第1章 2 (上)
鏡面には、剃りなおしたばかりのまるい頭、
それに腫れぼったい不機嫌なまぶたと、おなじく不機嫌な口もと。
鼻すじは役者用の練おしろいでのっぺり潰す、ほお骨やあごのうす赤い点てんは、たぶん汗のせい、見た目は肌荒れ、ソバカス、ニキビ痕、のどれか。
おのれの生白い頭に、景はべつの肌色をかるくのせる。すこしでも血色よく見えるように。
景の任務上の設定は、「寺から従ってきた近習」。いかにも急きょ剃りました、な皮膚の色で、“にわか坊主”がバレてはいけない。
起床時に、身づくろいはひと通りしていたが、朝食後の化粧なおしもこれで済み、だ。
景は割りあてられた寝部屋の引き戸をあけ、廊下へ出た。
ここは、国境と南都のほぼ中間に位置する山中ーー
街道を見おろす小高い尾根の、その山陰に建つ山荘は、今日もじりじりと残暑の陽に灼かれつつある。
秋の花ももう、咲いているのに。
廊下のつきあたり、丸窓の格子ごしに、景は庭を見やった。目だたない片隅に、ひっそりと黄赤の花が咲いている。
警護対象の貴人は、このまえ目通りした国境近くの館から、四日まえにこちらの山荘へ移ってきていた。
景の手あてを終えるやいなやーーだ。
首すじのカサブタを無意識にいじりながら、
(あの時ゆってた『お時間』って、ここへの出立のことだった)
景はなんとなく、思い返す。それにしても、彼らはどうやら今まで、こうして各所を転々としていたらしい。
(ここには、どれぐらいいる予定、)
この山荘も、先日の館とおなじく「ヒノモト様式」だ。が、色味はまるで違う。あちらは白木、こちらは艶つやしい黒光り、ただ、どちらも屋内で履き物は脱ぐ。
暑いなか、すぐ素足になれる状態でいられるのは、嬉しいことだった。とはいえ、仕事中に裸足にはならないが。気分だけでも。
景はきっちり釦を留めた男物の襯衣の、長い袖口をゆるくまくりあげた。色は生成り、衿なし、暑い。
下は墨色の袴だ。これも男物で、裾をひもですぼめてある。
これらは、支給されたお仕着せだった。が。
(さて)
カサブタを掻きながら、考えこむ。
景はーーたしかに最初の目通りは、男の格好を自発的に、した。
それに今だって、身体の凹凸をごまかす仕様の下着をつけ、ふだんからめりはりに欠ける体型を、より平らかに見せる努力もーーしている。
それは認める。自分で。でも、
(自分男です、とか名乗ってないし)
女です、とも言ってないけれど。
聞かれもしないし、
(これはーー)
どう考えればいい。
こうして男物が支給されるところをみると、景は完全に男だと思われている、でいいんだろうか。それならそれで、
(いや、でも)
カリカリ、とさらに景はカサブタを引っ掻く。無意識に。
(黄麻が身上書、提出しているはず)
正式な書類に虚偽を記載するわけにもいかないので、そこには女、とあるはず、
(まさか、)
書類に目を通していないーー
(は、ないか)
こちらに対して、最初にあれだけ「これ見よがしの警戒」を見せつけてきた御仁たちだ。当然、書類にだって目を通し、こちらの情報を把握しようとはするだろう。
たとえ、毒花に用はない、のだとしてもーー
(しなければ、馬鹿だし)
なのに、誰も何も言ってこないのは、
(逆に気もち悪い?)
不可解。
深く考えると、自分がどう立ち振る舞えば良いかまで、わからなくなってしまいそう、だ。
(いやいや)
景は首をこき、こきと動かして、軽く息をつく。だからといって。
誰かに何か言われたからとて、この野郎だらけの大所帯で、女の格好なんて血迷った所業、絶対にするつもりないけれど。もし何か言われたら、「お言葉を返す」準備も覚悟もできている。し。
丸窓につるされたびいどろの風鈴が、りいん、と鋭い音をたてた。
ここからは見えないが、前庭のほうからは警固の武人たちの鍛錬に励む声。景と彼らとは、山荘ではほとんど接点がない。今のところ。
邸内が二つにざっくりと区切られる造りをしていて、起居する場が彼らと景とで、まったく違うからだ。景は主様の居住する貴人用の区画に、常に控えることになっている。
(どっちにしてもーー男臭いけど)
香があるだけ、こちらのほうがマシなのか、
男の集団の臭いて、
仕事だと割り切っても、
(いやいやいや)
グチはよくない、と景は首をふった。
りん、とまた風鈴が鳴る。庭のすみで、黄赤が揺れる。
(あの、花、)
刃のような、細い花弁。す、と伸びた丸い茎。
(キツネノカミソリ)
たしかそんな名だったかーー
有毒だ。
景はす、と姿勢を正した。
廊下の向こうから、景さん、と呼ばれたのはその時だった。
景さん、
景をきちんとそう呼ぶのは、今のところ一人だけ、だ。
はい、と景は廊下を歩きだす。
「お呼びですか、桜花さま」
こちらに背を向け、縁側にたたずんでいた桜花が、ふり向いた。後頭部で一つにたばねた黒髪が、弾んで弧を描いた。
もう頭巾はかぶっていない。今日も男装だ、
「景さん、そちらにいたの……というか、包帯、とったの?」
あ、と景はさきほどのカサブタに指をのばした。
「はい、今朝から。汗疹になりそうでしたし」
「掻いたわね?」
赤くなってるわ、と自身の首を指で示してみせながら、桜花は景をかるくにらんだ。
「カサブタ、無理に剥いだらダメよ?また血が出るし。あなた、皮膚弱そうだし」
(いや、)
清楚な桜花が、にらむとほんのり婀娜っぽいて、
「もう。今さらだけど柊どのったら。こんなところに傷つくらせちゃって」
きれいな肌なのに、となぜか桜花は花びらのごとき唇をとがらせる。
(いや、反則、)
「景さん、どうやってあの方に刃、抜かせたの?柊どの、恥だからって何も言わないのよ?」
「ええと、」
景は視線をさまよわせた。ちょっと見惚れて半分聞き流しました、とは言えない、し。それに、
柊が黙っているらしいのに、こちらが何か言うわけにもいかない、し、
(前に説明したはずだけど)
『柊サマは私の腕を試されたかったようで、その際に刃が首に当たっちゃいました』とかなんとか、思いっきりざっくりと。いちおう、事実を。最初に。
とはいえ、何も言わないままで「二人だけの秘密」感がでるのも気持ち悪いので、
「あの時、こちらが紛らわしい動きをしてしまったからかと、思います。柊さまは私に咎めだてがないように気を遣って、何も仰らないのでは、」
ありがたくももったいないです、と景は殊勝につけ足してみる。
ーーが、自分が悪いのも本当だ。
もともと無礼も無茶も承知で、確信犯的に、あの頭巾を狙ったのだし。本気で。相手が手練れだともわかっていて。
あのーー瞬間の、
景の本気は、きっと殺気に近かった。
いきなりそんなモノ向けられたら、刀を抜くほうが、とっさの反応として正解だ。逆の立場なら、景だってそうする。
(そういえば、)
あれから一度も、柊とは顔を合わせていない。姿だけなら何度か見かけたけれど。
(ちゃんと、謝れてない)
そんなことを思ったが、
「桜花さま、御用は」
景は話を切り換えた。
ああ、と桜花が手もとを見おろす。そこには日避けの笠が、二人ぶん用意されている。
「庭の手入れもかねて、花を摘んでこようって、でも一人では駄目だと言われてしまったの。部下は今、皆外していて。景さん、手伝ってもらえる?」
(…たしかに)
桜花が庭で花々とたわむれるーーとか、目に毒だ。特に、男どもには。
かたむけた白い顎の曲線はとろけ、頬は白桃、ゆるりと重たげな睫毛に、肌はなんというかゆでたまごーーつまり、美しい。
本日、化粧かぶれで素のまま瞼を腫らしている景には、ことさら桜花の顔容は目映く、へんに劣等感がーー
(…べつにいいけど)
ただ少し、つまらない、
「桜花さま、私のことは景、と呼び捨てで、と申しあげておりますのに」
景が言うと、黒目がちな瞳がぱち、とまばたき、
「それなら景さんも私のこと、桜花と呼び捨ててくれるのかしら」
「桜花さま」
「それとも私もあなたのこと、景さまって呼ぼうかしら」
ふふふ、と笑う桜花に、景はだまりこむ。初日から面倒をかけてしまったせいか、なんとなくこの上役には、何を言えばいいのかわからない。
桜花は行きましょ、と向きを変えた。その上衣の背がわずかにずれているのに、景は気がついた。ここに女手はないし、部下も外しているようなので、衣をみる者がいなかったのだろう。
男衣と女衣とでは、たとえば同じような型でも、生地や線が微妙に変わる。慣れていなくては、微調整がむずかしい。
お背中が、と景が寄ると、桜花はすんなり背を向けて、たばねた長い髪を肩のほうへかきあげる。
「小用の後でうまく直せなくて……ありがとう。着慣れていないのが、まるわかりよね。おのこ姫のようには、いかないわ」
「おのこ姫?」
景がつぶやくと、桜花がヤダ、と肩ごしに見返った。
「景さんの歳だと知らないの?どうしましょ、私すごく年寄りみたい」
なんだかショックを受けているらしい。
景とは十も違わないーーせいぜい五つほどの差だろうに、たぶん。
(年寄りって何)
その花の顔で。
衣を整えた歳下で目下の景にありがとう、と視線をあわせて礼を言い、くすぐったそうに笑ったりして、
(そりゃあ、)
景から見ると五つ上ぐらいはもう大人な気もするけれど、それにしてもこの人は、少女みたいに咲う、
その胸もとでーー簪が揺れた。
(大人、)
男装しているので、髪には挿さないようだ。が。縁側から庭さきへ下りる桜花を見ながら、景は考える。
この南域において簪を身につけるのは、決まった相手がいるーーということ、それは男性でも女性でも区別なく。でも。
慣習的には女性のほうが、特に身につけていることが多い。男性は儀礼の場でしか、髪を結わないからだろうか、
(桜ーーでは、ないんだ、)
簪の、貝細工の花の、意匠。何の花だろう。
(やっぱり、相手はーー)
と、景は動きを止めた。
同時に、館の奥で騒ぎが起こった。
「桜花さま」
ええ、と桜花が緊張したようにうなずいた。
景はふう、とひとつ呼吸をする。力をゆるり、と弛める。どちらにも動けるように。
ーー感覚が。
開く。自然に。
曲者、表へまわるぞ、逃がすな、どこだ、くそっ、そっちか飛び交う怒号、馳せる足音、近づくーー
気配、凶暴な、
(上)
景は桜花を縁側へ引き戻した。と同時に、腰刀を引き抜く。庭へ飛び降り、桜花のいた位置へ入る。
そこに屋根から飛び込んでくる、黒い影。振り下ろされる刃を、刃で受け止める。くっ、と呼吸が洩れた。相手のほうが、力は強い。小柄なくせに。
というか、
「蒐…っ」
近習仲間の蒐だ。
毒花三家ーー
「邪魔だ支子っ」
蒐が吼える。刃を押す力が、強くなる。小柄でも成人の男だ。膂力では勝てない、
とーー背後で新たな気配、
景は、
一気に力を抜いた。低い体勢で地に倒れたか、というぐらい。
蒐の姿勢が、一瞬、崩れ、
その喉もとに、景の背後から、
「ーーもらった」
白刃が閃き、めりこんだ。
地面すれすれで身を返した景の眼に、三人目の近習がーー毒花の躑躅が、
蒐の喉もとの刃を、引き抜くのが見えた。
鮮赤が散った。
前回、エピソードが思ったより長く、自分でやや疲れたので、今回からわけてみました。




