第一章 2 (下)
***
身体を洗うといっても、基本は着衣。屋外で無防備にはなれない。
濡れても透けない景の浴衣は、ただ、色が濃くなる。身体の線は見えるだろうがーー
(まあ、)
多少見えたとて、そこはどうせーー
幸か不幸か。
浴衣の上から、泡立てた異国の石鹸で全身を洗い、滝の落差を利用して、頭から水で流す。仕上げに水にどぷん、とつかり、細部をこすってぬるつきを落とす。
毒花御用達の泡がすぐ消える石鹸は、香りも無い。便利だ。痕跡は、極力残さない。
そしてその間も、周囲の気配はずっと読んでいる。
(まだ遠いーーか、)
景を尾けていた、あの気配たちは、まだ。
他に新たな気配も、現れていない。今のところ。
髪が無いぶん、水浴はすぐに済んだ。万が一のために下げていた鉤つきロープを回収しながら、景は荷のおいてある川岸にあがった。
浴衣の袖やすそをしぼり、それから着替えの服を包んでいた大きな布で、全身を覆って隠す。布の陰で浴衣を脱ぎ落とし、身体をふき、清しい衣服に袖をとおす。
ふはぁ、と吐息をもらすその間も、脚はどの方向にも跳べるようにしているし、武器は常時すぐに摑める。基礎中の基礎だ。
(お腹すいた)
景は着替えもーー早かった。
めんどうなサラシを巻く手間もないしーー幸か不幸かーーささやかな身体の凹凸を、より平らかに見せかける胸当てひとつ、それと共布の袖なし下着、そしていつものお仕着せ。
水を浴びたあとでも、瞼の化粧かぶれの腫れは、引いていなかった。おかげで顔を偽装する手間はーー省けるのかーー幸か不幸、
(かあああっ)
ひどい顔。我ながら、
そう思った瞬間、
景は地面を蹴った。
とほぼ同時に、景がたった今いたあたりの水際で、派手な飛沫があがった。
でっかい熱量がーー
いや、何かが景に向かって飛びこんで、否ーー飛び降りてきたのだ。
反射で避けた本能に、一瞬後追いついた理性が、現状を認識する。
跳びあがった樹上から、景は、
「柊さま」
滝口から飛び降りてきた上役を、見下ろした。
頭からずぶ濡れた柊は、枝の上の景を肩ごしにふり仰ぎ、不機嫌そうに、
「山猿?」
(はああ?)
と、声に出さなかった自分を、舌打ちしなかった自分を、褒めてやりたい。
(て、いうか)
柊は履き物ごと、足首まで水に浸っている。し、
というか、上役を頭上から見下ろすとか、とんでもなく無礼では、
それよりも。伸びかけの髪からぽたぽた、その透明な雫をはらいもせず、柊はこちらを睨んで、
(うわ、)
景はあわてて枝から飛んだ。
ふわ、と上衣の袖が、すそがふくらむ。
あ、と呟いた柊がーー
「あぶなっ」
景はとっさに、柊の肩に手をついた。突然下へ、景の着地点へと、柊が入ってきたからだ。身体が激突するのを避けるため、肩についた手を軸に、着地点をずらそうとする、
が、
逆に、引き寄せられた。
柊の身体が、景を受けとめた。
反射的に、景はその肩に腕をまわす。一番衝撃の少ない、重さが分散しそうな着地を試み、
「…て」
(これは、)
足が地面に着いていない。
まさか、いわゆる、抱っこ。
(なのか?)
濡れた髪の匂いがする。着替えたばかりの服が、柊の服の水気でたちまち湿り、
その奥で、熱ーー布ごしの、皮膚感、
(…熱い)
一気に、体温が二倍になるような、
なのに、背中にまわった柊の腕の力で、下りられず、
(あつい)
残暑だってば。
つい、と顔を柊に向けると、同時に柊が景を向いた。
「…うわ、」
おたがい、なぜか吃驚し、
「うわ、悪い。おまえ、結局濡れた」
次の瞬間には、目をそらした柊に、景はすみやかに運ばれだしたーー川岸へ。
…いや、と景はあわてて、柊から離れようと腕を突っぱってみる。
「どちらにしても、濡れる予定でしたし?結果どうでも、」
「なんだその前提。て、暴れるな。川ん中着地とか、ありえねぇだろ、あの足場。石ころだらけ。無事に済むと思うのかーーて、だから暴れんなってば、」
「え、自分だってさっき、思いっきり水のなか、着地してたのに?」
「ふん、自分で試したからな。脚は無事だ」
「え、それ得意顔ですか」
「うるさい。そもそもおまえ、なんで水のなかにわざわざ着地しようとする?」
地面へ降ろされながら、景の片眉がピクン、と跳ねた。
(誰のせい、)
あわててしまったのは、
「そもそもーー毒花です。ヘタな着地しません」
顎がつん、とあがったのはーー無意識だ。
いっそ、と景は考える。言ってやろうか、柊のそばに着地して、もっとぐしょ濡れにしてやろうかと思った、とか、
(嘘だけど)
上役だし。
きらきら、さらさら燦めく川面と滝を背に、柊の髪からあごからぽた、ぽた、雫はまだ落ちている。
ところで、と頭をひとつ振って、その雫をはらいながら、柊が景にあらためて目を向けた。
「まず、説明してもらおうか、支子。ここで何をしていた」
す、と温度がーー冷める、ような、
二重の、大きく、鋭い眼。視線。
「水浴はわかる。だが、なぜここだ。理由はあるのか、ないのか。私になにか言うことは、あるか?」
「……」
(ーー私、)
俺とかじゃなく。
(これは、)
女だと、白状しろと言われているーー?
(いやでも、)
男だとも嘘ついていないのに、そもそも自白なんて、
うん。と景は心のなかでひとつ、うなずく。下手なことは言わない。顔からことさら表情を消し、柊を見、
「聞いてくださるのですか、たかだか毒花の釈明を、わざわざ」
「言いたいことがあるなら、だ」
つ、と景の項を汗がつたった。
それと同調するような、柊の顎から喉もとにすべる水滴を、数瞬、景は目で追い、
ふ、と柊がさきに息を洩らす。
「わかるだろう、支子。この時機で単独行動は、なんにせよ疑いのもとになる。何の説明もなしは、誰も納得ーー」
言いかけて、眉がかすかに動いた。
(あ、)
気配、か。
さきほどから景を追っていた気配ーーが、もう近くまで、いる。二人、だ。
柊が身体をひねって、後ろを向いた。口もとに手をやりーー
細い、高い音がした。
(手下か)
笛で、彼らに合図したのか。
気配、が二手に分かれた。川の両岸へ。それを確かめるように、少しの間黙っていた柊が、ふたたび景に向き直った。
「では支子、まずおまえの荷を検めさせろ。話はそれからだ。いいか」
(いいか、も何も、)
反論なんて、許されているはずも、なかった。
ロイヴィアスにおける「寺」は、いわゆる仏教寺院ではない。「神殿」で祀られる神々、以外の対象を信仰する場、の呼び名としての一つだ。
(主様が『寺』に居られた、ということは、)
その側近である柊も、今まで出家の身だったーーと、いうことだ。当然。
(どこの、どんな、寺)
景の少ない荷を、慎重にあつかう柊の手や指を眺め、景はそんなことを考える。つっ立ったまま。
大きい手。長い指。関節が骨ばって、全体に筋っぽい。
(貴人の手じゃ、ないみたい)
手の甲の傷痕。変色の痕。ちら、と見えた手のひらのタコ。
(ボコボコだし)
主様がどんな御血筋で、何番めの御君であるにしろーーその最側近ともなれば、いずれ十家の子弟であることは、確実だろうけど、
(これ、は)
武人の手。刀剣を握る手、だ。
(…落ち着かない)
足裏がもぞり、とする、このなんとなく後ずさりたい気分は、
ーーこの男のせいではないのだけれど。
(…寺、ねえ)
景は柊から目をそらし、空を見た。風の方向が変わり、景の剥きだしの頭を、頬を肩をそわり、とさせる。
その風を、景の感覚が無意識下で追いかける。追いかける、という表現が、たぶん近いんだろう。音、重さ、動き、風の分かれる場所、
と、
「…これ、は」
その声で柊を見た景は、思わずすん、とした。
「心肺を守る防護の品です。厚みがあるのは、そのためです」
いちおう、それらしいことをよどみなくーーやる気なく、答える。今、柊の手にあるのが、サラシ代わりの胸当てだ、とかーー
口が裂けても、言うものか。
綿の部分が水を吸って型くずれし、元の形状がだいぶわからなくなっているけれど。
(あとで作り直しだな、)
景も毒花、荷を探られたり荒らされたりは、不本意だけど、わりとある。だからといって、何か隠し持っているわけでもないのに調べられるのは、
ただただ徒らに、なんかイヤだったりはするのだ。
だから景は、必要なとき以外は、下着も無個性な男女両用で、荷など調べられそうな場合は、見られたくないモノを、自分で直接隠し持つ。今だって。でも。
濡れた胸当ては、重くてかさばるから、無理だったーー
ふうん、と柊が興味なさげに、胸当てを荷にもどした。景が仕舞っていたとおりに。律儀に、
それをーーどんな気持ちで見ていればいい。
景はもう一度、空を見た。再び、風。
ーー気が散る、風。
また柊に、視線をもどす。濡れたままの髪と、そこから滴った水で、布地の藍色がくろく濃く見える肩と、
んー、と景は眉根を寄せた。んんんん、と鼻で呻き、
「ちょっと失礼しますね⁈!」
がばっと手ぬぐいをひろげ、柊の髪をわしわし拭きはじめた。ちゃんと乾いたきれいな布だ。もともと、頭に巻くつもりだったから。
「おま…っなにッ」
柊が避けようとするのを、景は軽くあしらって拭き続ける。立ち位置を正面から横へと、ズラしながら。
(毒花だし)
ーー頭をふったぐらいで、振り払えるとか思わないでほしい。
虫じゃあるまいし。
布の下の伸びかけの髪は、やはり女子より太く強くて、知らない手ざわりだ。わしゃわしゃ動くたび、うっすら薫衣草と、濡れた髪の匂いと、
「柊さま、これ乾くまえに雨が来るかも、です。一度、このぽたぽたするの何とかして、とっととここからいなくなりましょう」
「どの口が言ってんだ、ソレ」
低く吐いた柊が、空を向く。頭の位置がズレたので、顔の上半分が手ぬぐいに隠れ、景からは鼻梁の尖った先端から下だけが見えた。
一見、酷薄そうな唇が、少しだけつん、とあがっていて、ちょっと子どものような無防備さがただようのに、
(隙が無いんだよなあ、)
実際は。
たとえば、と景は考えてみる。無表情に。心静かに、
今ーーこの男に打ちかかってみるとして。
この男の反応は、たぶんーー
「もういい」
と、柊に腕をつかまれた。
「おまえ今、物騒なこと、考えていなかったか?」
とんでもないです、と景はへらり、と笑い、
「そこまで物騒ではない、ですよ?」
(油断もスキも無いな!)
ただちょっと考えただけ、じゃないか。
柊はじろり、と横目でこちらを見、景の手から手ぬぐいを取りあげた。
「油断ならないよな、ほんとに」
(こっちの台詞だし!)
これが上役じゃなかったら。速攻言い返している。なのに相手が上役だから、下手にムッともできない。
しら、と宙を見るしかない景にはかまわず、柊は支子、と無造作に景を呼び、ふたたび空を見あげた。頭の後ろの髪を、がしがし自分でふきながら、
「あと四半刻、天気はもつと思うか」
「上流で降られたら、ここで降らなくても同じです」
景もす、と真顔になった。
山間の河川は、ふだんはささやかな流れでも、一度雨が降れば、周辺の山々から一手に水を集めてしまう。その水量は、平地の比ではない。そして、その水が川の傾斜を一気に駆け下る勢いと、速度も。
たとえその場では降っていなくても、上流で雨が降れば、それは同じーーいや、前ぶれもなく激流が出現するから、よけいに危険か。
(まだ、今は、風の変わりはじめ、でも)
撤退は、今すぐが無難ーー
山は深い。見えない上流部をぐずぐず警戒するより、もう山荘に帰るのが一番安全だし、効率もいい。
ここに長居する理由も無い。
柊がふたたび、笛で手下に合図を出し、それから景の荷にあった藍染の上衣をずい、と景に押しつけた。
「着れば」
「…へ?」
「着ていけ。虫除け」
はあ、と景はぼんやり受けとる。というか、この上衣はお仕着せではなく、景の私物。それをどうするかとか、柊が言うことでは、
「他の荷はこちらで預かるが、な」
ニベもなく言い足して、柊は所有者にはかまわずに、その荷をまとめていく。やや無造作だが、手際がやたらいいーー高位の貴族の子弟であれば、ふつうは荷なんて自分で片づけないものだけど。
(寺、か)
寺仕込み。
南都十家の身分でも、寺では特別待遇されなかった、ということなのか。
(どんな、寺)
正直、興味はあるーー毒花として。
でも、南帝の御子君やその側近らが、どの寺に預けられていたか、なんて、
(極秘中の極秘)
下っ端ペーペーの景には、知りようもないこと、
景は手のなかの上衣をばさり、とひろげてみた。結局、荷の検めもーー不可避、だし。
んん、と一瞬、唇に力をこめてみる。なんとなく。景としては、ただ身体を洗いたかっただけの、
がーー柊の側からでは、蒐の件の何かを隠蔽とか隠滅とか、外部の誰かと接触とかーーいろいろ可能性を疑える、見逃せない単独行動、
それは、わかりきっている。
だから景とて、見張りも荷の検めも、まあ有るかな、と想定はしていた。
(けど、)
上役直々とはーー想定外。
たいがいの見張りなら撒けるだろうし、ぐらいにしか思っていなくて、だいたい上役が出張ってくるほど警戒されてる自覚なんて、
(それに、)
ばさばさ、と景は上衣を振るった。意味もなく。
(追手たちまで危険に晒す可能性を、考えつかなかった)
天候とか。基本中の基本。けど、自分ひとりならなんとでもなるので、特に気にせず。でも。甘かった。見張られる可能性までは想定していたくせに、まさかーー
(この男、ここまで気配読めないって!)
気配読みは、けっこう自信があったのに。しかも、
(こっちの気配は、結局読まれてたってことだし!)
ーーどの程度までバレてたのかは、わからないけれど。とにかく、
景の予定では、追手を撒いて水浴したあと、山荘へ戻る際に、彼等にそれとなくこちらの気配を気取らせて、さりげなく連れ帰るつもりだったのに、
というか、
(この男、)
ほんとうはいつから滝まで来ていたんですか、
とか、訊きたいけど、訊けないーー
ふう、とその柊が脇でひとつ息を吐き、川の両岸へゆるり、と視線をめぐらせる。柊の手下らの気配はふたつとも、じょじょにこちらへ近づきつつある様子だ。
(…ああ、)
主にくらべてわかりやすい、その気配を追いながら、もうひとつ自分の「想定外」に気づいて、景はーーますます嫌になった。
こうして柊やその手下らがここにいるとーーそのぶん、山荘が手薄じゃないか、
手下らの実力は知らないけれど、柊なんて一人で何人ぶんってぐらいの戦力だし、
(最悪だ)
とはいえ、この身体にまとわった血の、死の気配、こんなもの、絶対思う存分洗い流したいし、流さずにはいられないし、
身体が臭えば、物理的に、仕事にも差し障るし、
(って、コレ言い訳?)
どうなんだ。
最悪だ。
とりわけ最悪なのは、それならどうすれば良かったーーが、わからないことだ。毒花なのに。
そして今のところ、景はただただひたすら考え無シな、はた迷惑野郎、
(いや野郎じゃないけど!)
景はーーひとつ、息を吐く。何よりもまず、謝るのが先だろうーー、
と、顔をあげると、怪訝そうにこちらを見る柊と、目があった。
「どうした?支子」
柊は唇をわずか歪め、
「荷を検められると、なにか困ることでも?」
「…そーいうことでは、」
言いかけて、景は止めた。
柊の瞳に浮かぶーーあきらかに、おもしろがっている光。口もとの笑みはうっすら意地悪く、なんだか余裕な、
すう、と景は息を吸い、
「なんなら子供の下穿きまで全部、お検めに?」
思わず口走ったのは、ムッとしたからかカチンときたからなのか、
んごんぶっ、と柊がその瞬間、咽せた。
とーー、
「貴様ーァっっ」
瞬時に飛び込んできた気配ふたつ、
「若に何をッ」
閃く白刃、
それをあっさり景はかわす。そのわかりやすい彼らの気配ごと。チィッ、と舌打ちの音。足を踏み換える音。
打ちかかってきた柊の手下らは、景と主人とを遮るように、こちらへ向き直った。その背後でーー
柊がまだ、咳込んでいる。なんだか、頸から耳から顔じゅう赤くなって。
(そんなに?)
ギリギリ冗談や軽口でいけないかーーとか、一瞬思ったのだけど。
(やらかしたーー?)
余計なひと言を、つい、
景は口をへの字に結んだ。謝る気はまんまんだった、はず、が、
(挑発してどうする)
こちらは何か攻撃されても、うかつに反撃できない立場だろう、
その間にも手下らはじり、じりと動きながら、一人は景との距離を詰め、もう一人は背後へまわろうとしている。
とりあえずーーこちらに害意がないことを、見せるしかないのか。攻撃されたら。避けるか。わざと捕まるか。得物は持てない。素手のままで、景は両腕をぶらん、とさせ、
と、手下らが合わせたように地を蹴り、景へと、
「止めよ」
その時、柊の一声、
景に手が届く間際、手下らの動きが止まる。と同時に、景の手にあった上衣が消えた。
(ん?)
ばさり、と視界いっぱい藍色の影。
なぜか一瞬だけ、全身が風に煽られ、
(んん?)
次の瞬間、景は動けなくなった。上半身に、何かが巻きついて。
(んんん?)
それが自分の上衣だと気がついた時には、景はぐい、と後ろへ引かれていた。
両腕ごと上半身の自由を奪う上衣が、背中側から絞められ引っぱられて、ぼす、と寄りかかるかたちで何かにぶつかり、
と、景の耳のすぐななめ上で、声、
「波砂里。布早。子供虐めてんじゃねェよ」
「若っ、ですが、この者はッ」
「俺が勝手にムセたの」
空いたほうの手を、ひらひらと柊がふる。
(と、いうことは、)
自分が自分の上衣で柊に上半身を拘束され、柊の胸もとまで引き寄せられた事実に、今さらのように景は気づき、
(ということは)
今、柊は片手で景の自由を奪っているのかーーというか、
(柊が⁈)
なんだそれ。
(いつだ、コレ?)
いつ動いた。いつ、景の背後まで。「止めよ」の声は、たしかに離れたところから聞こえた。ならばその後の一瞬で、動いたということ、
(こわいコワい怖い)
一気に血の気が引きそうになる。そんな動揺、気取られたくない。のに、
「ほら見ろ、おびえてるじゃねぇか」
おもしろがるように、景のななめ上の柊の声は続き、
(あなたにですよ⁈)
内心激しく、景は突っ込んだ。
今の場合、放してくれと言ってみるのが正解、それとも大人しくしていたほうが無難か、わからない、とっさの判断が、
にしても、
(近いちかいちか…っ)
距離感おかしい、この男、これが上役じゃなかったら、絶対反撃を試み、
(ていうか、投げ飛ばすっ)
が、そこは柊もまた絶妙で、景がスルッと脱け出せない箇所を上衣で絞めてくるし、
(あああァッ)
近いのは嫌いだ。全身で貧乏ゆすりしたい。暴れれば、上衣の形状だし、布は弛みそうだ、とは思う。
でも、それは得策なのか。
危害を加えられない限り、自分からは動かないほうがーーとにかく、
はやく放してくれないかーー
すると二人の手下のうち、年長ーーたぶん波砂里ーーのほうが、ふう、と息をついて半歩退いた。
小刀を納めながら、主人と景とを二、三度見くらべ、
「…何なんですか、この毒花は」
「ひとり優雅に、水浴びしていたらしい」
ハッ、と若いほうーーおそらく布早ーーが吐き捨てる。
「いいご身分だなっ、我らをここまで引っ張りまわしてっ」
すでにかなり苛々が溜まっていた景は、じろ、と布早の血の気の多そうな顔を見、
「…うらやましいですか」
「ん…なっ、フザけんな毒花ッ」
ーーやめろ、と柊が片手で布早を制した。
「布早、挑発されんな。支子、挑発すんな」
同時にふ、と上衣の拘束が弛んだ。ようやくーー解放、だ。
柊は景には目もくれず、そのまま手下らへと近寄っていく。その間に上衣を着てしまおう、とばさり、とひろげた景の耳に、
もう合図は聞いたな、と柊が彼らに言うのが聞こえた。
「長居はしない。撤退だ。この崖の登り口を、見つけてくれ」
「登り口なら、」
景はとっさに口をはさんでいた。
「こちらで御用意できるかも、しれませんよ?」
まだフカヒ感もインソムニア感もありませんが、第一章、これでいちおう完了です。
今回のエピを書きながら、情報出しの順番をけっこう変えたので、第二章、あらためて組み立て直し、です。
はやくフカヒ感やインソムニア感、出したいです。




