◇4 第二王子は思案する
「本当にお帰しになって良かったのですか?」
ステイシーが乗った馬車を見送った後、城内に戻ったイヴァンに、老年の執事がそう声をかけた。
イヴァンは一瞬はてと首を傾げたが、間もなくその言葉の真意を理解する。
彼は、長年の想い人であったステイシーをあっさり家に帰してもよかったのかと問うているのだ。
王族が本気を出せば、ステイシーをこのまま手篭めにして婚約を取り付けることもできただろう。例え婚約者がいたとて、イヴァンの一言で黙らせてやることくらいできたはずなのだ。
「あいつが帰りたいと言ったんだ。じゃあそうするしかねえだろ」
「ですが……」
「良いんだよ。……無理に引き留めて嫌われたくねえんだ」
そう言いながらもイヴァンの顔は不満げに歪んでいる。執事はそんな微々たる表情の変化にも気付いていたが、彼の背に言葉を掛ける気にはなれなかった。
イヴァンがステイシーへの恋慕を抱いているという話は、城の使用人の中ではそこそこ有名である。
ことの発端は3年前。
メイドがイヴァン本人に突然ステイシーという令嬢のことを尋ねられ、その際想い人であるということを打ち明けられたのだ。
メイドの口の軽さは凄まじい。口止めをされていなかったこともあってか、その恋事情は1日足らずで使用人の間に広まることとなった。
その話を聞いたこの老年の執事はもちろん驚き、そして祝福した。他人に興味のないイヴァンが女性と交流を持つなんて、王妃様がお知りになられたら飛び跳ねて喜ぶ事態だ。
……がしかし、どうも疑念に思う点もある。
それが、ステイシー・リナダリアという令嬢本人についてだった。
ステイシーの男癖の悪さや『魔性の伯爵令嬢』という呼び名は、使用人の間でも有名だ。故にイヴァンの恋慕を知る中には「騙されているのでは」と勘繰る者もいたわけだが、まさか本人に口を出すこともできまい。
しかもステイシーには婚約者がいる、なんて噂だ。
相手の素性は不明だが、とにかくそんな令嬢との仲は――まあ、素直に応援できるものではないだろう。老年の執事はイヴァンの行く末が不安で仕方がなかった。
「……なあ」
突然イヴァンが振り返る。
老年の執事が返事をすると、彼は数秒間を置いて言い難そうに口を開いた。
「その、……やっぱり気になるもんは気になるんだ。……だから、ステイシーの婚約者について調べておいてくれないか?」
「……」
「別に脅したりするわけじゃない。調べても得がないことはわかっちゃいるが、でも知っておきたい」
――イヴァン様は相当恋に悩まれているらしい。
老年の執事は意外そうに目を丸め、しかしすぐにはいと言うことができなかった。言うまでもなく、例の……昨日の『トラブル』が原因だ。
第一王子の生誕パーティーが行われた昨夜、イヴァンはステイシーを部屋に連れ込んだらしい。
その瞬間を目撃したメイドによると、2人は『如何にも』という雰囲気だったのだという。何をしているかなんてのは明白だ。
しかし問題はここからだった。
2人が部屋に消えて約30分後――イヴァンの部屋から、甲高い叫び声が聞こえたのである。
たまたまその悲鳴を聞いた老年の執事は、周りの使用人を引き連れ部屋に急いだ。そして部屋の戸を開け……見た。
――汗ばんだ身体に乱れた服装のイヴァンと、ベッドの上で白目を剥く半裸の令嬢の姿を。
メイドの1人がきゃあと声を上げ、老年の執事も思わず言葉を失う。思いっきり最中だった。
しかし、こちらに気付いたらしいイヴァンは普段と何ら変わらない様子でこちらを振り返る。そして、緩めたベルトを直しながら平然とこう言ったのだ。
――気失っちまったらしい。手当てを頼めるか?
「ロニー? ……大丈夫か?」
「あ、……いや、すみません。リナダリア嬢の婚約者殿についてですね。かしこまりました」
イヴァンは「ああ」とだけ返事をし、再度部屋への道を歩み始める。
そんな背を見つめながら、ロニーは小さく溜息を吐いた。……いよいよイヴァン様も手を出してしまわれたんだな、なんて、昨夜から分かりきっていたことを。
ステイシーは魔性の名に恥じない令嬢だ。彼女と営んだ人間は他のどの女を抱いても満足できないなんて言われているし、元より彼女に想いを寄せるイヴァンなんかは、余計彼女を忘れられなくなるだろう。
しかし相手はタブーをやらかす問題児。婚約者もいるし、その道は茨まみれに違いない。
――ああ、殿下はどうしてあんなとんでもない令嬢に想いを抱いてしまったのだろう。
せめて品行方正な方なら……と何度願ったかわからない。イヴァンなら、他に可愛くて健気な令嬢くらい簡単に捕まえられただろうに。
と、心内で嘆いたと同時。仕事に戻ろうとしたロニーの耳に、偶然風に誘われたらしいイヴァンの独り言が届いた。
「…………いっそ、既成事実くらい作るべきだったな。だったら家になんて帰さなかったのに」
聞き間違えたと思いたい言葉に目を見開く。
既成事実。ロニーは確かに歳を食っていたが、その言葉の意味がわからない老いぼれではない。
やがてイヴァンの背中が見えなくなった頃、ロニーは考えを改めた。
――とんでもないのはあの令嬢だけじゃない。……うちのイヴァン様の気持ちも大概だったのだ、と。