第1章 2 (中)
***
開け放たれたドアの奥、その部屋は闇に沈んでいた。
が、よくよく目をこらすと、せまい室内の光も射さない暗がりに白い何かがある。
さらに凝視すると、黒い床板のうえにだらん、と投げだされたーー
表情も無く立つ景のすぐ脇を、武人たちが灯火を手に室内へと入っていく。白黒だったその場所に、ふいに色がつく。
赤いーー色。
倒れていたのは「蒐」と同部屋で寝起きしていた、近習の少年だった。一目で絶命しているとわかる。
少年は今現在使われていないこの部屋で、発見されたのだという。喉を掻き切られた、この姿で。
闇のなか、床板の黒と見えたのはーー血、だったのか、
暗い室内で、それまで灯火を待っていた柊と桜花が、少年に近づき検めはじめる。毒花の仕事はその後ーーだ。
今は廊下で順番待ち、だ。
景と躑躅をここへ連れてきた木槿ーー目通りの際の頭巾の一人だーーが、室内に数歩入って様子見している。
その木槿によると、蒐はまず主様を狙ったという。が、襲撃に失敗し、矛先を桜花に向けたらしい。
(何のつもりで)
逃げる際の人質、それとも精神的痛手を狙って、とか、
そうして主様や桜花に牙を剥いた蒐は、それより前にこの場所で凶行に及んでいたーー?
(目撃者は、いない)
亡くなった少年は、主様に付いて寺から来た「本物の近習」。毒花とは違う。素人だ。
蒐と同部屋だったせいで、何かを目にしてしまったのか、
あるいは何かに気づいてしまった、か、
(目撃者がいない)
まだ、子ども。
声変わりすら、まだ。
景とは会釈する程度、だが主様や側近たちに受け答えするきびきびした声は、よく聞いた。歌うような、高く響く声、
「っ」
ひじの内側に、痛みが走った。
ああ、と景は目だけでそこを見下ろした。いつの間にか食い込むまで爪が刺さっていた、皮膚を、
無表情に。
何、と傍にいた躑躅に唇だけで問われ、ベツに、と返す。そのままふら、と視線を前にもどし、
検めがすすむ室内を、そのまま眺めやる。
あいかわらず。どこでもない宙を見るように。
遺体から床から天井まで、隈なく調べている、柊や配下たち。その傍らで覚え書をとる桜花。図を描いている者もいる。彼らはこの後、蒐や少年の部屋にもまわるのだろう。
所持品などから、手がかりを捜すのだろう。
景たちはその後で、現場や部屋を調べることになるーー毒花としての視点で。
天井にゆらゆらと、灯火で蠢くいくつもの影。
いくつもの話し声。
桜花と柊が木槿のところまで来て、三人で何やら話し合いだした。ひそひそと。口もとは隠して。
(唇ーー読めない)
彼らが用心深いのは、いつものことだが、
ん、と景はまばたいた。柊を見て、木槿を見た。そしてまた、柊を、
こうして並ぶとーー木槿のほうが、柊より歳上か。
背も柊よりやや高く、すでに大人の骨格だ。細身だから、今まで気づかなかったが。肌がしろい。ふたりが並ぶと、あらためてーーしろい。
(って)
景からちょうど見えていた柊のその眼が、こちらを一瞬向いた気がしたので、景はじろじろ見るのはやめた。
長い立ち話から目をそらし、まだ立ち入りが許されない室内を、
そして少年を見やった。
その虚ろな姿ーー。
だらん、とした手脚は、身体は、灯のもとでより青白く、か細く、
(子ども、)
まだ、
景ののどがわずかに上下し、
すると躑躅がす、と半歩身体を寄せてきた。
「…何?」
「おまえ顔色、悪いわよ?」
女のような優美さで首を傾げ、鋭い喉仏の奥でくっ、と嗤い、
「子供は下がってなさいな?」
囁く、掠れ気味な低音、
景はその年上の同僚をじろ、と見た。
「…ムダに色気」
「うるせえ、子供」
「毒花」
その時、木槿に呼ばれた。
はい、と姿勢を正す景の横を、桜花と柊が通り過ぎ、無言のまま廊下を連れ立っていく。上役の検分は、終わったらしい。
景は細く息を吐いた。そして躑躅に続き、現場へ足を踏み入れた。
***
昼食は、騒ぎのせいでいつもより遅れて始まった。
広間に人が集まっているのを後目に、景は母屋を抜けだした。
血ーーを浴びてしまっていた。
躑躅が蒐を仕留めたときに。
すぐに落とせるだけ落としたが、目に見えるところだけだ。衣服は人目のあるところでは脱げないし、とりあえず汚れのひどい上衣を脱いだだけなので、
ひたすら気持ち悪かった。
抱えていた包みを背に括りなおしながら、景は山荘の庭から外へと出た。
(血、)
匂う。熊だの野犬だのに今は遭遇したくない。
上役の木槿には、人目につかないところで血を落としてきます、といちおう言っておいたがーー
(さて、)
どうしよう、と景は日除けに布を頭から被った。庭より外へ出るのは、山荘へ来てからは初めてだ。人目につかない水場は近くに必ずある、と踏んでいるのだけど。
山荘内にもーー水浴び場はあるにはあった。風呂場でいきなり流せない泥や、それこそ怪我の血など落とすための。が、
(混んでたし)
ーー現場の後始末があったから、それに、
(屋外だし、足もと見える扉だし、人目あるし、ヘタに隠せば逆に浮くし)
めんどくさ、と空を見あげる。風が頭に被った布を揺らした。
(主様たち、山荘にまだ居続けるんだろうか)
ふと、そんな考えが浮かび、指が宙を掻いた。無意識に。自分の髪の毛をさがして。
それからああ、とから振りした指を見おろし、それを他の指で握りこむ。道はいつしか、崖下へ降りていくケモノ道だ。
人死にが出た以上ーー主様の潜伏場所は、また変わるかもしれない。
そういうことはあるのかもしれない。
(何があってもおかしくない、のか)
あらためてーー
『あらゆる可能性を、常に均等に、視野に入れておけ』だったか、
(爺)
黄麻からの言伝は、まだ景のまえに姿を見せていないがーー
「っ」
握りこんだ指に痛みが走り、景は自分がいつのまにか力を入れすぎていたことに気がついた。
ふん、と軽く嘲笑って、指をほどく。
(厭だ)
嫌だいやだ、
いやな気分がずっと胸にへばりついて、油断すればこうして挙動がヘンになるとか、ほんとうに、
(あのーー近習)
じゃなくて、とかるく首を振った。今は蒐のことだ。あの変な襲撃。あれが計画的か突発的なものかも、全然わからない。
手がかりが何も残っていないのは、ある程度計画的だったーーとも、
(いやいやいや、)
杜撰。
ズサンだってば、と景は眉間にシワを寄せる。毒花が、あんな何がしたいのかわからない行動して、あげく討たれるとか、
(ないないない)
未熟だから討たれたとか、言ってしまえばそうなのかもだが、
(でもーーなら)
ーーあの子どもは、
さわさわさわ、と風が、草を木々を鳴らす。
草深い獣道、景の両脇で萩が無数の花枝を揺らす。さわ、さわさわ、小さな紫を緑のなかにふり撒くように、
(あのこどもは、なんで)
ふと、視界を真っ赤な帯が横切った。ギクリ、と目をあげると、それは崖上の道を縁どるように列なす曼珠沙華だった。
あかい、
(なんで、)
景の眼は、その赤に引き寄せられ、
(あか、)
あのこども、血のなかでーー小さなこども、
(あかく染まって、)
ちらちらと、赤が、揺れ、
(ーーあれは、)
ほのお、
ふいに胃から厭なものが上がってきた。とっさに口を押さえ、景は駆け出した。いそいで道を下りきり、ちょうど目のまえに現れた、小さな沢の水ぎわーーうっすら水の溜まったくぼみに屈みこむ。両手で動かせる程度の石をめくりあげ、その裏に、胃から上がったものを吐いた。
出るものはーー大してないが。
もともと食が細いせいだ。
動かした石をもとに戻し、吐瀉物の痕跡を隠した。大丈夫、と思う。この距離なら、沢を汚すこともない。口もとをぬぐい、二、三度胸を上下させる。呼吸を整える。
最近では、もう落ち着いた、はずだったのに。
景の病ーー
たとえばこれは、あの近習の子どもへの憐れみじゃない。感傷でもない。
断じて。違う。
眦にひと粒浮いた涙を、指さきではらう。胃が楽になったおかげで、今まで見落としていたものに気がついた。
(尾けられてる)
二人ーーいや、三人、
何者、山荘の、それともこのあたりの山の者、あるいは蒐の仲間が潜んでいたとか、
いずれ素人ではない。景は手のなかに、自分の武器を握りこむ。相手が素人なら、景はもっと早く察知している。
たとえ具合が悪くても。
地を蹴り、景は木の上へと駆けあがる。まだ夏を残す緑蔭に、おのれの気配を紛れさせ、
そのまま樹上を移動しはじめた。枝から枝、葉蔭から葉蔭と。
これは不審がられても仕方ない行動だ、という自覚はある。けれども、どこかで身体を洗うあいだ、誰の目にも触れない時間がーー
一瞬でも、頭を空っぽにする時間が欲しいな、と思う。実のところ。
(もう、挙動不審はヤだし、)
もし、あらぬ疑いでこの身が危うくなったらーー
(逃げるし)
無責任なようでも、特定の家のお抱えではない毒花には、時として自分で自分を守ることも必要だ。必須だ。
(そこまで追い込まれたくはないけど、)
ーー仕事できないヤツみたいになる。し。
尾けてきた気配が、遠のいた。こちらを見失ったようだった。
景はそのまま樹上をつたって、沢沿いを行くことにした。水量のある水場をさがして。
流れは、途中から二手に分かれた。より水音の大きなほうへと、少し行くと音はごうごう響くようになった。
滝になっているのだった。
それほど落差はなく、だいたい人の背丈の倍ぐらいだ。周囲の地形なのか、音は響くが、水量自体は身体を痛めたり巻き込まれたりするほどじゃない。
景はふところから、鉤付きのロープを取り出した。滝口の少し先の枝目がけて、その鉤を投げる。それにもう一本、こちらは岸辺寄りの枝に鉤を引っ掛けて、自分の荷を結わえつける。
二本ともに体重をかけ、強度を確かめーー
最後にもう一度、さきほどの気配の所在を探り、
(今のうち、)
ひとつうなずくと、景はロープをつたって降下した。滝の下へ。
生活のリズムが変わって、すこし調子崩しました、のと、けっこう手直しもしてました。
ので、だいぶ前ぶりな投稿になります。
めげずに体調第一で、細ぼそ続けます。