表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

第一章 1

 三日後。

 景は、聖域保有の中央平原と南域との境界付近にいた。

 ともに来ていた黄麻が、箱馬車を何もない路肩へ停めさせる。ここからは徒歩で、目的地へ向かうらしい。

 日よけの笠を目深くかぶり、景は陽に灼けた地面へ足を下ろす。続いて、黄麻も下りてきた。

(お爺ちゃんとーー孫)

 こっそりと、景は胸の裡で独りごちる。

 どう見ても、そうだろう。

 信用してもらえるんだろうか。これからーー此度このたびの仕事相手との、初顔合わせなのに。

 相手は南都の貴族の子息、と聞いている。「南都十家」だ。

 南都十家とは、南域の代表的な貴族階級の名家ーーの、総称だ。

 ちなみに黄麻が属する「支子くちなし」は、もちろん十家ではない。貴族でもない。

 その「南都十家」を裏から支える、「毒花三家」の一つだ。

「毒花三家」とは文字通り、諜報、暗殺、闇討、煽動、護衛ーーつまり、基本大っぴらには出来ない裏仕事ーーを生業とする氏族らのこと。

 その一つ「支子」の、さらに傍流に黄麻の一門があり、そこでもっとも年若い景にあたえられた今回の仕事は、護衛だった。

 毒花にしては、わりと真っ当な仕事、かもしれない。

(これが、ただの、護衛なら、)

 黄麻の横にならんで歩きながら、景は考える。それにしてもーー

 やはり黄麻がいっしょでは、まるで保護者同伴だ。

(オジイチャント、マゴ)

 だが、人脈がモノをいうこの稼業で、「紹介される」という過程を、おろそかにすることはできない。

 景は笠の端をあげ、ちらと道の先を見た。ここからは、直接目的地は見えない。

「支子が呼ばれるってことは、ただの護衛ではないよね」

 周囲に注意をはらいつつ、小声で師に確認する。顔も口も、極力動かさず、

「護衛対象が、命狙われてるってことだよね?」

「『躑躅つつじや『あかね』も、おそらく此度こたびの対象に張りついている、と言うたら察しはつこう」

 黄麻も唇は動かさずに答えた。

 躑躅や蒐はやはり毒花、同業者だ。

 じゃあさ、と景は低く続ける。

「その躑躅や蒐が、敵にまわるって、あると思う?」

「それは数ある予測のひとつ、に過ぎんな。いつ、何があるかわからぬ。どんなことでも起こりうる。生き残りたかったら、予断にとらわれず、あらゆる可能性を常に均等に、視野に入れておけ」

「うん…タメになるけど具体的ではない、ふわっとした貴重な忠告ありがとう…」

 笠に顔を隠し、景はげっそりと舌を出した。

 じつは今回の護衛対象について、景はまだよく事情を聞かされていない。

 昨日は別の街で、依頼主からの使い、とかいう人物と面談した。が、その男からも簡単な説明しか受けていない。

 いわく、今回の依頼主と護衛対象は、別の人間であること。そして依頼主は、景が今から会う「対象」への、完璧な警護を求めている、ということ。

(完璧じゃない警護って逆に?)

 そこは疑問。だが、まあ置いておく。

 仕事はきっちりやる。あたりまえだ。

 が、気になるのは、事情をしっかり承知しているだろう黄麻までが、最低限の情報しか寄越さないことだ。

(信頼関係(カンケー)って)

 知らないほうがいいこともあるーーにしても。

 これは()()()()じゃないのか、

 何が必要で何が不必要か、判断ジャッジするのは景じゃないのか、

 正式に個人で受ける初仕事、なのに。

められてる)

 昨日の面談も、依頼内容うんぬんより、ただ単に景を最終確認(チェック)したぐらいにしか思えなかった。

蚊帳カヤソト

 道を折れると、前方に館が見える。足もとは砂利だ。両脇から松濤。闇のような夏の緑が揺れる。

(…見てる)

 その松林の奥から。視線。見張り、か。何か仕掛けてくる様子はない。が、数が多い。

(めんどくさ)

 何にしても、ロクな仕事場ではなさそうだ。

 ジイ、と景は呼んで、足もとに視線をやった。

「他の毒花が出張ってくるような案件、こんな若造に押しつけるなんて、どんな了見?」

「なに、わしには別口ベツクチがあるのよ。それに、おまえは『里で二番手』だろう?景よ」

「十家とカラむのは初。大店おおだなや遊廓の用心棒とは、ワケが違う」

「だが、これをやり遂げれば、今後の仕事の報酬はハネ上がるぞ」

 しかし、と黄麻は馬車を下りてから初めて、弟子に視線を向けた。

「おまえ、ちょっと極端すぎないか…?」

「何がよ。人に出家しろ、と言ったの、ジイですが?」

「だからと言うて、」

 はああ、と黄麻がため息をもらす。

「まさか、頭すべて剃りあげるか?わしはまた、尼そぎにでも、と思うておったぞ」

「甘いな、ジイ」

 景は唇の片端をつりあげた。

「私の設定は、寺から呼び寄せた近習きんじゅう、なのだろう?女では不自然だ。それに、寺から呼ばれたばかりの小坊主なら、頭は丸いに決まっている」

 景としては、頭を丸めることもべつに抵抗はない。以前にも、仕事で坊主頭になったことはある。いろんな格好をするのも慣れている。

 幼いときから。

 ただ、夏の坊主は熱い。残暑でもまだ強い陽射しが、痛い。笠がなくては、頭皮が火傷だ。

 本当はーー景が頭を剃った理由は他にもあるが、それは黄麻に言ったところで、理解されないだろう。

 それがわかるなら、この歳まで独り身ではいないだろう。

 じょじょに館の門が、近づいてきている。

 爺、ともう一度景は呼んだ。

「ほんとうに、私で良いのか?」

「良い。おまえは今や、正真正銘『里で二番手』だ」

 ごくり、と景はつばをのむ。

「爺、それは先方にも伝わっているのか」

「真っ先に言うたとも。大事なことだからな」

「…じい」

 もう一度、景はつばをのんだ。

「その『二番手』の内訳、先方は承知か?」

「聞かれなんだから、答えなんだ」

 黄麻はしれっと言い、

「景よ、おまえも余計なことは言うな。言伝ツナギには、すすぎをつけておく」

 言いたいことだけ言って、さあもう何も言うなよ、と念を押した。

 館の門は、もう目のまえだった。



***

 その館は、街道からは直接見えない山裾に位置していた。

 庭園の向こうは借景の武骨な山肌、川の瀬音も近い。松林に囲まれた敷地は、ただただ広い。

 館の持主は、たしか商人だ。南都の貴族相手に、ここを宿泊や静養のために貸し出している、とか。

 黄麻とともに通された板敷の広縁に、景はかれこれ小一時間は座っている。

 待たされている。

(これは、)

 明らかに歓迎されていないな、となんとなく視線をさまよわせた。ただし、眼は極力動かさず。正座で。

 館は履き物を脱いで床にあがる、いわゆる「ヒノモト様式」、異国風だ。南域の山間部に多い。

 眼の前にある対面の間の引き戸ーー夏仕様にすだれを張ったそれーーは、ずっと閉まっていた。こちらから見えないよう、特別な織りの紗までかかっている。

 が、なかに人の気配はあり、こちらをずっとうかがっているのがわかった。

 ま新しい藺草イグサの匂い、御簾や夏の建具の匂い。磨きこまれた柱や床の木の匂い。花の匂い。

 景は時折、それらを胸いっぱい吸いこんでみる。

(香の薫りは、ない)

 これから対面するはずの貴人は、引き戸の奥にはいない。まだ。

 空では太陽が動き、広縁の景のそばまで日光が迫っていた。

(マズい)

 さすがに、アセる。

 火傷する。頭皮が。

 このまま捨て置かれれば。

 所詮自分はーー毒花。

 汚れ仕事が生業のーー有り体にいえば、蔑みの対象。だが。

(火傷はヤだな)

 さんざん待たされたうえに、日灼けかぶれとか水ぶくれとか、ほんとうにーー

 と、ふいに引き戸の向こうの空気が変わった。とっさに景が頭を下げるのと同時に、

 すす、と奥で複数の人間の動く気配。かすかな香。少しの衣擦きぬずれ。床板のわずかなきしり、

あるじ様が参られた」

 内側から、引き戸が左右にひらかれた。

 とたんにーー殺気。

 手前から、奥から()()()()()()()

 こちらが僅かでも不審な動きをした時には、()()()()()()()()()()()()()

おもてをあげよ」

 そのなかで唯一揺らがぬ気配が、奥のほうから声を放った。

 景は、顔をあげる。さきに進み出た黄麻にならい、その斜め後ろにつく。入室が許されたとはいえ、三間続きの対面の間の最下段、広縁からせいぜい二、三歩だ。

 両脇にはずらりと警護の武人、次の間に側近らしき四人、最上段の御簾の間にーー

 うっすらと、人影、

 ほのかに、かぐわしい香。

 藺草の座具やら、それを縁どる絹や房の光沢やら、

ぜい

 贅尽くし。しかも上品。

 両脇の武人にすら、藁で編んだ円座わろうだが与えられている。

(どうせ)

 部外者。

 毒花。

 こちらは板の間に直座りでも、どうってことない。気にはならない。

 それよりも、異様なのはーー

 次の間に控える、側近らしき四人。彼らがそろって、同じような格好をしていることだった。

 前をボタンで留める襟なし(ノーカラー)の白シャツ、濃い色の袴風下衣(ボトムス)、それに色違いの上衣ーー異国の羽織ハオリ風ーーを羽織はおって、

 そして、何より、

 全員が頭から口もとまでを、頭巾ズキンで覆っていた。

正気まじか)

 景は心のなかでち、と舌打ちしたくなった。

(熱中症なるぞ)

 バカバカしいーーこれはつまり、

『どれが本物の主かわかるか、わからないだろう』とーーあからさまに影武者を匂わされている、ということだ。

 が、かちん、としたのは相手も同じらしい。

「まだ子供ではないか」

 四人のなかの誰かが言った。

「『支子くちなし』は、主様を愚弄するか?」

 滅相もございません、と黄麻が頭を下げる。

「この者は若輩ではありますが、我が一門でも現在二番手にあたる者ーー本来、一番手であります私が、この任につくべきところでしたが、私は別の案件を抱えておりますので、二番手であるこの者を、連れて参った次第でございます」

ったわ)

 本当に。ぬけぬけと。二番手とか。二度も。

 ものは言いよう、言いようなのだが。

 爺が何を言ったとて、景の責任じゃないーーと思いたい。我関せず、だ。表情は崩さず、どこでもない宙を景は眺める。何も見ていないような顔で。

(それより)

 側近のなかに、女性が一人、だ。

(女性だよな)

 少女ではない。若い、女性。男の服装なりだが、明らかに違う身体つき、

(奥方…)

 は、いないはずだった。たしか。御簾の向こうの“主様”が、景の想定する人物だとすれば、

側女そばめ、か)

「名は、何という」

 その時、御簾の向こうから初めて声がかかった。

 景は何も考えてなどいない顔のまま、す、と頭を下げる。顔の見えない、今回の護衛対象であるはずの貴人へと。

「景、とお呼びください」

「では、景」

「は」

「私はそもそも、毒花に我が身を守ってもらおうとは思っていない」

「はい」

「私は、私の配下たちを信用している」

「…はい」

 暗にーーいや、はっきりと。毒花は信用しない、と、

「だが、どうしてもほうらに、私を守らせたい御方がおられるので、その御方のために、其の方らを置くことを承知したのだ」

(……そうですか)

 わかりました、と景は返す。必要ない、ときっぱりいわれたようなものだが。

 我関せず、だ。

(知るか)

 どうでもいい。景の目のまえには、依頼された仕事がある。警護対象あちらにどんな思惑があろうが、こちらはこちらの仕事をする。そう決めている。

「そもそも私などの出る幕もなく済むのなら、それが一番良いのでしょうし」

 景はわらう。口もとだけで。うっすらと。

「私もおのれが『毒花』だと主張したいがために、手柄を取りにいくほど、勤勉だとは思いませんし」

 決して無愛想にならないように。あとは、

 ケンカ腰にはならないようにーー

「ですが、私が『支子』であろうがなかろうが、依頼は依頼。私も依頼主様の御為おんため()()()、貴方様を警護させていただきます」

(あとーー)

 何を言えばいいというんだ?

「それだけーーです」

「それだけ、か」

 誰かが言って、誰かがふ、と笑った。

 黄麻がーー

 口のきき方も知らず申し訳ございません、と平身低頭した。



            ***

 忠勤に励みます、とか誠心誠意がんばります、とか命懸けでお護りいたします、とか言っとけばよかったんだろうか。

 目通りを終えた後、退出する際、黄麻は景の頭をぽかり、と一発殴っていった。

 一人残され、景は、

(よくわかんない)

 正解って、

 ーー瞼が、

 かゆい。二重まぶたを化粧用の糊で、一重にしているせいだ。しかもそこに肌より濃い色を重ね、わざと腫れぼったいふうにしているので、ますますかゆい。かぶれるかも知れない。

 ーーやり過ぎたか。

 一人残され、今さら化粧も落とせず、しかたなく景は汗ばんだ自分の白い上衣を脱ぎ、ばさばさと風をいれた。

 結局、目通りのあいだ、一度も主様に顔を見せてはもらえなかった。のみならず。

 御簾もあげてもらえなかった。

(貴人て)

 そういうもの、なんだろうか。それともーー

 本当に、いくら用心してもし足りない、ということなんだろうか。

 依頼主の代理人によると、あの貴人は由緒正しい家の生まれで、幼いうちからその生家を離れ、先日までとある寺で出家の身だったのだという。

 出家ーーめずらしくはない。

 特に南都十家では、跡目争いを避ける目的で、嫡子あととり以外の男子を寺や神殿に預けることは、よくあることだ。

 そしてあの顔を見せない貴人は、此度このたび出家コースを外れ、世俗へと戻ってきた。これは還俗、という。

 が、ここで面倒ごとがひとつある。いわゆる宗教の違い、というやつだ。

 南都は公的には、神殿を厚く信奉しているし、私的には祖霊を祀り敬っている。つまり、寺とのつながりは表向き無いモノとされているのだ。

 だから寺からの還俗には、宗教を変えるための儀礼を執り行わなければいけないのだった。そしてその儀礼に際して、還俗する本人は髪を結べる長さまで伸ばさなくてはならないーー

(髪を伸ばして、どうするんだったか)

 そこまではさすがに、憶えていない。上衣を羽織りなおしながら、景は耳朶じだをかいた。かゆかった。

 とにかくここの主様も、その側近らも、現在は髪を伸ばしている最中らしい。儀礼を終えるまでは、出家でも世俗でもない身の上。何モノでもない者は、世俗である自身の家であってもまだ戻れないーーという、理屈だったか、

 これは家柄が古く、また上流であればあるほど、厳しい縛りだったはず、だ。

(つまりそれだけ、)

 主様の身分はーー

 ふ、と景はふり向いた。

 いったん退出した側近らのうちの一人、らしき男が、ちょうど廊下をこちらへ曲がって来るところだった。

 「らしき」と思ってしまうのは、まだ頭巾を被っているからだ。

「ついて参れ」

 それだけ言って、男は館の奥へと歩きだす。景はその数歩後ろへついた。

 目通り時に、景から見て左の手前側にいた男だろう、たぶん。はなだの上衣に、黒っぽい暗紅色のズボン、上衣の背には大きく白く抜かれた蟬の意匠デザイン、だ。

(洒落者だ?!)

 あのわざとらしい頭巾さえーーなければ。

 声を聞いたのはーー初めてなのか、どうだろう。どちらにしても、さきほどの目通りではあまり口を開いていない。

 男は庭に面した廊下は行かず、部屋と部屋がつながり連なり合うなかをどんどん通り抜け、奥へ進んでいく。部屋から部屋、扉から扉、また扉。

 景の背後には、配下らしき男が二人。足音もなく。

 似たような間取り、似たような調度の部屋、部屋、部屋。右へ左へ、奥へ。館を表から見た時は、そんなに部屋数が多いようには思えなかったのに。絶えず向きを変えて進むので、ぼんやりしていると、方向感覚が狂いそうだ。

(というか)

 わざと狂わせようとしているだろう。絶対。

 狙いがあるのか、それとも用心が過ぎるのかーー

 景は、静かに、深く呼吸する。体内に仮想イメージするのは、方位磁石コンパス、身体の向きが変わるたびに、仮想イメージ磁石コンパスで方角をつかむ。

 と同時に、脳内では、今まで歩いた箇所が立体地図となって、すごい勢いで組みあがっていく。視覚だけじゃない、空気の流れ、匂い、足音の響きかた、軋りかた、床の沈みかた…。全身の感覚で、景は空間を、現在地を把握する。

 身についたこの絶対的な位置感覚は、景の強みだった。というか、最近まで景は、誰でも同じようなことはできるだろう、とすら思っていた。

 それぐらい、景にとっては自然なことだーーたまたま毒花で、この能力が活かされる機会が多いが、感覚自体はたぶんそれ以前から有る。

 気づいたらそうなっていた。

(今は、確実にぐるぐる廻ってる)

 微妙に回路ルートを変えながら、時どき同じ部屋に戻ってきている。たとえば、

(今、この部屋は三度め)

 三つまえに通過した部屋は、二度め。ほかにも継ぎジョイントみたいな“通過用”の部屋が二つほど、ある。蜘蛛の巣みたいだ。

(気持ち悪いぐらい、)

 用心深い。

 面倒くさい。がーー

 景は南都十家で、近ぢか嫡子の交代がありそうな家を思い浮かべた。

 跡目と定められた人間が、家を継げなくなるーー一度出家させられた“嫡子以外”が、還俗させられる理由なんて、ほぼそれ一択だ。

 現在、可能性がある家は、景が知っているだけで三家、「夕星ゆうづつ」「赭石しゃせき

 そしてーー「真朱まそほ

 「南都」の頂点に君臨し続ける家。

 影で「南帝」と称される大侯殿下のお世継ぎの君ーー「次代さま」

(あれはーー)

 夏のはじめごろに、毒花界隈でぱっと広がった「次代さま」の噂だった。

 それによると次代さまが、どうやら不慮の事故に遭われた、らしい。

(『夕星』や『赭石』の嫡子交代も、その事故に絡んでいるとか、いないとか)

 とにかくその時点では、事故の詳細や次代さまの容態など、情報が入ってはこなかったが、

 恐ろしいことに、この業界の噂は他所よそとは違い、大抵事実だ。しかもさらに怖いことには、それ以後「次代さまに関する噂」がふつり、と途絶えてしまっている。

 これは噂がデマとか、次代さまが快方に向かわれた、とかいうことでは、ない。たぶん。

 諜報稼業の毒花プロにも伝わらぬほど、厳重な情報管理ーー隠蔽ーーが行われている、ということだ。

 もちろん毒花の上層部はしっかりと現状を把握し、この隠蔽にも関わっているに決まっているのだが。

 そしてーー

 そんな時期に寺から呼び戻され、髪を伸ばしはじめた貴人が、ここに、

(問題は、)

 それが何番めの御子君なのかーー

 と、その時、

(ズレた)

 ぐるぐると、似た場所ばかり巡っていた回路ルートが。れた。部屋二つぶん。次の瞬間。

 今通ったばかりの引き戸が、背後でバタン、と閉じた。



 天井の低い、ひときわ狭い部屋だった。

(閉じ込められた?!)

 側近の、セミの男と、二人でーー

 ばさり、と目のまえの上衣が、いきなりひるがえる。何が、と考えるよりとっさに、景は自分の上衣をばさ、と相手へ放った。

 その間に身を低く落とし、相手の足もとをすり抜ける。背後へは退けない。宙を舞う景の白衣に、男の腰刀が突き出され、空を切った。

 景は男の背後をりたかったが、相手の反応も速い。瞬時に身体を反転させながら片膝をつく。腰刀が、景を追ってくる。

(速い)

 景はふところから扇を抜いた。目通りの際、唯一所持を許された護身用の鉄扇だ。その鉄の骨で、迫る腰刀を打ち返す。

(鞘が、まだ)

 抜き身ではない。

 けれども、重い。

 相手の腕のひと振りの力が。重い。動きはとても軽いのに。

手練てだれだ)

 景はさっと身を起こし、男に向き直る。鉄扇を構える。とるのは防御の型。

 扇に刃は仕込んであるが、相手は身分が上、下手に攻撃できない。

 対して男は、腰刀を正眼まっすぐに構えてくる。

 そのまま、睨み合う。

 頭巾から唯一のぞく眼に、隙はない。

 こちらへ集中しきった眼射まなざしーー

(動けない)

 うごけない、

 なあ、と相手が口をひらく。

「おまえみたいな子供が、ここでいったい、何をする気だ?」

 刀は鞘から抜かれず、

 けれども声は、本気の声だ。

 景はごくり、と喉を動かした。

「…知りたいですか」

 えて、かわす言いかたを、し、

 いいだろう、と胸の底で考える。

(その喧嘩ケンカ、)

 買ってやる。上等だ。これから真面目に仕事しようとしている人間に。いきなり、打ちかかってくるとか。こっちが毒花だからって、

 じり、じりと景は動きだす。横へ。相手から視線は外さずに。

 男も構えは変えないまま、じり、じりと横へ動く。一定の距離を保ちながら。

(に、しても)

 あの頭巾。

 邪魔だ。

(ああ、)

 卑怯だな。こちらばかり、さらされて、

(ああ、)

 冗談じゃない、

 冗談じゃない、

巫山戯フザケんな)

 爪先が、床に落ちた自分の上衣にあたった。とっさに、それを蹴り上げる。片手でつかみ、ふたたび宙へばさり、と放つ。

 が、今度は下へは行かない。

 低い天井へ、敢えて景は飛ぶ。身体を捻らせ、天井すれすれまで。背面を下にし、宙に広がるおのれの白衣の上を越え、相手の肩先へ逆さまに飛び込む。

 扇を突き出し、その端に男の頭巾を引っかける。

 その、やわい、手ごたえーー

 そこまでだった。

 次の瞬間には、景の身体は床に仰向けになっていた。

 両肩を男の腕一本で押さえこまれ、喉もとには抜き身の刃の切っ先があった。

 頭巾をがれた男の顔が、真上から景を見下ろしている。その頬にーー

 景もまた、鉄扇のかなめを押しつけている。

 視線が、

 呼吸が、

 ぶつかり、

「答えろよ」

 男が再度言う。

「ここで、何をする気だ?」

「私は、逃がし屋です」

 景は、囁いた。

 男を見あげたまま、吐息の声で、

「貴方さまも、逃がしてさしあげますか」

「そのまえに自分が逃げたらどうだ?」

 冷たく、男が返す。

 景はーー嘲笑わらった。

「必要とあらば」

 男の眉がピク、とした。

(ーー若いな)

 景は見あげながらふと、思った。人ごとみたいに。

 初めて目にする男の顔は、眼が強い。油断がない。引き締まった頬、少年と青年の間、十六の景とせいぜいニ、三歳しか違わなそうなーー

 でも、と景は言葉を継ぎ足す。唇の片端が勝手に歪む、

「今ソレ、必要なんですか?めんどくさ」

 男が再びピク、とした。

 喉もとにーー刹那ちり、と鋭い痛み、

「おもしろい」

 男が、嘲笑わらう。一瞬のーー動揺など、まるでなかったように。景から手をはなし、背を起こす。

「おまえが逃がし屋だというなら、まずこの館ーー」

 言いかけて。

 今度こそ本当に、男は目を見ひらいた。

「ーー悪いっ」

「え」

 景は首を傾げ、その皮膚の表面にピリ、と、

「あ」

 たらり、生ぬるい感触、

(切れてる)

 ガバ、と景は起きあがった。

「切れてる⁈」

 痛む箇所に指をあてる。傷のほどをたしかめる。

「動くな、手あてを、」

「いえお気になさらず」

 景は気もち頭を下げたが、男は桜花どの、桜花どのと、よく通る声をはりあげた。それから、

せろ」

 手をのばされて、

 思わず景は後ずさる。たいした傷じゃない。手あてぐらい自分でできる。格闘以外で、よく知らない相手と接触するとか、意味イミわからない。触られる理由なんて、ない。ありえない。

 動いたせいで、指のあいだから血が垂れた。ぽた、ぱた、

「動いたら…っ」

 舌打ち。と同時に肩をつかまれる。ぐい、と近づく身体、背にまわった腕、もう片方の手が、自分で傷をおさえる景の手に重なり、上からさらに押さえてくる。苦しくならない程度に。

(ーー慣れてる)

 じゃなく、

(近いちかい近い)

「あの、血が付きます」

「俺がさせた怪我だ」

 声を、頭のうえで聞く。体温が。熱い。ただでさえ暑いのに。他人の匂い、と、

 ーー香、

「ひいらぎどの?」

 引き戸が開いた。入ってきたのは、さきほど目通りの場にいたあの女性だった。やはりまだ、顔をかくしたまま、

「柊どの、何を?」

 二人の体勢を見て一瞬立ち止まりかけたが、次の瞬間小さく悲鳴をあげた。

「血が⁈何が?」

「桜花どの、酒精と包帯を。深くはないが、当ててしまった」

 頭巾の奥でごくん、と喉を上下させる音がした。

「柊どの、お話は後で。とりあえずここは、わたくしにおまかせ下さい。柊どのはあちらでお仕度したくを」

 すまない、と柊の身体が景を離れる。代わって引き取るように、桜花のやわらかい身体が、景を支える位置に入ってきた。

「あの、わりとかすり傷なのでだいじょうぶです…?」

「そうかもだけど、消毒と薬はきちんとするわ」

 きっぱりと、澄んだ声が言った。

(まだ解放されない)

 ため息を我慢した景の顔を、柊がのぞきこんだ。さきほど対峙した時の鋭さは、まだ残っていたが、

「すまなかった」

 そう言って目を伏せると、それも影をひそめた。

(まつげ、長い)

 さあ、と桜花がわずかに身じろぐ。

「後にいたしましょう。お時間がきてしまいますから」

 ーー何の時間、

 と景は思ったが、訊けるはずもなく。

 柊はたのむ、と言い置いて、桜花の入ってきた引き戸から出ていった。

 さて、と頭巾の奥では、微笑む気配、

 なぜか景の背すじはひやり、とし、

「あなたは、手当て。そして」

 桜花の眼が、景を見下ろした。

「私に、事の次第を、しっかり説明して頂戴ちょうだいね?」



 作品のジャンルにあれこれ書いたのですが、自分でいまいちまだわかってません。

 たとえば、いちおう異世界にしてみたのですが、ファンタジーのほうなのかも、とかまだ思ってます。

 だから読まれる方は、なんとなくそのことをご承知おきください。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ