから聞いた話では、邪龍ニーズヘッグは魔術師ギデオンによって倒されたという話だった。
ニーズヘッグに眷属がいて、それが黒竜だというのは初耳だったが、それならばニーズヘッグ関連のイベントが今更発生するのはなぜだ?
「おそらく、主の仇討ちだろう。北の大陸には魔術師ギデオンが潜んでいると聞く。竜は、同族に対しては義理堅い生き物だからな」
そんなサニアの話を聞いて、実際に目の当たりにしても、やはり目の前の光景が信じられない。
以前、この世界に来たばかりのころに襲ってきたドラゴンのことを思い出す。
私自身はドラゴンの動きに全く反応が出来なかった。サニアが駆けつけてくれなければ、私はあそこで死んでいただろう。
あのドラゴンは赤竜だった。色が違うが、それでもドラゴンはドラゴンだ。
あれと同格の魔物が、私たちの頭上を埋め尽くしている。
これは...だめだ。確実に負けイベントだ。
幸い、天高くを飛んでいるため、こちらに気が付いている様子はない。
向こうから見たら、私たちは海上に浮かぶ点に過ぎないだろう。
「アーサー殿、今すぐに帆を畳め。畳み終わったら、あれが通りすぎるまで、全員船室に隠れているんだ」
サニアがアーサーに指示を出す。
アーサーはというと、その指示を聞き終わる前からすでに他の船員に指示を出していた。
***
船員たちの仕事は速かった。
みるみるうちに帆を畳み終えると、みな我さきにと船室へと移動していった。
私はというと、手を出す余地はなかったので、一足先に船室に戻って皆の飲み物を用意していたのだった。例の酔い止めだ。一口目はあまり美味しく感じなかったが、よくよく味わってみると、少しエスニックな風味が癖になる。
最後にアーサーさんとサニアが船室に入ってきたところで、皆が顔を合わせる。
「これで、ひとまずは問題ないだろう。私は念のため、甲板で監視を続けるが、皆はここに隠れていてくれ」
「サニアは平気なの?」
先ほども似たようなことを聞いた気がするが、今回は船酔いどころの話ではない。
「あぁ、問題ない。まず戦闘になることはないだろうし、仮に戦うことになったとしても数体程度なら相手にできる」
そう言って、サニアは1人、甲板に出ていった。
さすが『主人公』。実際、私の想像通りのバランス調整がされているのであれば、問題はないのだろう。
このゲームではおそらく、ボス戦以外は特別な稼ぎやプレイヤースキルがなくとも突破できるような調整が為されている。
そうすることで、バランス調整の手間を削減しつつ、ボス戦では手ごたえのあるバトルを楽しむことができる。
難点は、短編RPG以外だと粗が目立ちすぎてしまうことだが、中学時代の私は良くこの手法を利用していた。
問題があるとすれば、この世界はベースとなったゲームに完全に忠実ではないという点だ。
今回の黒竜イベントは、当時の私が用意したシナリオに沿ったものなのか、それともこの世界で自然発生したイベントなのか...。
後者だとしたら、想定外の事態が起こる可能性も十分にあり得る。
「せめて、私が覚えてさえいれば...」
ベースとなったゲームを作成したのは中学時代。つまり10年ほど昔の話だ。
さすがに、10年前に作ったゲームのシナリオはほとんど覚えていない。
私にできることはあくまで、中学時代の私ならばこうするだろうという予想だけなのだ。
その観点から言えば、今回のイベントはかなりグレーだ。
発生したタイミング自体は私の想定通り、北の大陸へ向かう道中のことだった。
しかし、イベント内容は私の予想と異なる。
事前の私の予想では、今回発生するイベントは海にまつわるものになるはずだった。
本命は水の災い、『混沌のカリブディス』の襲撃。
次点で海賊の襲撃や嵐など、海ならではのイベントになると思っていた。
一方、実際に起きたのは黒竜の群れだ。
大きなイベントであることは間違いないが、海である必然性はない。
私は必然性を重んじるたちなのだ。
水の魔物がいる世界で、海路にわざわざ空の魔物を配置するなんて、少なくとも中学時代の私ならしないはずだ。
もしかしたら、今回のイベントは...。
そんな私の予感を裏付けるように、サニアの叫び声が聞こえてきた。
「! 奴らに気が付かれた! 皆、絶対にそこから出るな!」
今まで聞いたことのない、サニアの威圧的な声に体がびくっと反応する。
サニアの声と同時に、黒竜のものと思われる咆哮が船に響き渡る。
そして、その咆哮に呼応するように複数の咆哮が船を震わせる。
数体どころではない。
明らかに、十体以上の咆哮がこだまのように私の頭に響き渡る。
しばらく、黒竜の咆哮と、なにかがぶつかり合うような音が聞こえていたが、不意にその音が途絶える。
船室の窓から外を見ていた船員の1人が、小さな声で呟く。
「おい、まずいぞあの姉ちゃん。黒竜に捕まって空に連れてかれちまった」
私は衝動的に船室の扉を開き、甲板に出て空を見上げる。
辺りに黒竜たちの姿はない。が、遥か上空に十数体の黒竜と、その間を懸命に飛び交うサニアの姿が見て取れた。
黒竜の一体が鉤爪でサニアの足をつかむ。
宙ぶらりんになったサニアに、黒竜の一体が黒いブレスを放つ。
サニアは上体を逸らし、ギリギリのところでブレスを躱す。
そのまま足を掴んでいる黒竜の脚を両手剣で両断する。
すぐ真下にいた黒竜の背に着地したサニアの背後から、次の黒竜が襲い掛かる。
どう見ても、余裕があるようには見えない。
「サニアがぎりぎりの戦いをしてるところ、初めて見た」
ついそんなことを呟いてしまった。
最初のドラゴン戦でも、森や山を越える際もそうだったが、常にサニアは余力を持って戦闘をしていた。
私には逆立ちしても手出しできないような魔物を相手にしても、サニアはいとも容易くそれらを突破してきた。
しかし、今のサニアには、私から見てもその余裕はない。
今にでも、致命的な一撃を食らってもおかしくはない。
「さっちん、あれはまずいな...」
いつの間にか隣に並んでいたアーサーさんがそう呟く。
「アーサーさんの目から見てもそうですか」
「あぁ、今はまだなんとか耐えてるけどサ、ほら、竜がどんどん集まってきてる。ありゃ長くは持たないぜ」
アーサーさんが指さす方を見てみると、竜の群れから徐々に黒竜たちがサニアに近づいてきているのが見える。
「それに、あの高さだぜ。仮に竜を倒し切ってもサ、あそこから海に落ちちまったらそれだけで致命傷だぜ」
黒竜とかいうファンタジー実体に気を取られて気づいていなかった、至極当たり前なことを指摘された。
人は、高所から落下したら、死ぬ。
このままでは、サニアが死んでしまう。
その事実に、急に目の前が真っ暗になってきた。
てっきり、サニアは何があっても死なないと思っていた。
私なんかよりよっぽど強いし、弱味なんかを見せることもない。そのうえ、この世界の『主人公』だ。
そこで、私は自分の認識の甘さに気が付いた。
ゲームでは、『主人公』が死ぬことはない。
もちろん、ゲームのシナリオ上死ぬことはあるし、戦闘不能などで一時的に死亡状態になることもある。
しかし、後者についてはあくまで一時的なものであって、前者については基本的にラストイベントだ。
いや、途中で死亡して主人公交代、なんていう演出も無くはないが、少なくとも私が作るゲームではそういった演出はほとんどやらない。
そういうわけで、ゲームであれば『主人公』が死ぬことはない。と言える。
そう、私はこの世界をまだどこかで、ゲームと同一視していたのだろう。
この世界はゲームではなく一つの世界だなんて思いつつ、その一方、心の奥底では、かつて自分の作ったゲームに入り込んでいる気分になっていたのだ。
これは、間違いなくもう一つの『現実』だ。
サニアやアーサーさんは、私や妹、シュン君やペタ沢と同じく『現実』を生きる人間であり、そしてもちろん、死ねば死ぬ。
このままでは、サニアは死ぬ。
ダメだ、そんなのはダメだ。
考えろ、思考放棄している場合じゃない、必死に考えるんだ!
この場を生きて切り抜ける方法を考えるんだ!
今私たちの命を脅かしている要素を頭の中で列挙する。
ひとつ、竜の群れ。今はまだ、大部分は私たちに気が付いていないが、サニアの戦闘が長引けば長引くほど、その脅威は増していく。
ひとつ、サニアの居場所。天高くに連れ去られたサニアは、仮に竜の群れを一掃したとして、海面に叩きつけられて死んでしまうだろう。
よし、よし。少し冷静になってきたぞ。
つまりだ。サニアと私たちが助かるためには、サニアの戦闘を早々に終わらせて、その上で、サニアが海面に叩きつけられることなく回収できれば良い。
そのためには...。
勢いよく、自分の両頬を叩く。覚悟を入れるつもりだったが、思いのほか痛くて涙が滲んでくる。
「おい猫っち、急にどうしたのサ」
困惑するアーサーさんに向き直り、私は口を開く。
「アーサーさん、今すぐ、全速力で、港町まで戻ってください!」
上手くいく保障はない。準備も根拠も足りてない。
でも、今私の手にあるものでなんとかするためには、これしかないんだ。