30 どうして、でしょうか
スティード邸での一件から、もう2週間と数日が経とうとしている。
この10日余り、思い返すのはあの日のことだけだった。
今までに見たことがないくらい激昂するレイマン様の顔も、吐き捨てられた言葉の一つ一つも思い出せるのに、一連の流れがまるで夢だったかのように私の日常は変わりない。
一方で、レイマン様との件で気が重くなってしまった謝罪回りの方は比較的順調だった。
毎回怒鳴られる覚悟で頭を下げているが、ありがたいことに相手方の反応は大抵柔和だ。
それどころか謝罪の意思を見せてくれるような殿方もちらほらいて、必要以上に身構えていた自分を恥じたくらいだ。もちろん吐いた嘘については少なからず苦い顔をされたものの、本当にそのくらいで。
それから、都合がつかないほど忙しい人には手紙を送った。おかげでここ1週間右手が使い物にならないくらい痛んだけれど、こちらも返事は温かい。
これには魔性の方のステイシーも驚いて、少しだけ茶化すような声色で「あんたの誠意が届いたんでしょ」なんて言っていた。だと良いねと返しておいた。
がしかし、そんなこんなで忙しく過ごすこの頃、少し困ったことがある。
……いや、困ったことと言うのは失礼だし、私だって別に嫌な思いはしていない上なんなら嬉しいのだけれど。
「……ねえ、リズ」
朝食を終え、手紙執筆の小休憩を取っていた私は、カウチソファに腰掛けつつ傍らのリズに声を掛けた。
リズは本棚の整理をしていた手を止め、こちらを振り返る。何だと暗に問うてくる彼女に持っていた手紙を1枚差し出すと、私はそっと尋ねた。
「一応聞いてみるだけだけれど、明後日って……」
「伯爵家に出向く用事があるでしょう。お断りのお返事を出しておいてください」
「そうだよねえ…………」
はあ。大きく溜息を吐き、背凭れに体重を預ける。はしたないが大目に見てほしい。自室でくらいゆっくりしたいのだ。
私の困りごとの原因――ここのところそう日を空けずにして届く1枚の手紙は、王城から送られてきたものである。
差出人はイヴァン・ハイル・フロックハート様。中身はシンプルなもので、『会えないか』という内容が綺麗な文字とともに綴られているのだけれど。
「困るなあ、……何でこうタイミングが悪いんだか」
何が困るって、ここ最近私がまともに時間を取れないことである。
謝罪をしなければならない殿方のリストはまだ半分も埋まっていないし、家にいる日は手紙の執筆で忙しい。私とて殿下に会いたい気持ちは山々なのだが、先約が入っている以上蔑ろにするわけにもいかない。
「……というか、この間イヴァン様には『来月まで忙しい』といった旨のお返事をしたはずでは? ちゃんとそう書かれたんですよね」
リズの言う通り、私はこの間『来月まで時間が取れません』という返事を出した。
もう何日はどうだ、ごめんなさいのやり取りをするのも忍びなくなってきたからだ。
「うーん……、そのはずなんだけどなあ。リズも目を通してたでしょ?」
「通しましたよ。でもまさかフル無視は予想外でしょう。だからお嬢様のケアレスミスかと思ったんですが」
「……そう言われるとそんな気がしてくるけど」
……そう、この殿下、何故か全く引こうとしないのだ。
次に届いた手紙はいつも通り「じゃあ何日は」といった内容で、断る文を書いたのは白昼夢だったのかと思ったくらいだ。
会いたいと言ってくれるのだから何か用件があるのだろうが、簡素な文面からは何も読み取れない。明かりに透かしても手で温めても無反応だ。
緊急の要件ならそう書くだろうし、何よりこちらには先約がある。
確かに私も殿下に会いたいけれど、今彼と会おうものなら私は自分に甘くなってしまうだろうし――。
「……よし」
掛け声と共に姿勢を正し、意を決して紙とペンを取る。
殿下とは会えない。今会えば気が抜けてしまうし、何より予定が詰まっている。これはどうしようもないことだ。
頭の中で文を組み立て、失礼のないようオブラートを厳重に包みながら私はペンを走らせた。潰れかけのペンだこが痛むのも気にしない。
『お返事ありがとうございます。殿下からのお誘いをお断りするのは誠に失礼と存じますが、指定してくださった日は夜まで家に戻らず――』
◇◇◇
――そんなことがあった翌々日。
辺りがすっかり暗くなった頃、私はリナダリア邸を目指す馬車内にいた。相も変わらず謝罪回りの帰りだ。
今日はこう遅くなる予定ではなかったはずなのだが、今回出向いた家は領地が少し遠い。遅れないようにと細心の注意を払ったがため朝も早かったし、馬車の揺れも相俟って、思わずうとうとしてしまう。
……そういえば、いつもならもう寝ている時間だっけ。夜更かしをするとステイシーに怒られてしまうし。
「お嬢様? ……そろそろ到着なさいますが、少しお休みになられますか?」
――なんて瞼の重みを感じていると、右隣に座る護衛に声を掛けられ、私はハッとして軽く頬を叩いた。
「あ、……いえ、大丈夫です。すみません」
「いえ。膝掛けの用意もありますので」
「ありがとうございます」
……いけないいけない。いくら帰りとはいえ謝った帰りなんだし、家に着くまで気をしっかり持っていなくては。
数度瞬きをし、ぼやけた視界をリセットする。
今日出向いたのは、少し遠くの領地に居を構えるある伯爵家の元だった。
用があったのはそこの跡取りとされている殿方だ。どうやら婿養子で、ステイシーが言うには1年ほど前に知り合って二度身体を重ねたらしい。
跡取りの彼は、20代も半ばというまだ若い青年だ。
精力的にお仕事をなさっているそうで、少し予想はしていたものの――私の訪問にはあまり良い顔はされなかった。
彼にはもう奥様がいる。ちょうど元気お子さんも産まれたらしく、行きずりの女などに関わってほしくないというのが本音だろう。
何せ、彼が私と身体の関係を持ったのは逆算して奥様の妊娠中だ。男性は女性ほど風当たりが強くないと言えど、とにかく心象は悪い。
――今更謝りになんて来なくていい。
――蒸し返されているようで気分が悪い。
そう言い切った彼の言葉で思い出したのは、レイマン様の姿だ。
彼らの言い分はもっともだと思う。私は別に彼らから謝罪しろとせがまれた訳じゃないし、自己満足と捉えられても仕方ない、……けど。
でも、そうするしかないと思うのだ。彼らだって誘惑に乗ったと言えど被害者だから、迷惑をかけてごめんなさいと、そう謝って然るべきで。
「…………」
ひとつ、そっと息を吐く。
クレアはどうしているだろう。レイマン様と親しくしているのだろうか。
正直なところ、レイマン様のあの豹変ぶりを見て尚クレアを応援することはできなかった。
クレアは大事な友人だ。幸せになってほしいし、クレアの想う人と親しくなってほしい。その気持ちは変わらない。
でも、それでも、彼が激昂した勢いでクレアに襲いかかるなんてことがあったらと思うと。
「……あれ?」
思わず唇をぎゅっと噛んだ、その時だ。
護衛がパッと顔を上げ、突然辺りをきょろきょろと見回し出した。
「どうかなさいました?」
「ああいえ、……少し、何だか騒がしく感じて」
尋ねると、彼は狭い車内で腰を上げる。それから御者に何かを言ったかと思うと、馬車がゆっくりと減速して止まった。
……騒がしい? って、まさか熊でも出たのだろうか。時間的にはもう家が目と鼻の先のはずだけど。
そう外を覗き込むと、目と鼻の先どころかリナダリア邸の門がもう見えている。言われてみれば何か家の方から声が聞こえるような気がしなくもない、けれど。
「何かあったんですかね……、奥様はもう帰られてる時間だと思うんですが」
「ええ。リズもいるはずです」
「少し様子を見てきます。お嬢様はここで」
そう言うと、護衛は馬車の戸を開けて出て行ってしまった。途端に冷えた感覚に陥り、ぶるりと身震いをする。……なんだか、不吉なことの前兆みたいだ。
とりあえず端で縮こまり、ドレスの裾を握る。季節ゆえだろうか、妙な寒気が――、
「…………ん?」
と、そこで誰かの声が聞こえたような気がして、私は動きを止めた。
ついでに何か、猪が地面を駆けてくるような音もセットだ。声と音は次第に大きくなり、より鮮明に耳を鳴らす。
5秒もするとどちらもはっきりと聞こえるようになってきた。ドドドドという音と、「お嬢様」と護衛が私を呼ぶ声――んんん??
確実に私が呼ばれている。窓から顔を出すと、遠くからこちらに走ってくる護衛が見えた。その瞬間だ。
――ガタン!!
「ひゃああッ?!」
突然大きな音を立てて馬車の戸が開き、反射的に身体を縮こまらせる。
はあ、と荒い呼吸が聞こえたと思えば、開きっぱなしの扉から覗いたのは。
「――……やっと、見つけた」
鮮やかで綺麗な、銀色の髪だった。
「…………へ?」
銀色の髪に、深い青色をした瞳。汗を滲ませながら荒く息を吸う彼は、何度瞬きをしても殿下にしか見えない。
――何で、ここに殿下が。
断りの返事は入れたはずだ。リズにも確認してもらった手紙が間違えているはずないし、本当に何故。
でも実際に殿下がここにいる。目を見開き彼を見つめていると、まるで心を読んだかのように、殿下はそっと眉を下げながら「悪い」と呟いた。言葉が出ない。
「手紙、読んだよ。今日は会えないっていうのも知ってる。……でも、俺も今日じゃなきゃダメだったんだ」
「え」
「夜まで家にいねえって言うから、夜まで待てばおまえに会えんのかと思って。……おまえの返事無視して、迷惑かけて悪い」
そう言うと、殿下は乗り込もうと足場にかけた右足を地に下ろした。遠くで護衛の声が聞こえる。
「……でも、すぐ終わるから」
彼の真っ白な右手が、こちらに向かって伸びる。
何も考えずに取りたくなってしまいそうな、そんな大きな手。
「俺に、おまえの時間くれねえか」
真っ直ぐな瞳と、目が合う。
こうして殿下と相対するのはいつぶりだろうと考え、何故こんなに心臓が早鐘を打つのかを理解した。あの時、殿下への想いを自覚して以来だ。
「ステイシー」
名を呼ばれ、一瞬思考が止まる。
私は吸い寄せられるように右手を伸ばした。
指先だけ触れた彼の手は、もう寒い季節だというのに温かった。