46 殿下、既成事実ってなんですか……?
――それから、もうしばらく、時間が経って。
いつかの日以来の王城ホールに足を踏み入れていた私は、端の方でぼうっと席に座っていた。
「ステイシー」
中央の賑やかさとは一転、ゆっくりと紅茶を頂いていると、声を掛けてくれたのは殿下である。カップを机に置いて「殿下」と応えると、彼は少し不満げに眉を寄せた。
「……ステイシー」
「あ、……ふふ、すみません、イヴァン様。つい癖で」
少し前から殿――じゃない。イヴァン様は、私に「殿下」と呼ばれるのを嫌がるようになった。何か心変わりでもしたのかと思えば、単に名前で呼んでほしいだけとのことで非常に可愛らしい。
ということで名前で呼ぶよう努力はしているのだけれど、気が抜けるとつい殿下と呼んでしまう。染みついた時間というのは厄介なのだ。
「足の怪我は大丈夫か? 侍女に手当てをしてもらったと聞いたんだが」
でも訂正すればすぐに機嫌を良くしてくれるあたり、やっぱりイヴァン様は可愛い。出会った当初とはまるで別人の印象だ。
「はい、もうだいぶマシです。……それよりすみません、途中で抜けてしまって」
「いや、お前の無事が最優先だろ。膿んだりしたら大変だ」
そう言うと、イヴァン様は隣の椅子に腰掛ける。……彼、一応この場の重要人物だと思うのだけれど、こんな端にいて良いのだろうか。第二王子殿に挨拶したい人だって山ほどいるだろうに。
そんなことを考えながら、私はふとホールの中央に目を向ける。
人だかりに囲まれるなか、この場の主役――ユリウス様とクレアは、お互い幸せそうに笑って談笑していた。クレアの方は、少し照れくさそうな表情だ。
あの日。イヴァン様の生誕パーティーから半年ほど経ったあと、ユリウス様とクレアは婚約を発表した。
それはもう天地が揺らぐような大騒ぎだった。国民はどよめき、貴族は更にどよめき――本当に、この表現が適切かどうかはわからないけれど、お祭り騒ぎといった様相で。
当の私はあまり驚かなかったのだけれど、それでもユリウス様は思い切ったと思う。次期国王の妃が、平民の出なのだ。ユリウス様は周囲の考えを重んじるタイプだと思っていたから余計に。
――でも、ユリウス様の婚約者として、クレアは最適だよなあ。
そう心内に零しつつ、不慣れながらも丁寧な所作で来客の相手をするクレアを見つめる。
クレアの方は、最初ユリウス様との婚約を断っていたらしい。レイマンに悪どく騙されていた事実も想いも拭えていなかったし、何より平民という出自が足枷になる。
それでもユリウス様は諦めず、半年間暇を見つけてはクレアのところに通っていたというのだから天晴れである。その間も両親――特に王妃の説得にあたっていたと聞いたし、それほどクレアに対して本気だったのだろう。
結果こうして婚約発表パーティーに臨んでいるのだから、ものすごい精神力だ。
「ステイシー? ……どうした、足が痛むか?」
声を掛けられ、慌てて視線を隣にやる。
不安げにこちらを見つめるイヴァン様に微笑みかけ、私は首を横に振った。リズの手当てのおかげでもうほとんど痛みはない。
ほんの数十分前の話だ。クレアやユリウス様との挨拶を終え、場内の貴族諸侯と歓談に興じていた私は、すれ違った貴族令嬢に足を踏まれてしまった。
向こうの靴のヒールが高かったのが災いしたのだろう。傷を作り血が出て、結果端の方で休みがてらお茶会を開いているのである。
傷の見た目以上に痛みはあったものの、とはいえ少し疲れていたところだ。
幸運までとは言わないけれど、相手方の子爵令嬢に悪意はなかったし、少し休めてよかったといえる。……むしろ土下座するくらいの勢いで謝られて、こっちが申し訳なかったくらいなんだけど。
「……お2人とも、すごく素敵な夫婦になるでしょうね」
思わず呟くと、イヴァン様がこちらに視線を向けた。
本当に、本当に素敵な夫婦になると思う。私なんかには見せてくれない、ユリウス様の抱えたものを、クレアならきっと包み込んであげられると思うから。
「………羨ましいか?」
そんな間をどう解釈したか、ぽつりと尋ねられ、私は一瞬動きを止めた。
羨ましい、って。……何だ、女性として羨ましいかって、そういうこと? 確かに女性は、というか貴族令嬢は婚姻に対して並々ならぬ感情を持っている人もいるけれど。
でも私のそれは羨ましさというより、単なる感動だ。少しだけお節介を焼いたクレアが、そして関わりを持てたユリウス様が幸せになることへの感動。
「うーん、どうでしょう。……確かに羨みはするかもですね、素敵すぎて」
「なら……」
「でもそれ以上に嬉しいんですよ。2人が一緒になることとか、あんな幸せそうに笑ってるのとか」
結局羨望のような言い方になってしまったけれど。そう笑いかけると、イヴァン様は僅かに視線を俯かせる。
そしてほんの少し口を尖らせると、機嫌を損ねた子供のように。
「何だ。……お前も早く俺と結婚してえのかと思った」
なんて、思わず耳を疑うような言葉を。
「……えっ?」
「兄上の婚約から間を空けた方が良いとか何とか言って、お前未だに結婚を渋るだろ。先に結婚しようっつったのは兄上じゃなくて俺なのに」
ぎくりと心臓が鳴る。……た、確かに、あの日以降私とイヴァン様の関係は何ら進展していないし、約束した結婚についても具体的な話は決まっていないけど。
「で、でも、立て続けに発表しても忙しくなると思いますし……」
「……」
「何ですかその目は……! 本当ですよ、気持ちは山々です!」
訝しげな目を向ける彼に思わず食いかかる。……だ、だって、まだ少し勇気がいるのだ。
これから何をやってどんな偉業を成し遂げたとて、私が『魔性の伯爵令嬢』だった過去は変わらない。
そしてそれは貴族社会では周知の事実だ。本当に知らなかったイヴァン様なんかはともかくとしても、この社会には私の良いとは言えない過去が知れ渡ってしまっている。
――だからこそ、周りに何を言われるかわからないし。
それでイヴァン様の方に飛び火でもしたら最悪だ。好きだからこそ、彼のことばかりを考えて一歩が踏み出せない。
「……はあ」
なんて、ここ数ヶ月で幾度となく思っていることをうじうじと考え込んでいると、イヴァン様が溜息を吐いた。
思わずびくりと肩が跳ねる。……この件において悪いのは私だ。いつまでも後ろ向きな考えばかりで、前に進めないから。
「……いくらでも待つつもりだけどな、俺の精神力だって無限じゃねえぞ」
イヴァン様は、カップを置いて私に向き直る。
自然と俯きがちだった顔が上がり、背筋が伸びた。何故だろう。彼の前では、できるだけ綺麗な姿でありたいと思うからか。
「できるだけ早く結婚したいし、お前に触れられるだけの正当な理由だってほしい」
「でん、」
「それに、お前は周りを気にしすぎだ。……他者のことを考えられんのはお前の良いとこだが、結婚は俺とステイシーがするもんだろ」
そこまで言い切ると、イヴァン様はこちらに手を伸ばして。
乱れていたのであろう私の前髪を手で直すと、「違うか?」と首を傾げた。
違う、――違う、わけがない。
そんなことない。私たちの将来は私と彼が決めること、だけど。
「で、……でも、私は『魔性の伯爵令嬢』で……」
「そんなことで悩むなよ。俺が良いって言ったんだ」
「……」
「大丈夫だ。何があっても俺がお前を守る」
――「それが、結婚ってもんだろ」。
付け足された言葉に、ぎゅうと胸が締め付けられて。
ああ私、この人のこと好きなんだなあと思って、その瞬間、とてつもなくホール中央の煌びやかな2人が羨ましくなった。
一緒に、いたい。叶うことなら永遠に。
ここまで素敵な人が私を選んでくれたんだ。応えたいし、彼以外を選びたくない。選ぶつもりだってない。
「け、……結婚、しますか。そろそろ」
なんて。プロポーズには不恰好な言葉が口を突いて、顔が一気に熱くなった。
もう顔を上げていられない。恥ずかしさで再度顔を俯かせようとして、しかし踏みとどまった。だめだ。逃げてばかりじゃ弱くなる。
そうだ、強くなりたかったのだ。
あの、毅然とした態度を取る『魔性の伯爵令嬢』のように。
「だからずっとそう言ってんだろ」
微笑みながら答えてくれたイヴァン様に、どきりと大きく胸が鳴る。
結婚。曖昧な言葉でぼかし続けてきたこと。
でもそれが、急に現実味を帯びたようだった。自分の口から出た言葉だからかもしれない。ああ、私はこの人と一緒になるのだと。
「そろそろ、な。約束だ」
「や、やくそく……」
「ああ、約束。俺は嘘つかねえぞ」
楽しげに笑い、イヴァン様は私の頬を撫でる。
くすぐったい。開け放たれた窓から注ぐ陽の光もそよ風も、何だか先ほどより色鮮やかに感じられて仕方がなく。
藍色の瞳を見つめ、「好きです」と囁いた。
それが彼に届いたのかはわからない。でも彼はそっと目を細めて笑い、ひとつ頷いてくれる。
「ああ。……約束、お前が守らなかったら、俺は既成事実でも何でも作るからな」
冗談めかして言ったイヴァン様に、またひとつ胸が鳴る。
あまり良いとは言えない出会いだった。
悩んで、間違って、それでも進んでここまで来た。
だから、――だからきっと、この先もイヴァン様となら大丈夫。そんな甘ったるい想いさえ浮かぶ満ちた時間だった。
『幸せ』とはこういうものなのかと、柄にもなくそんなことを考えるほどに、本当に満ちた時間だった。
お読みいただきありがとうございました*
以上でこの作品は完結となります。
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