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32 甘すぎます、殿下

 ――どうしてこんなことになったんだ。


 一瞬何かの冗談かと思ったが、まあそんなわけもなく。殿下は本当にここで夜を明かすつもりらしかった。


 家の慌てようは凄まじい。殿下が入浴中の今を好機とばかりに、既に綺麗な客間を使用人総動員で更にぴかぴかにしているし、お母様なんか白目を剥きながらハタキでありもしない埃を叩いている。ひっくり返ったような大騒動だ。


 ……で、私はといえば、現在は自室で1人お茶を啜っている。


 もちろん私も掃除に参加しようとしたのだけれど、雑巾とほうき片手に忙しそうなリズに止められてしまったのだ。帰ったばかりとはいえ元気なのにね。


 客間の方から聞こえるドタバタという音をBGMに、カウチソファに体重を預ける。


 こうすると何だか眠たくなってきた。そういえば、馬車の中でもうっかり眠りかけたのだったっけ。


 ――「あんた、結構余裕なのね」


 と。重たくなる瞼に逆らえないでいると、突然頭の中に声が響いた。


 もう驚きもしない。『魔性』の方のステイシーだ。


 ――「緊張で死にかけてると思ったのに。王子への耐性でもできちゃったの?」


 耐性って。……いやそりゃ最初の頃は見るだけで心臓がもがれそうだったけれど、こう落ち着いてくるとまだ幾分かはマシだ。


 あとは、私が人に慣れたというのも大きいだろう。コミュ症改善のため積極的に参加していた社交の場での経験も、なかなか貴重だったしね。


 ――「あっそ。……じゃ、そろそろケリもつく段階かしら」


 ケリ? ……って、何のケリだ。何か片付けなければならない因縁でもあっただろうか。


 ――「はあ? ケリはケリでしょ。あんた馬鹿なの?」


「ばっ……」


 鼻で笑われうっかりお茶を吹き出しかけると、ステイシーは冷静に「きたない」と一言。……すみません。


 ――「そろそろあんたも認められていいってこと。気張りなさいよ」


 そう言うと、ステイシーは小さく息をついた。そりゃまだ謝罪行脚も終わってないわけだし、どうにかして気張るけど。


 謝罪行脚の方は、こなした数だけで言えば比較的順調である。


 今日のように疎まれたり、謝り返されたりと反応は様々ではあるものの、罪を償うという視点で見れば良い方向に進んでいると言えるだろう。


 ――「にしても、あの王子も面倒な日に生まれたもんね。せめてあと1日遅ければ良かったのに」


「人の誕生日に迷惑つけるわけにもいかないでしょ……」


 仕方ないことだ。先約だった相手もこの日しか空いてなかったわけだし、そもそも時間を取ってもらうのはこっちなんだしね。


 なんて、独りごちていると。



「ステイシー? ……誰かいるのか?」

「えっ」



 背後の扉の向こうから耳馴染みある声が聞こえ、私は勢いよく振り返った。殿下だ。ま、まだ入浴中だったはずでは……?!


 慌てて扉を開けると、案の定殿下がいた。髪が濡れている。


「で、殿下、髪がまだ……」

「……? まずかったか?」

「いや、その、風邪を引いてしまわないかと」


 この世界にドライヤーというものは存在しない。ゆえに入浴後は数人にタオルで髪を拭かれるのが恒例なのだが、殿下の髪には水滴が残っていた。季節もあって寒そうだ。


「ああ、大丈夫だ。体の丈夫さには自信がある」


 ……そういうことじゃないと思うんだけど。


「えと、じゃあ、あの、……何か御用でしょうか? 客間は廊下のつきあたりにあるのですが」


 とにかくこの状況を脱したい一心で、早口で言い切った。殿下が自宅にいるという事実と、見慣れない姿の彼を目の前にして落ち着かない。


 以前殿下を自室に入れたこともあるけど、あの時とはシチュエーションが大違いだ。何より、今の私は自分の気持ちに対して自覚がある。


「いや、特には。会いたくて部屋の前を通りかかっただけなんだが、……迷惑だったか?」

「っ」


 ――だからこそ、こうドストレートにものを言われると非常に困ってしまう。


「さ、さっきお会いしたばかりですが」

「そうだな。でも足りなかった」

「…………そう、ですか……」


 困ってうつむいた。勝てない。何でこの人はこうも100倍返しがうまいのだろう。


 ふうと息をつく。殿下は数秒の沈黙ののち、小さく笑った。


「今日は急に押しかけて悪かった。ぜんぶ自分勝手だったし、おまえに疎まれても仕方ないとは思うんだが、……その、嬉しいよ。誕生日、来るって言ってくれて」


 突然の言葉に、僅かに目線を上げる。

 殿下は、泣きたくなるくらい優しく微笑んでいた。


「いえ。……私こそすみません。お誘いを断ってしまって」

「や、お前が気にすることじゃない。来てくれるだけで十分だ」


 一歩だけ、殿下が足を踏み出した。石鹸の香りがふわりと漂い、心臓が大きく跳ねる。


 これだけ近くでこの藍色の瞳を見たのはいつぶりだろう。スティード家の婚約発表パーティーの日か、それよりも前だと、ユリウス様の生誕パーティーがあった日か。


 生誕パーティーの日。

 私が前世を思い出した、あの衝撃的な日。


 もう何ヶ月も前だというのに、あの日のことは頭から離れてくれない。殿下も私に気を遣ってか蒸し返そうとはしないのに、それでも鮮明に残っている。


 少し前までは、こんなの考えられなかった。

 殿下と相対する資格すらないと思っていた。


 たぶん、今でも資格なんてない。


 けれども、来月の17日、全てが終わったら、隣に立つことくらいは許してもらえるかもしれない。都合よく考えすぎているやもしれないけれど。


「……ステイシー?」


 何も言わない私を不思議がってか、殿下はそっと首を傾げた。はっとして居住まいを正す。


「すみません。少し考え事が」

「考え事?」

「はい。……殿下の、誕生日のことで」


 殿下は僅かに目を見開く。


 それから数度瞬きをすると、一言「そうか」と口にし、――ひとつ何かを諦めたように息をついたかと思うと、右手をこちらに伸ばした。


「えっ?」


 温かい、まだ湯の熱が引いていない手が、頬に触れる。顔が近付いて、石鹸の匂いがより強まった。


 ――え、な、何、何だこれは。なぜ触られているんだ。


 あまりに突然のことに、身体はぴきりと固まって動かない。できることと言えば口をぱくぱくと開閉するくらい、で。


「で、……殿下……?」


 辛うじて彼を呼ぶ。が、反応はない。


 殿下はしっかりとこちらを見ている。その瞳の中に映る自分が間抜けな顔をしているのを視認して、気付いた。近すぎる。


 何だ、何だこれは。どうしたんだ。


 疑問に答えてくれる人はいない。

 答えがないままに端正な顔が更に近付いて、鼻先が触れ合おうとした、その時。


「っひゃ?!」

「!」


 殿下の毛先を伝っていた水滴が首筋にぴたりと落ち、私は慌てて飛び退いた。


「あ、わ、悪い……! つい魔が差した」

「い、いえ、えと、だいじょうぶ、です」


 心臓がうるさい。な、何だったんだ今のは……!


 これ以上ないくらい近かった。心臓がもがれそうだ。キス、されるかと思った。


 身体まで重ねといてキスくらいでと呆れる魔性の伯爵令嬢の姿が頭をよぎったけれど、こんなの耐えろって方が無理だ。なんか、なんていうか、……は、恥ずかしすぎる……!


「本当にすまない。もう二度としねえから」

「だ、大丈夫です、本当に。気になさらないでください」

「でも」

「本当に大丈夫ですから」


 自分でもわかるくらい顔が熱い。こんなに寒い季節だというのに。


「……本当に、大丈夫か?」


 殿下が不安げに私の言葉を復唱する。私は赤べこが如き様相でこくこくと何度か頷き、そのままうつむいた。もう顔を合わせられない。


 ――「この程度で照れるなんて、魔性の名が泣くわね」


 引っ込んでいたステイシーにも苦言を呈され、第三者に見られていた事実に更に顔が熱くなる。いやもう仕方ないだろう、前とはわけが違う。私だって、彼のことが好きなのだ。



「ほ、本当に、大丈夫です。……その、あ、あんまり、嫌じゃなかった、ので」



 未だ不安げな彼をちらと見やり、呟くように言葉を走らせる。


 聞こえたか聞こえなかったか、私に知る術はないが、彼の顔が驚きで染まると同時、「おやすみなさい」と早口で告げて扉を閉めた。


 ――ああ、明日どんな顔で会えばいいんだろう。


 そんなことを考え、憂鬱になりながら。

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