過去からの影
### Block 1: 「11月の死」
一九七三年十一月、マンハッタンの街はまだ暗く、肌を刺すような寒さに包まれていた。十年前なら、朝刊配達の自転車の音が街角を巡っていたはずだが、今ではそうした音も少なくなっていた。朝六時、マンハッタン南署殺人課のジム・マローンは、通話器の甲高い呼び出し音に目を覚ました。デスクでの仮眠を、相棒のコーヒーカップが冷めるのを待ちながら取っていたのだ。
「マローン」
彼は受話器を取った。疲れた声が返ってくる。
「クリントン・ストリートの517番、306号室。絞殺死体」
マローンは古びた革のコートを羽織り、机の引き出しから煙草を取り出した。20年選り取り見取りのこの仕事をしていて、彼は分かっていた。11月の寒い朝に見つかる死体。それは決まって何かを語りかけてくるのだ。
現場に着くと、制服警官が建物の入り口で待機していた。三階までの階段を上がる間、マローンは建物の様子を観察した。1920年代に建てられたブラウンストーンの建物は、かつての優雅さを残しながらも、確実に老いていっていた。壁のペンキは剥げ、手すりは何度も塗り直された跡が見える。それでも、住人たちは建物を大切にしているようだった。廊下には埃一つなく、壁には丁寧に掛けられた絵が並ぶ。
306号室の前には、すでに法医学検査官のサラ・グリーンが到着していた。45歳のユダヤ系女性は、男社会の警察組織で確固たる地位を築いていた。
「おはよう、ジム」
グリーンは遺体の検分を中断することなく声をかけた。
「珍しく早いのね」
「たまたまな。状況は?」
「ジョセフ・クライン、62歳。発見は管理人。毎週水曜の朝、部屋の掃除を頼まれていたそうよ」
グリーンは手際よく遺体の状態を説明した。
「死後8時間から10時間。つまり、昨夜の9時から11時の間ね」
室内は整然としていた。壁には古い地図が何枚も貼られ、本棚には歴史書が整然と並んでいる。一見して物静かな知識人の部屋だと分かった。書斎の机の上には、開かれたノートと万年筆。最後のメモは中断されていた。
「争った形跡は?」
マローンは室内を見渡しながら訊いた。
「minimal(最小限)ね」
グリーンは立ち上がり、ラテックスの手袋を外した。
「でも、これは衝動的な殺人よ。首の絞め方が不均一。力は強いけど、技術的には稚拢。軍事訓練を受けた人間の仕業じゃないわ」
その時、若いパートナーのスティーブ・ロドリゲスが現場に到着した。32歳のプエルトリコ系刑事は、いつもの精力的な足取りで室内に入ってきた。
「すまない、遅れて。状況は?」
「今、概要を聞いていたところだ」
マローンは煙草の灰を払いながら答えた。
グリーンは続けた。
「被害者は椅子に座っていた状態から、背後から襲われたと思われる。抵抗の痕跡は最小限。おそらく、相手を知っていた可能性が高いわ」
マローンは本棚に目を向けた。歴史書、特にアジアの軍事史関連の本が目立つ。その間に、一冊のアルバムが収められている。開いてみると、1950年代の学校の写真。クラインが教壇に立つ姿がある。その隣のページには、1960年代初頭、ベトナムでの写真。軍事顧問として、現地の将校たちと並ぶクライン。そして最近の写真。若い男たちとの集合写真。その表情には、どこか影があった。
「管理人は?」
「階下で待機させています」
制服警官が答えた。
エレベーターのない建物の階段を、マローンとロドリゲスは降りていった。一階の管理人室で、ハリエット・ウィルソンが待っていた。60代後半の痩せた女性は、しっかりとした口調で話した。
「クライン氏は、10年前からの住人です。礼儀正しく、家賃も遅れたことはありません。週に一度の掃除を私に頼んでいました」
「普段の生活は?」
「とても規則正しい方でした。毎朝6時に起き、新聞を読み、その後は執筆に没頭する。夕方になると、時々若い方たちが訪ねてきていました」
「若い方たち?」
ロドリゲスが身を乗り出した。
「ええ、戦争から帰ってきた若者たち。クライン氏は、彼らの相談相手だったようです。特に、マイケル・ターナーという方がよく来ていました」
「ターナーについて、詳しく教えてください」
マローンは手帳を取り出した。
「23歳くらいでしょうか。去年の夏に帰還してきて、それ以来、週に2、3回は訪れていました。でも、最近は様子が変わってきて...」
管理人は言葉を選ぶように間を置いた。
「変わってきた?」
「はい。先週も大きな声が聞こえてきて。クライン氏と言い争っていたようです」
マローンは静かに頷いた。窓の外では、朝日が建物の影を伸ばし始めていた。街路では、出勤を急ぐ人々の足音が増えてきている。新しい一日が始まろうとしていた。しかし、この建物の中では、誰かの人生が永遠に止まったのだ。
「ターナーの住所は?」
「イーストビレッジです。アベニューBの243番地。彼、一度私に郵便物を預けたことがあって」
署に戻る車の中で、ロドリゲスが言った。
「ベトナム帰還兵か」
「ああ」
マローンは短く答えた。彼は若い相棒の言葉の中にある緊張を感じ取っていた。
「気になることでも?」
「いや、ただ...」
ロドリゲスは言葉を探すように窓の外を見た。
「僕の従兄弟も、先月帰還してきたんだ。なかなか、普通の生活に戻れないみたいで」
マローンは黙ってハンドルを握り続けた。1973年のニューヨーク。戦争は遠く離れたアジアの地で行われているはずなのに、その影は確実にここまで届いていた。そして時に、その影は濃い血の色を帯びる。
署に着くと、フランク・オニール課長が待っていた。
「マイケル・ターナーの件か?」
「ご存知?」
「ああ。実は一週間前、クラインから相談があった。ターナーのことで心配していると」
「どんな内容です?」
ロドリゲスが訊いた。
「詳しくは話さなかったが、ターナーが最近、精神的に不安定になっているとな。クラインは、何とか専門家に繋げようとしていたようだ」
マローンは黙って課長の言葉を聞いていた。20年の経験が彼に語りかける。これは単なる殺人事件ではない。これは、戦争が投げかけた影が、遥か遠くのこの街で結んだ、もう一つの悲劇なのだ。
「ターナーの住所、確認できました」
若い警官が報告を持ってきた。
「しかし、一週間前から姿を消しているそうです」
朝日が完全に昇り、街は日常のざわめきに包まれ始めていた。しかし、マローンにはまだ、暗い影が見えていた。その影は、どこかでマイケル・ターナーという名の若者の姿を形作っているはずだった。
(Block 1 終了)