39 私は、『魔性の伯爵令嬢』です
――ほんの一瞬、頭が真っ白になるのを感じる。
ステイシー・リナダリアに生まれて20年弱、誰かに殴られるなんて初めてだった。こんな敵意に満ちた視線を向けられたのも、何もかもが。
頬が痛い。声が出ない。目の前のレイマン・スティードは、もう一度右手を振り上げんとしている。
殴られる。逃げなくてはならない。もう話し合いでどうこうなる状況じゃない。なのに足は竦んでいるし、腰も浮く気配がなかった。
「……期待はずれだな」
レイマン様が、――否、レイマンが、吐き捨てるように言った。
「お前を痛めつければ気分も晴れると思ったのに、余計気分が悪くなっただけだ。気色の悪い」
「は……」
「結局お前は俺の害にしかならないんだな。……反吐が出る」
こっちの台詞だ、なんて言葉は、頭では浮かんでいても喉が動かない。
「そもそも出会う前から気に入らなかったんだ。未婚の売女が不特定多数の男と関係を持って、しかも社交界では贔屓されてるなんざ腐ってる」
「……」
「かと思えば人の誘いを無碍にして王子に媚び売って、お前は何がしたいんだよ、馬鹿にしてるのか?」
何度目かわからない息を呑んだ。
空気が、痛い。
「……お前自身は変わったつもりだろうがな、本質は何も変わっちゃいない」
レイマンの右手が、伸びた髪を引っ掴む。痛いのに声が出なかった。
「――どれだけ取り繕ったところで、お前は『魔性の伯爵令嬢』だよ。腐って汚いただの娼婦だ」
「い゛ッ……!!」
言葉と共に勢いよく髪が引っ張られ、痛みで一瞬意識が飛んだ。
本質は変わらないって、そんなのそうだ。
だって言ったじゃないか。私の心の中にいた魔性の伯爵令嬢は、私とステイシー・リナダリアとを「一心同体」だって。
頭が痛い。視界がぼやける。涙が出そうだ。
堪えようと頬の内側を噛んだ。ステイシーは、魔性の伯爵令嬢は、こんなところで泣いたりしない。
拳を握り、口を開いた。
何か言わなくちゃ。でも言葉が浮かばなかった、その瞬間だ。
「――振られただけの哀れな男が、あたしとこの子を勝手に語ってんじゃないわよ」
何かに突き動かされるように口が動いて、振り絞っても出なかった声がはっきりと音になった。
レイマンが目を見開いてこちらを見ている。
当然私も驚いた。私の意志で発した言葉じゃない。
「お、お前、何を……」
「聞こえなかったの? あたしとこの子を勝手に語るなって言ってんの」
「は」
「言っとくけどね、ステイシー・リナダリアは十分変わったわよ。1番近くで見てきたあたしが言うんだから間違いない」
1番、近くで。
その言葉にハッとした。そういえば覚えがある。
そうだ、何で忘れていたのだろう。この声色は、ストレートな物言いは、時に憧れた、怯まない強固な姿勢は。
――魔性の、伯爵令嬢?
「王子が好きだから過去の行いを反省して、努力することの何が悪いの? あんた如き相手に魔性の伯爵令嬢やってる暇なんてないのよこっちは」
乾いた喉が痛む。でも、言葉は止まらない。
「あんたがどんだけ偉いか知らないけど、自分の理想のビッチじゃないだけで騒ぎ立てないで」
「お、おまえ……」
「もういいでしょ。髪離してくれない? これ、あんたのために労力費やして綺麗にしたんじゃないから」
レイマンは面食らった様子で押し黙る。魔性の伯爵令嬢はフンと鼻を鳴らすと、それ以降何も言わない。
ステイシー、と、心の中で呟いた。
来てくれた。いなくなったと思った。殿下が家に来たあの日から、呼びかけたって返事も何もしてくれないからだ。
でもいてくれた。見守っていてくれた。それどころか、弱い私に代わってここまで。
息を吸う。吐く。唇を噛む。
気つけにちょうどいい痛みだった。それから髪を掴むレイマンの手を振り切ると、しっかり顔を上げその瞳を睨み付ける。
「あたし、私は、……私は、変わりました。胸を張って殿下に好きだと言えるようにです」
「……」
「その努力を、魔性の伯爵令嬢を悪く言う資格は、あなたにないから。謝って」
視界が澄んでいる。声も出る。あれだけの恐怖が、身を奮い立たせている。
「あたし、……私と、クレアに」
口にしたと同時、レイマンが一歩後退った。
更に言葉を続けようとしたところで、遠くから「ステイシー」と叫ぶ声が聞こえた。
ひどく落ち着く、泣きそうなくらい愛おしい声だった。