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31 あなたの隣には立てません

 時間が、この上なくゆっくりと流れていく感覚に襲われる。


 藍色に染まる殿下の瞳を見つめ何秒経っただろう。やっと追い付いたらしい護衛がばたばたと駆け寄り、私たちの状況を見て言葉と動きを止めた。


 切り出したのは殿下の方だった。


「来月、何があるかわかるか」

「……来月?」

「ああ。来月の17日」


 17日。頭の中で手帳を開き、記憶と照合してみる。


 来月の17日は、今日と同じように迷惑をかけた貴族へ挨拶に行く予定がある日だった。それも謝罪回りの最終日だ。


 が、まさかそんなこと殿下が知っているはずもない。更に記憶を漁っていると、ふと考えが至った。


「お誕生日、ですか?」


 そうだ。ゲーム内でも生誕パーティーが盛大に行われていた、殿下の誕生日。それがちょうどこのくらいの季節だったはずである。


 首を傾げつつ問いかけると、殿下はたちまちパッと顔を明るくする。どうやら正解だったらしい。


「ああ、……知っててくれたのか?」

「あ、えと、はい」

「なら話は早いな。……その、今日いきなり押しかけたのはそれについての話で」


 殿下の瞳が左下のあたりを彷徨い、意を決したように重なった。


 誕生日についての、話。

 ……もしやパーティーのことだろうか。そう考え、思わず眉が下がった。だとしたらお断りせねばならない。


 先ほど記憶を探った通り、来月の17日は謝罪回りの日だ。帰宅するのは早くとも日が沈みかけの頃、だと思う。


 会うのは名の知れた侯爵家の次男だ。忙しい中時間を取ってくれたという話だし、日にちや時間をずらすわけにもいかない。


 ――そういえば、この日しか時間が取れないとお返事をいただいた時、リズが少し難しそうな顔をしていたっけ。


 あれはきっと、殿下の誕生日と同じ日なのを知っていたからだろう。リズは黙っていてくれたのだ。


「あの、……パーティーが、あるだろ。今年も盛大にやってくれるみたいで」

「……」

「おまえに来てほしいんだ。1年に1度しかねえもんだし」


 次いで紡がれた殿下の言葉にそっと唇を噛む。心苦しくなった。せっかくここまで来て誘ってくれているというのに、断らなければならないなんて。


 できることなら向かいたい。でもそうもいかない。うだうだと考え込んで何も言えない私に気付かず、殿下はそっと目を細めた。


「あと、その、……できれば、おまえをエスコートさせてほしい」

「えっ」


 素っ頓狂な声が出た。驚きのあまり数度瞬きをすると、心無しか繋いだ手に力が籠る。


 エスコート。エスコートって、エスコートだ。しかも生誕パーティーに。


 これがどんなことを意味するか、前世が純日本人だった私でもわかる。


 国の第二王子が、生誕パーティーの場に女性をエスコートする。それはつまり、将来はこの人となんてアピールでもあるわけで。


 ――そ、そんなの、流石に無理では……?


「本当は手紙で誘っても良かったんだが、それじゃ味気ねえだろ。母上にも決めるなら早くとせっつかれてるし、今日しかねえと思って」

「え、あ、え、えっと……」

「だめ、か? ……その、俺はおまえが良いんだが」


 殿下がこてんと首を傾げる。何かが心臓に突き刺さる音がしたものの、内頬を噛んで堪えた。う、頷いちゃだめだ……!


 ……いや、多少急げば間に合うやもしれないけれど、エスコートしてもらう人間が遅刻って、そんなの前代未聞だし。


「あ、あの、……えっと、で、殿下」


 本当に、本当に心苦しいけれど断ろう。だってそうするしかないのだ。


 殿下は僅かに首を傾げ、綺麗な瞳をこちらに向ける。うっかり行きますと答えそうになった口を叱咤して、息を吸った。


「えと、……ほ、本当に申し訳ないんですけど、その、……実は、その日は遠くまで出向く用事があって」

「……え」

「む、向かいたい気持ちは山々なんですが、あの、どう頑張っても帰宅は夜になりそうなんです。そんなんじゃ、殿下の隣に立てませんし……」


 辿々しく言葉を紡ぐ。目を見開く殿下の顔を見ていられなくて、少しばかり下に目線を逸らした。


 それだけじゃない、何せ私は『魔性の伯爵令嬢』だ。よろしくない意味で名の知られた人間が、精悍で誠実な第二王子にエスコートされていいはずがない。


「ごめんなさい。……本当に、残念なのですが」


 言い切り、浅く息を吐く。残念な気持ちは嘘じゃない。何も考えなくていいのなら、誕生日という特別な1日を彼の隣で過ごしたかった。


 でも、迷惑をかけるくらいならこれで良い。


 それなのに、殿下は繋いだ手を引き、あろうことか距離を詰めてきた。驚きで思わず俯かせた視線を上げてしまう。


「構わない」

「……えっ?」

「構わない。いくら遅刻したって良いし、どれだけ遅くても気にしない」


 飛び出た言葉に唖然とする。そんなの、例え殿下が言ったとて良いはずがない。私は慌てて首を横に振った。


「き、気にしないって、そんな」

「本当に気にしないんだ。誰にも文句は言わせねえし、それでも不安なら俺が――」

「い、いやいやいや……! そういう問題じゃないですよ!」


 否定を重ねようが殿下は表情を崩さない。何なんだ一体!


「ほ、本当に私、会場に30分もいれないと思うんです。頑張っても1時間いれるかどうかわかりませんから……」

「大丈夫だって言ってるだろ。お前が気にすることじゃねえ」

「気にしますって! 殿下の世間体とかもあるでしょうし」

「だから良いんだよ。そんなこと気にするより、俺は1分でもお前の隣にいたい」

「っ」


 思わずむせかけてしまった。いきなり何を言い出すんだ、この人は……!


 背後でおろおろしている護衛もぎょっとしてこちらを見やっている。もうめちゃくちゃだ、助けてほしい。


「……そりゃより長くいてくれた方が嬉しいもんは嬉しいけど、幸せなことに差はねえだろ」

「え」

「一瞬隣にいてくれるだけで良いんだ、本当に。……だから、誕生日のわがままだと思って聞いてくれると嬉しいんだが」


 まっすぐな視線にあてられ、顔に熱が籠るのを感じる。


 毎度、本当に毎度こうだ。どうしようもなく私は殿下の瞳に弱い。思わず頷いてその通りにしてしまいそうになる。


「……え、えと、…………」


 言い淀んだ。だめだ。本当にだめ。安易に口約束をして、破ったり迷惑をかけたらどうなる。一番困って傷付くのは殿下だ。


 口を開いて閉じた。心臓が、誤魔化しようのないくらい殿下を好きだと言っている。


 好きだ。隣にいたい。過ごしたい。本当に、本当に好きだから、私は。



「……や、やっぱり、その、…………ごめん、なさい」



 だめだった。好きだから、迷惑をかけたくない。


 私のせいで傷付けたくない。幻滅してほしくない。


 顔を上げられないでいると、殿下が小さく息を吐き、繋いだ手をきゅっと握った。それだけで心臓が飛び跳ねてしまいそうだった。


「……そう、か。わかった。無理言って悪い」

「すみません。あの、お誘い自体は本当に嬉しいんですけど、その」

「わかってるよ。……頼むからそんな顔しないでくれ」


 そう言って、殿下は柔らかく微笑んだ。滲み出る優しさに泣きたくなってしまう。


 でも仕方がなかった。例え時間が無限にあったとて、今の私じゃ殿下の隣に立つことを望めもしない。全てを清算してからだ。


「……でも、おまえさえよければ来てほしい。隣に立ってもらうことはできなくても、顔見るくらいなら許してもらえるだろ」

「え、あ、……も、もちろん。できるだけ早く向かいます」

「ああ。楽しみにしてる」


 その一言を最後に、繋がれた右手が離れた。名残惜しげに思えたのは、私の意地汚い欲目だろうか。


「……それじゃあ。また、今度」


 殿下が踵を返す。振り返ると同時にふわりと待った髪に、思わず手を伸ばしかけてしまった。


 一目会えて、次まで約束できたのに何故こうも寂しくなるのだろう。第二王子たる彼をこれ以上引き止めてはおけないと理解しているはずなのに。


 殿下が、駆け付けたまま直立不動で表情も固い護衛さんに「もう出る」と一言告げた。


 護衛さんは何故かぎょっとした顔で殿下を見やる。次いで私を見やり、もう一度殿下に視線をやって、ほっと息を吐いた。表情が忙しい人だ。


「あ、もう出ていかれるんですか?」

「ああ。城には朝までには帰ると言ってあるし」

「なるほど。なんだ〜、ちょっとびっくりしちゃいましたよ」


 たはは、と護衛さんが笑う。緊張が解けたのか、王族相手に随分フランクな喋りだ。


「びっくり?」

「ええ。夜も更けてきましたし、てっきりこのままリナダリア家に宿泊でもなさるのかと思いまして」


 ――と、護衛さんが冗談混じりに言い切ったと同時。


 ぴたりと、殿下が動きを止めた。


 数歩遅れ、大きく口を開けて笑っていた護衛さんが足を止める。私も緊張からくる深呼吸をやめ、一瞬時間が静止したように静かになった。


「……なるほど」


 …………ん?


「そうだな。深夜までステイシーを待つつもりで朝には戻ると報告しちゃいたが、これは……」

「え?」

「その手があった。一体何を遠慮してたんだ、俺は」

「は」


 ぶつぶつと何事かを呟いたと思ったら、殿下が思わず情けない声を上げてしまいそうなくらい勢いよくこちらを向いた。綺麗な冷たい空気に舞う。


 ――え、えと、これは一体、……。


「ステイシー」

「はい……?」

「決めた。今日はおまえの家に泊まる」

「え」


 何となく予想できていたような、できていなかったような宣言に、私はふらりとした眩暈を感じた。今夜もリズは大変そうだと、そんなことを考えながら。

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