第一章 1
三日後。
景は、聖域保有の中央平原と南域との境界付近にいた。
ともに来ていた黄麻が、箱馬車を何もない路肩へ停めさせる。ここからは徒歩で、目的地へ向かうらしい。
日よけの笠を目深くかぶり、景は陽に灼けた地面へ足を下ろす。続いて、黄麻も下りてきた。
(お爺ちゃんとーー孫)
こっそりと、景は胸の裡で独りごちる。
どう見ても、そうだろう。
信用してもらえるんだろうか。これからーー此度の仕事相手との、初顔合わせなのに。
相手は南都の貴族の子息、と聞いている。「南都十家」だ。
南都十家とは、南域の代表的な貴族階級の名家ーーの、総称だ。
ちなみに黄麻が属する「支子」は、もちろん十家ではない。貴族でもない。
その「南都十家」を裏から支える、「毒花三家」の一つだ。
「毒花三家」とは文字通り、諜報、暗殺、闇討、煽動、護衛ーーつまり、基本大っぴらには出来ない裏仕事ーーを生業とする氏族らのこと。
その一つ「支子」の、さらに傍流に黄麻の一門があり、そこでもっとも年若い景にあたえられた今回の仕事は、護衛だった。
毒花にしては、わりと真っ当な仕事、かもしれない。
(これが、ただの、護衛なら、)
黄麻の横にならんで歩きながら、景は考える。それにしてもーー
やはり黄麻がいっしょでは、まるで保護者同伴だ。
(オジイチャント、マゴ)
だが、人脈がモノをいうこの稼業で、「紹介される」という過程を、おろそかにすることはできない。
景は笠の端をあげ、ちらと道の先を見た。ここからは、直接目的地は見えない。
「支子が呼ばれるってことは、ただの護衛ではないよね」
周囲に注意をはらいつつ、小声で師に確認する。顔も口も、極力動かさず、
「護衛対象が、命狙われてるってことだよね?」
「『躑躅や『蒐』も、おそらく此度の対象に張りついている、と言うたら察しはつこう」
黄麻も唇は動かさずに答えた。
躑躅や蒐はやはり毒花、同業者だ。
じゃあさ、と景は低く続ける。
「その躑躅や蒐が、敵にまわるって、あると思う?」
「それは数ある予測のひとつ、に過ぎんな。いつ、何があるかわからぬ。どんなことでも起こりうる。生き残りたかったら、予断にとらわれず、あらゆる可能性を常に均等に、視野に入れておけ」
「うん…タメになるけど具体的ではない、ふわっとした貴重な忠告ありがとう…」
笠に顔を隠し、景はげっそりと舌を出した。
じつは今回の護衛対象について、景はまだよく事情を聞かされていない。
昨日は別の街で、依頼主からの使い、とかいう人物と面談した。が、その男からも簡単な説明しか受けていない。
いわく、今回の依頼主と護衛対象は、別の人間であること。そして依頼主は、景が今から会う「対象」への、完璧な警護を求めている、ということ。
(完璧じゃない警護って逆に?)
そこは疑問。だが、まあ置いておく。
仕事はきっちりやる。あたりまえだ。
が、気になるのは、事情をしっかり承知しているだろう黄麻までが、最低限の情報しか寄越さないことだ。
(信頼関係って)
知らないほうがいいこともあるーーにしても。
これは景の仕事じゃないのか、
何が必要で何が不必要か、判断するのは景じゃないのか、
正式に個人で受ける初仕事、なのに。
(舐められてる)
昨日の面談も、依頼内容うんぬんより、ただ単に景を最終確認したぐらいにしか思えなかった。
(蚊帳の外)
道を折れると、前方に館が見える。足もとは砂利だ。両脇から松濤。闇のような夏の緑が揺れる。
(…見てる)
その松林の奥から。視線。見張り、か。何か仕掛けてくる様子はない。が、数が多い。
(めんどくさ)
何にしても、碌な仕事場ではなさそうだ。
爺、と景は呼んで、足もとに視線をやった。
「他の毒花が出張ってくるような案件、こんな若造に押しつけるなんて、どんな了見?」
「なに、わしには別口があるのよ。それに、おまえは『里で二番手』だろう?景よ」
「十家とカラむのは初。大店や遊廓の用心棒とは、ワケが違う」
「だが、これをやり遂げれば、今後の仕事の報酬はハネ上がるぞ」
しかし、と黄麻は馬車を下りてから初めて、弟子に視線を向けた。
「おまえ、ちょっと極端すぎないか…?」
「何がよ。人に出家しろ、と言ったの、爺ですが?」
「だからと言うて、」
はああ、と黄麻がため息をもらす。
「まさか、頭すべて剃りあげるか?わしはまた、尼そぎにでも、と思うておったぞ」
「甘いな、ジイ」
景は唇の片端をつりあげた。
「私の設定は、寺から呼び寄せた近習、なのだろう?女では不自然だ。それに、寺から呼ばれたばかりの小坊主なら、頭は丸いに決まっている」
景としては、頭を丸めることもべつに抵抗はない。以前にも、仕事で坊主頭になったことはある。いろんな格好をするのも慣れている。
幼いときから。
ただ、夏の坊主は熱い。残暑でもまだ強い陽射しが、痛い。笠がなくては、頭皮が火傷だ。
本当はーー景が頭を剃った理由は他にもあるが、それは黄麻に言ったところで、理解されないだろう。
それがわかるなら、この歳まで独り身ではいないだろう。
じょじょに館の門が、近づいてきている。
爺、ともう一度景は呼んだ。
「ほんとうに、私で良いのか?」
「良い。おまえは今や、正真正銘『里で二番手』だ」
ごくり、と景はつばをのむ。
「爺、それは先方にも伝わっているのか」
「真っ先に言うたとも。大事なことだからな」
「…じい」
もう一度、景はつばをのんだ。
「その『二番手』の内訳、先方は承知か?」
「聞かれなんだから、答えなんだ」
黄麻はしれっと言い、
「景よ、おまえも余計なことは言うな。言伝には、雪をつけておく」
言いたいことだけ言って、さあもう何も言うなよ、と念を押した。
館の門は、もう目のまえだった。
***
その館は、街道からは直接見えない山裾に位置していた。
庭園の向こうは借景の武骨な山肌、川の瀬音も近い。松林に囲まれた敷地は、ただただ広い。
館の持主は、たしか商人だ。南都の貴族相手に、ここを宿泊や静養のために貸し出している、とか。
黄麻とともに通された板敷の広縁に、景はかれこれ小一時間は座っている。
待たされている。
(これは、)
明らかに歓迎されていないな、となんとなく視線をさまよわせた。ただし、眼は極力動かさず。正座で。
館は履き物を脱いで床にあがる、いわゆる「ヒノモト様式」、異国風だ。南域の山間部に多い。
眼の前にある対面の間の引き戸ーー夏仕様に簾を張ったそれーーは、ずっと閉まっていた。こちらから見えないよう、特別な織りの紗までかかっている。
が、なかに人の気配はあり、こちらをずっと覗っているのがわかった。
ま新しい藺草の匂い、御簾や夏の建具の匂い。磨きこまれた柱や床の木の匂い。花の匂い。
景は時折、それらを胸いっぱい吸いこんでみる。
(香の薫りは、ない)
これから対面するはずの貴人は、引き戸の奥にはいない。まだ。
空では太陽が動き、広縁の景のそばまで日光が迫っていた。
(マズい)
さすがに、焦る。
火傷する。頭皮が。
このまま捨て置かれれば。
所詮自分はーー毒花。
汚れ仕事が生業のーー有り体にいえば、蔑みの対象。だが。
(火傷はヤだな)
さんざん待たされたうえに、日灼けかぶれとか水ぶくれとか、ほんとうにーー
と、ふいに引き戸の向こうの空気が変わった。とっさに景が頭を下げるのと同時に、
すす、と奥で複数の人間の動く気配。かすかな香。少しの衣擦れ。床板のわずかな軋り、
「主様が参られた」
内側から、引き戸が左右にひらかれた。
とたんにーー殺気。
手前から、奥から景たちに向けて。
こちらが僅かでも不審な動きをした時には、いつでも飛び掛かれるように。
「面をあげよ」
そのなかで唯一揺らがぬ気配が、奥のほうから声を放った。
景は、顔をあげる。さきに進み出た黄麻にならい、その斜め後ろにつく。入室が許されたとはいえ、三間続きの対面の間の最下段、広縁からせいぜい二、三歩だ。
両脇にはずらりと警護の武人、次の間に側近らしき四人、最上段の御簾の間にーー
うっすらと、人影、
ほのかに、かぐわしい香。
藺草の座具やら、それを縁どる絹や房の光沢やら、
(贅)
贅尽くし。しかも上品。
両脇の武人にすら、藁で編んだ円座が与えられている。
(どうせ)
部外者。
毒花。
こちらは板の間に直座りでも、どうってことない。気にはならない。
それよりも、異様なのはーー
次の間に控える、側近らしき四人。彼らがそろって、同じような格好をしていることだった。
前を釦で留める襟なしの白シャツ、濃い色の袴風下衣、それに色違いの上衣ーー異国の羽織風ーーを羽織って、
そして、何より、
全員が頭から口もとまでを、頭巾で覆っていた。
(正気か)
景は心のなかでち、と舌打ちしたくなった。
(熱中症なるぞ)
バカバカしいーーこれはつまり、
『どれが本物の主かわかるか、わからないだろう』とーーあからさまに影武者を匂わされている、ということだ。
が、かちん、としたのは相手も同じらしい。
「まだ子供ではないか」
四人のなかの誰かが言った。
「『支子』は、主様を愚弄するか?」
滅相もございません、と黄麻が頭を下げる。
「この者は若輩ではありますが、我が一門でも現在二番手にあたる者ーー本来、一番手であります私が、この任につくべきところでしたが、私は別の案件を抱えておりますので、二番手であるこの者を、連れて参った次第でございます」
(言ったわ)
本当に。ぬけぬけと。二番手とか。二度も。
ものは言いよう、言いようなのだが。
爺が何を言ったとて、景の責任じゃないーーと思いたい。我関せず、だ。表情は崩さず、どこでもない宙を景は眺める。何も見ていないような顔で。
(それより)
側近のなかに、女性が一人、だ。
(女性だよな)
少女ではない。若い、女性。男の服装だが、明らかに違う身体つき、
(奥方…)
は、いないはずだった。たしか。御簾の向こうの“主様”が、景の想定する人物だとすれば、
(側女、か)
「名は、何という」
その時、御簾の向こうから初めて声がかかった。
景は何も考えてなどいない顔のまま、す、と頭を下げる。顔の見えない、今回の護衛対象であるはずの貴人へと。
「景、とお呼びください」
「では、景」
「は」
「私はそもそも、毒花に我が身を守ってもらおうとは思っていない」
「はい」
「私は、私の配下たちを信用している」
「…はい」
暗にーーいや、はっきりと。毒花は信用しない、と、
「だが、どうしても其の方らに、私を守らせたい御方がおられるので、その御方のために、其の方らを置くことを承知したのだ」
(……そうですか)
わかりました、と景は返す。必要ない、ときっぱりいわれたようなものだが。
我関せず、だ。
(知るか)
どうでもいい。景の目のまえには、依頼された仕事がある。警護対象にどんな思惑があろうが、こちらはこちらの仕事をする。そう決めている。
「そもそも私などの出る幕もなく済むのなら、それが一番良いのでしょうし」
景はわらう。口もとだけで。うっすらと。
「私もおのれが『毒花』だと主張したいがために、手柄を取りにいくほど、勤勉だとは思いませんし」
決して無愛想にならないように。あとは、
ケンカ腰にはならないようにーー
「ですが、私が『支子』であろうがなかろうが、依頼は依頼。私も依頼主様の御為だけに、貴方様を警護させていただきます」
(あとーー)
何を言えばいいというんだ?
「それだけーーです」
「それだけ、か」
誰かが言って、誰かがふ、と笑った。
黄麻がーー
口のきき方も知らず申し訳ございません、と平身低頭した。
***
忠勤に励みます、とか誠心誠意がんばります、とか命懸けでお護りいたします、とか言っとけばよかったんだろうか。
目通りを終えた後、退出する際、黄麻は景の頭をぽかり、と一発殴っていった。
一人残され、景は、
(よくわかんない)
正解って、
ーー瞼が、
かゆい。二重まぶたを化粧用の糊で、一重にしているせいだ。しかもそこに肌より濃い色を重ね、わざと腫れぼったいふうにしているので、ますますかゆい。かぶれるかも知れない。
ーーやり過ぎたか。
一人残され、今さら化粧も落とせず、しかたなく景は汗ばんだ自分の白い上衣を脱ぎ、ばさばさと風をいれた。
結局、目通りのあいだ、一度も主様に顔を見せてはもらえなかった。のみならず。
御簾もあげてもらえなかった。
(貴人て)
そういうもの、なんだろうか。それともーー
本当に、いくら用心してもし足りない、ということなんだろうか。
依頼主の代理人によると、あの貴人は由緒正しい家の生まれで、幼いうちからその生家を離れ、先日までとある寺で出家の身だったのだという。
出家ーーめずらしくはない。
特に南都十家では、跡目争いを避ける目的で、嫡子以外の男子を寺や神殿に預けることは、よくあることだ。
そしてあの顔を見せない貴人は、此度出家コースを外れ、世俗へと戻ってきた。これは還俗、という。
が、ここで面倒ごとがひとつある。いわゆる宗教の違い、というやつだ。
南都は公的には、神殿を厚く信奉しているし、私的には祖霊を祀り敬っている。つまり、寺とのつながりは表向き無いモノとされているのだ。
だから寺からの還俗には、宗教を変えるための儀礼を執り行わなければいけないのだった。そしてその儀礼に際して、還俗する本人は髪を結べる長さまで伸ばさなくてはならないーー
(髪を伸ばして、どうするんだったか)
そこまではさすがに、憶えていない。上衣を羽織りなおしながら、景は耳朶をかいた。かゆかった。
とにかくここの主様も、その側近らも、現在は髪を伸ばしている最中らしい。儀礼を終えるまでは、出家でも世俗でもない身の上。何モノでもない者は、世俗である自身の家であってもまだ戻れないーーという、理屈だったか、
これは家柄が古く、また上流であればあるほど、厳しい縛りだったはず、だ。
(つまりそれだけ、)
主様の身分はーー
ふ、と景はふり向いた。
いったん退出した側近らのうちの一人、らしき男が、ちょうど廊下をこちらへ曲がって来るところだった。
「らしき」と思ってしまうのは、まだ頭巾を被っているからだ。
「ついて参れ」
それだけ言って、男は館の奥へと歩きだす。景はその数歩後ろへついた。
目通り時に、景から見て左の手前側にいた男だろう、たぶん。縹の上衣に、黒っぽい暗紅色の袴、上衣の背には大きく白く抜かれた蟬の意匠、だ。
(洒落者だ?!)
あのわざとらしい頭巾さえーーなければ。
声を聞いたのはーー初めてなのか、どうだろう。どちらにしても、さきほどの目通りではあまり口を開いていない。
男は庭に面した廊下は行かず、部屋と部屋がつながり連なり合うなかをどんどん通り抜け、奥へ進んでいく。部屋から部屋、扉から扉、また扉。
景の背後には、配下らしき男が二人。足音もなく。
似たような間取り、似たような調度の部屋、部屋、部屋。右へ左へ、奥へ。館を表から見た時は、そんなに部屋数が多いようには思えなかったのに。絶えず向きを変えて進むので、ぼんやりしていると、方向感覚が狂いそうだ。
(というか)
わざと狂わせようとしているだろう。絶対。
狙いがあるのか、それとも用心が過ぎるのかーー
景は、静かに、深く呼吸する。体内に仮想するのは、方位磁石、身体の向きが変わるたびに、仮想の磁石で方角をつかむ。
と同時に、脳内では、今まで歩いた箇所が立体地図となって、すごい勢いで組みあがっていく。視覚だけじゃない、空気の流れ、匂い、足音の響きかた、軋りかた、床の沈みかた…。全身の感覚で、景は空間を、現在地を把握する。
身についたこの絶対的な位置感覚は、景の強みだった。というか、最近まで景は、誰でも同じようなことはできるだろう、とすら思っていた。
それぐらい、景にとっては自然なことだーーたまたま毒花で、この能力が活かされる機会が多いが、感覚自体はたぶんそれ以前から有る。
気づいたらそうなっていた。
(今は、確実にぐるぐる廻ってる)
微妙に回路を変えながら、時どき同じ部屋に戻ってきている。たとえば、
(今、この部屋は三度め)
三つまえに通過した部屋は、二度め。ほかにも継ぎ目みたいな“通過用”の部屋が二つほど、ある。蜘蛛の巣みたいだ。
(気持ち悪いぐらい、)
用心深い。
面倒くさい。がーー
景は南都十家で、近ぢか嫡子の交代がありそうな家を思い浮かべた。
跡目と定められた人間が、家を継げなくなるーー一度出家させられた“嫡子以外”が、還俗させられる理由なんて、ほぼそれ一択だ。
現在、可能性がある家は、景が知っているだけで三家、「夕星」「赭石」
そしてーー「真朱」
「南都」の頂点に君臨し続ける家。
影で「南帝」と称される大侯殿下のお世継ぎの君ーー「次代さま」
(あれはーー)
夏のはじめごろに、毒花界隈でぱっと広がった「次代さま」の噂だった。
それによると次代さまが、どうやら不慮の事故に遭われた、らしい。
(『夕星』や『赭石』の嫡子交代も、その事故に絡んでいるとか、いないとか)
とにかくその時点では、事故の詳細や次代さまの容態など、情報が入ってはこなかったが、
恐ろしいことに、この業界の噂は他所とは違い、大抵事実だ。しかもさらに怖いことには、それ以後「次代さまに関する噂」がふつり、と途絶えてしまっている。
これは噂がデマとか、次代さまが快方に向かわれた、とかいうことでは、ない。たぶん。
諜報稼業の毒花にも伝わらぬほど、厳重な情報管理ーー隠蔽ーーが行われている、ということだ。
もちろん毒花の上層部はしっかりと現状を把握し、この隠蔽にも関わっているに決まっているのだが。
そしてーー
そんな時期に寺から呼び戻され、髪を伸ばしはじめた貴人が、ここに、
(問題は、)
それが何番めの御子君なのかーー
と、その時、
(ズレた)
ぐるぐると、似た場所ばかり巡っていた回路が。逸れた。部屋二つぶん。次の瞬間。
今通ったばかりの引き戸が、背後でバタン、と閉じた。
天井の低い、ひときわ狭い部屋だった。
(閉じ込められた?!)
側近の、蟬の羽の男と、二人でーー
ばさり、と目のまえの上衣が、いきなり翻る。何が、と考えるよりとっさに、景は自分の上衣をばさ、と相手へ放った。
その間に身を低く落とし、相手の足もとをすり抜ける。背後へは退けない。宙を舞う景の白衣に、男の腰刀が突き出され、空を切った。
景は男の背後を奪りたかったが、相手の反応も速い。瞬時に身体を反転させながら片膝をつく。腰刀が、景を追ってくる。
(速い)
景は懐から扇を抜いた。目通りの際、唯一所持を許された護身用の鉄扇だ。その鉄の骨で、迫る腰刀を打ち返す。
(鞘が、まだ)
抜き身ではない。
けれども、重い。
相手の腕のひと振りの力が。重い。動きはとても軽いのに。
(手練れだ)
景はさっと身を起こし、男に向き直る。鉄扇を構える。とるのは防御の型。
扇に刃は仕込んであるが、相手は身分が上、下手に攻撃できない。
対して男は、腰刀を正眼に構えてくる。
そのまま、睨み合う。
頭巾から唯一のぞく眼に、隙はない。
こちらへ集中しきった眼射しーー
(動けない)
うごけない、
なあ、と相手が口をひらく。
「おまえみたいな子供が、ここでいったい、何をする気だ?」
刀は鞘から抜かれず、
けれども声は、本気の声だ。
景はごくり、と喉を動かした。
「…知りたいですか」
敢えて、躱す言いかたを、し、
いいだろう、と胸の底で考える。
(その喧嘩、)
買ってやる。上等だ。これから真面目に仕事しようとしている人間に。いきなり、打ちかかってくるとか。こっちが毒花だからって、
じり、じりと景は動きだす。横へ。相手から視線は外さずに。
男も構えは変えないまま、じり、じりと横へ動く。一定の距離を保ちながら。
(に、しても)
あの頭巾。
邪魔だ。
(ああ、)
卑怯だな。こちらばかり、晒されて、
(ああ、)
冗談じゃない、
冗談じゃない、
(巫山戯んな)
爪先が、床に落ちた自分の上衣にあたった。とっさに、それを蹴り上げる。片手でつかみ、ふたたび宙へばさり、と放つ。
が、今度は下へは行かない。
低い天井へ、敢えて景は飛ぶ。身体を捻らせ、天井すれすれまで。背面を下にし、宙に広がる己の白衣の上を越え、相手の肩先へ逆さまに飛び込む。
扇を突き出し、その端に男の頭巾を引っかける。
その、柔い、手ごたえーー
そこまでだった。
次の瞬間には、景の身体は床に仰向けになっていた。
両肩を男の腕一本で押さえこまれ、喉もとには抜き身の刃の切っ先があった。
頭巾を剥がれた男の顔が、真上から景を見下ろしている。その頬にーー
景もまた、鉄扇の要を押しつけている。
視線が、
呼吸が、
ぶつかり、
「答えろよ」
男が再度言う。
「ここで、何をする気だ?」
「私は、逃がし屋です」
景は、囁いた。
男を見あげたまま、吐息の声で、
「貴方さまも、逃がしてさしあげますか」
「そのまえに自分が逃げたらどうだ?」
冷たく、男が返す。
景はーー嘲笑った。
「必要とあらば」
男の眉がピク、とした。
(ーー若いな)
景は見あげながらふと、思った。人ごとみたいに。
初めて目にする男の顔は、眼が強い。油断がない。引き締まった頬、少年と青年の間、十六の景とせいぜいニ、三歳しか違わなそうなーー
でも、と景は言葉を継ぎ足す。唇の片端が勝手に歪む、
「今ソレ、必要なんですか?めんどくさ」
男が再びピク、とした。
喉もとにーー刹那ちり、と鋭い痛み、
「おもしろい」
男が、嘲笑う。一瞬のーー動揺など、まるでなかったように。景から手をはなし、背を起こす。
「おまえが逃がし屋だというなら、まずこの館ーー」
言いかけて。
今度こそ本当に、男は目を見ひらいた。
「ーー悪いっ」
「え」
景は首を傾げ、その皮膚の表面にピリ、と、
「あ」
たらり、生ぬるい感触、
(切れてる)
ガバ、と景は起きあがった。
「切れてる⁈」
痛む箇所に指をあてる。傷のほどをたしかめる。
「動くな、手あてを、」
「いえお気になさらず」
景は気もち頭を下げたが、男は桜花どの、桜花どのと、よく通る声をはりあげた。それから、
「診せろ」
手をのばされて、
思わず景は後ずさる。たいした傷じゃない。手あてぐらい自分でできる。格闘以外で、よく知らない相手と接触するとか、意味わからない。触られる理由なんて、ない。ありえない。
動いたせいで、指のあいだから血が垂れた。ぽた、ぱた、
「動いたら…っ」
舌打ち。と同時に肩をつかまれる。ぐい、と近づく身体、背にまわった腕、もう片方の手が、自分で傷をおさえる景の手に重なり、上からさらに押さえてくる。苦しくならない程度に。
(ーー慣れてる)
じゃなく、
(近いちかい近い)
「あの、血が付きます」
「俺がさせた怪我だ」
声を、頭のうえで聞く。体温が。熱い。ただでさえ暑いのに。他人の匂い、と、
ーー香、
「ひいらぎどの?」
引き戸が開いた。入ってきたのは、さきほど目通りの場にいたあの女性だった。やはりまだ、顔をかくしたまま、
「柊どの、何を?」
二人の体勢を見て一瞬立ち止まりかけたが、次の瞬間小さく悲鳴をあげた。
「血が⁈何が?」
「桜花どの、酒精と包帯を。深くはないが、当ててしまった」
頭巾の奥でごくん、と喉を上下させる音がした。
「柊どの、お話は後で。とりあえずここは、私におまかせ下さい。柊どのはあちらでお仕度を」
すまない、と柊の身体が景を離れる。代わって引き取るように、桜花のやわらかい身体が、景を支える位置に入ってきた。
「あの、わりとかすり傷なのでだいじょうぶです…?」
「そうかもだけど、消毒と薬はきちんとするわ」
きっぱりと、澄んだ声が言った。
(まだ解放されない)
ため息を我慢した景の顔を、柊がのぞきこんだ。さきほど対峙した時の鋭さは、まだ残っていたが、
「すまなかった」
そう言って目を伏せると、それも影をひそめた。
(まつげ、長い)
さあ、と桜花がわずかに身じろぐ。
「後にいたしましょう。お時間がきてしまいますから」
ーー何の時間、
と景は思ったが、訊けるはずもなく。
柊はたのむ、と言い置いて、桜花の入ってきた引き戸から出ていった。
さて、と頭巾の奥では、微笑む気配、
なぜか景の背すじはひやり、とし、
「あなたは、手当て。そして」
桜花の眼が、景を見下ろした。
「私に、事の次第を、しっかり説明して頂戴ね?」
作品のジャンルにあれこれ書いたのですが、自分でいまいちまだわかってません。
たとえば、いちおう異世界にしてみたのですが、ファンタジーのほうなのかも、とかまだ思ってます。
だから読まれる方は、なんとなくそのことをご承知おきください。