40 あなたを待っていました
瞬間、ガツンという二度の大きな音と共に、冷えた外気が首筋を伝った。
ハッとして目をやると、内側から簡素なロックがかけられた扉が僅かに歪んで外れかかっている。
誰かが外側から蹴り飛ばそうとしているのだ、と気付くよりも先に、目の前のレイマンが呼応するように叫んだ。
「ッ誰だ!! 何をこんな――」
が、叫ぼうが喚こうが扉の向こうの人物には響かない。
『彼』は外れかけの扉に容赦なく三撃目を食らわせると、ひどく苛立った様子でレイマンにこう言った。
「誰も何も、総じてこっちのセリフだ。……お前自分が何をしているのかわかって言ってんのか?」
「は」
「怪我したくねえなら黙って下がってろ。お前をぶん殴るのはその後だクソ野郎」
そこでやっと、レイマンも扉の向こうの人物が『彼』だと、――殿下だと、察したらしい。
焦ったように勢いよくこちらを見やると、レイマンは憔悴しきった様子で「お前」と呟いた。私が彼を、殿下を呼んだと思ったのだろう。
でも違う。そうじゃない。
私だって驚いているのだ。はやる鼓動が止まらないのだ。だって、だってこんな、だって。
殿下が来てくれるなんて、思ってもみなかった。
「ああクソ、どいつもこいつも勝手な……!」
扉が再びガツンと音を立てて蹴られる。
レイマンが青い顔をして叫び、そして最後、5発目が蹴り入れられると同時に、緻密な装飾が為されていた扉が大きな音を立てながら外れた。
慌てて飛び退いたレイマンが身構え、拳を握る。
冷たい空気と共に顔を出したのは、真冬だというのに額に汗を滲ませた。
「で、…………ん、か」
荒く息をする彼の、――殿下の顔が、そこでやっと見える。
それがひどく久しぶりなように思えて、私はそっと呟いた。服装も崩れ、パーティーの主役なのにボロボロだ。髪だって崩れている。私が言えたことじゃないけれど。
瞬間、気が緩んだ。
今まで我慢してきたものが一気に波となって押し寄せて、頭が痛い。寒い。視界がくらくらする。
殿下が私を見た。そして何かを叫び、レイマンもそれに対抗するように怒鳴っている。
でも何も聞こえない。段々と感覚が鈍くなり、「死ぬかも」と思った。死んだことなんて前世でしかないし、その時の記憶だってないけれど、たぶん死ぬ時ってこんなものなんだろう。
重たい瞼を閉じる。
そこで意識が途切れ、最後は鼻腔を何かの香りが擽った。
◇◇◇
気が付くと、何故か私はキングサイズのベッドの上にいた。
「……は」
目覚めて一言目はこれ。そりゃそうだ。直前の記憶が馬車の中だったのに、突然こんなベッドの上に放られていたら「は」とも言いたくなる。
――とにかくここはどこだろう。少なくとも助けられはしたんだろうけど、本当に全く記憶がない。
どうも中々絢爛な部屋だ。装飾品の手のかかりようがすごいし、何より広い。ベッドだってふかふかで、まるで随分前に訪れた殿下の部屋のような――。
「……あ?」
と、そこでふと気が付いた。
……「殿下の部屋のよう」っていうか、ここ殿下の部屋そのものじゃない?
「あ!?」
それに気付いた瞬間、弾けたように飛び起きると、上半身が痛みで悲鳴を上げる。
でもそんなことに構っていられない。いや何を男の人のベッドの上でぬくぬく休んでたんだ私は……! こんな再放送いらないよ!
ひとまずベッドから距離を取り、ふうと一息。
兎にも角にも、まずは状況把握だ。
「……今何時なんだろう」
窓の外は明るい。つまりは殿下の生誕パーティーから一夜明けているということなのだろうけど、困ったことに私には気を失って以降の記憶が本当にない。
レイマンはどうなったのだろう。殿下は無事だったのだろうか。それからクレアのことも不安だし、両親やリズだって心配をかけたはずだ。怒られるだけで済めばいいけれど。
「……はあ」
もう一度、今度は溜息を吐く。
『魔性の伯爵令嬢』ステイシー・リナダリアは恨みを買うことだって少なくなかったけれど、あれだけ明確な敵意を向けられたのは初めてだった。
驚いた、と同時に萎縮した。私だけだったら何も言えなかった。
レイマンに対抗してくれたのだって私じゃない、『ステイシー』だ。
弱かった。あれだけ前向きに生きようと努力して、殿下を想うに値する人間になろうとしても、それでも私は弱い。
――強く、もっと強くならなくちゃ。誰の助けもいらないくらい。
唇を噛む。拳を握る。
そう決意したと同時、これまた緻密な装飾がなされた扉が、ノックも無しに突然開いた。
「……あれ、起きていたのか」
反射的に振り返る。
そこにいた彼――イヴァン・ハイル・フロックハートは、ひどく安心したような瞳で私を見つめていた。