6 あなたと殿下は違います
それから一言、二言会話を交わし、私たちは裏庭を後にした。王族が会場を離れすぎてもいけないだろうし、殿下に挨拶をしたい人もたくさんいるだろうと思ったからだ。
案の定殿下は会場に戻った途端人波に揉まれてしまったわけだが、1人になりたかった私にはちょうど良い。私は会場の隅で休むことにした。
――そういえば、婚約者の話が嘘だって言うの忘れてたな。
元々そのために来たはずだったのだが、いつの間にか頭からすっぽりと抜けていた。また殿下と話す機会はあるかな……と思ったが、あの人数じゃ私が入る隙なんてなさそうだ。
と、溜息を吐いていると。
「こんにちは、ステイシーさん」
突然声を掛けられ、振り返る。
視界に飛び込んできたのは、派手な格好をした美麗の令息だった。知らない顔だ。
「いやあ、さっきから見覚えのある顔だと思ってたんだけど、まさかクレセントのお茶会に来ていたとは。こんなところで会えるなんて感激だなあ」
「え、っと……?」
「おっと失礼。初めまして、スティード侯爵家の次男、レイマン・スティードです。どうぞお見知りおきを」
「ああ、はい。……ありがとう、ございます……?」
スティード家のレイマンさん。前世でも今世でも聞き覚えのない名前ということは、つまり彼はゲームの登場人物ではないのだろう。となるとより用件が不明である。
そんな思いが表情に出ていたのだろうか。レイマン様は苦笑いを浮かべると、ほんの少し声を弾ませた。
「今日君を見かけてからずっと話したいと思ってたんだ。今、時間ある?」
「え、あ、はい。まあ……」
「そっか、良かった。実は僕さ、君のことずっと気になってて」
その言葉に何となく嫌な予感を感じると共に、レイマン様は声を少し身を乗り出してきた。
それから、僅かに声を潜めてこう告げる。
「ねえ、ステイシー。……今夜、僕の家に来ない?」
そう、幾度となく聞いたお誘いを。
――ああ、やっぱり嘘くらいついておくべきだった。口角を歪める彼に、私はそっと唇を噛む。
「聞いたよ。君、この間の第一王子の生誕パーティーの日にそこのイヴァン様と会場を抜け出したんだろう? 魔性の伯爵令嬢が遂に王族を射抜いたって巷じゃ噂だ」
すっかり忘れていた。社交の場でステイシーに声を掛けてくる年頃の令息は、大抵が身体目当てなのだ。
先程からちらほらと感じていた視線も、きっと彼と同じような思考を持つ令息が他にいたからに違いない。
私は心の中でステイシーに恨み言を吐くと、視線を俯かせて一言「すみません」と断った。期待の目を向けてくる彼には悪いが、もう遊ぶ気なんて更々ない。
すると、レイマン様の顔色が困惑に変わった。
「え? ……すみませんって、何が?」
「もう、そういうのはちょっと。……私も良い歳なので」
「いやいやいや、そんなの君らしくないじゃないか! この間まで遊び呆けてたんだろ? 先月だって僕の友人が君と寝たって言ってたし、その前日だって」
「……」
慌てたように言葉を紡ぐ彼を見て、思わず小さな溜息が漏れる。
魔性の伯爵令嬢は、限りなく別人に近い自分だ。
過去の自分がやらかしたことだし、そのツケが回ってくるのは順当なことだが、こうもあからさまに身体目当ての殿方が寄ってくると心に来るものがある。
――「あんたね、考えが甘すぎるのよ」
未だ頭から出て行ってくれない魔性の方のステイシーがそう嘲るように言った。令嬢のくせに失礼な物言いだ。
――「本当に女を大事に思ってる男なんて一握りしかいないの。あの王子みたいにあれ以降キスのひとつもして来ない男の方が珍しいくらいだわ」
確かにそれはそうだけど。……でも、何だかそれって悲しくはないだろうか。心の底から愛してくれる人がいないなんて。
「……そんなの悲しいじゃない」
気付けば、口から呟きが漏れ出ていた。頭の中のステイシーは「それ私を可哀想だって言ってる?」と不満げだ。
……そういうわけじゃないけど、でも。
形容しがたい気持ちに押し黙る。
すると、すっかり存在を忘れていたレイマン様が、突然私の肩を掴んだ。
「……何が『悲しい』って? 僕に誘われたことか?」
「へ」
「君は随分傲慢な人間なんだな。しがない伯爵家の傷持ち令嬢のくせに、誘いを断った挙句僕を貶すというのか?」
独り言を彼に聞き取られたらしい。慌てて否定しようとするも、声を震わせながら怒りに燃えるレイマン様には届きもしない。
「ち、違……っ! そんなつもりじゃ」
「ああそうか、そうだよな、君は第二王子に抱かれたんだもんな。王族に抱かれたんなら侯爵貴族如き相手にしなくなるのも当然だ」
「レイマン様、ですから私は」
言葉を遮るように肩を掴む力が強まり、私は短い悲鳴を上げた。痛い。
逃げ出したかったが、それも叶わない。レイマン様の目は見開かれ、侮蔑的な色を隠しもしていなかった。
「下手に出ていればつけあがりやがって……。こんな売女がよくのこのこと出てこれるなんて、クレセントの茶会も堕ちたものだな」
「……な」
――売女。
確かに発せられた言葉に、心臓がどきりと鳴る。貴族令嬢に対しては最大級と言っていい侮辱の言葉だ。
確かにステイシーは複数の殿方と関係を持っていた。婚約者がいると嘘までついて遊び回り、それが突然自分だけお断りを入れられたのなら、そう思われても仕方がないのやもしれない。
……でも、彼にそんなことを言われる筋合いはない。
拳を握った。唇を噛み、シャルナに凛とした態度で立ち向かったステイシーを思い出す。
――あのようにとはいかなくても、せめて彼女らしく対抗できるように。
「……は、……はな、して」
小さな声で発したそれは、しかし確かにレイマン様に届いたらしい。
「……は?」
「離して。……わ、私、あなたなんかと遊ぶ気はありません」
思わぬ反論に表情を歪ませた彼は、一瞬肩を掴む力を緩めさせた。その隙を狙い距離を取ると、レイマンの右手が空を掴む。
「あ、……あなたなんかが、女性より上に立てると思わないで」
「待っ、お前……!」
「つ、次は、もっと素敵な口説き文句でお願いします。……さようなら」
次なんてないけれど。そんな言葉は心の奥にしまったまま、居心地の悪くなってしまった会場を出る。
これから始まるであろうゲームのストーリーを見ることができなかったのは心残りだが、元々ステイシーはあの場にいなかったキャラクターだ。
……恐らくは殿下が攻略対象として選ばれるのだし、ならわかっていることを眺めていても仕方がない。
「……すみません。家までお願いします」
妙にざわめく胸を抑えつつ、私は馬車に乗り込んだ。走り出した車内で一息つくと、余計なことばかりが頭を過ってくる。
――「振っちゃっていいの?あのレイマンとかいう男、結構な色男だったけど」
魔性の方のステイシーが、面食いを隠そうともせずに言った。確かに顔はかっこよかったけど。
――「あんたが随分気にかけてる王子だって、出会いはセッ……い行為じゃない。あの男と何が違うの?」
……誤魔化せているようでぼやかしきれていない。私は壁にもたれかかり、そっと馬車の揺れに身を委ねた。
確かに、勘違いとはいえ殿下だって出会いは身体だった。
でもレイマン様とは確実に違う。身体を重ねたのはステイシーの勘違いだし、さっきだって、抱き締めるのにいちいち許可まで取ってくれたくらいだ。……結局許可を出す前に抱き寄せられていたけれど。
「……殿下は違うよ」
ぽそりと呟いた。そうだ。彼は違う。あんな侯爵貴族なんかとは一緒じゃない。
違うからこそ、愛らしくて可憐な主人公と結ばれる運命にある。そうだろう。
……とにかく気疲れした。家まで少し時間があるし、時間が許す限りは眠ってしまおう。
胸の奥に根を張る苦い気持ちに蓋をするよう、静かに目を閉じる。
――その瞬間、お城ではまさに殿下が自分を探していたことなど気付かぬまま、私は意識を手放した。