◇29 第一王子の喜色
――時間を少し遡り、スティード家庭園の一角にて。
王子の無茶振りとも思える言葉通りテラスに案内されたユリウスとクレアの2人は、紅茶を嗜みつつ歓談に興じていた。
「まあ、それではユーリ様は幼い頃からステイシー様と一緒なんですか?」
「ええ。僕は三男ですし、それに親がリナダリア伯によくしてもらっていましたから」
「なるほど……、通りで。先ほども親しそうにしていらっしゃいましたもんね」
もはや特技とも言えるユリウスの出まかせは、クレアに不信感のひとつも感じさせていない。ユリウスはここまで騙されるものかと半ば感心してすらいた。
そんなクレアとは対照的に、ユリウスの護衛と居合わせたスティード家のメイドははらはらとした様子である。
ユリウスが吐いた嘘の結果とはいえ、庶民と王太子が一対一で歓談など前代未聞だ。クレアが無礼をして第一王子の機嫌を損ねようものなら家にも関わる。
故に何かあれば飛びかかる構えでもいたのだが、当のユリウスは非常に楽観的だった。
「ですがね、最近はお嬢様も僕を疎ましく思っているみたいで。大変失礼ながら、僕はご友人であるクレア様のことも何一つとして知らなかったんです」
「まあ……」
「年頃ゆえ仕方ないのは承知の上なんですが……、従者としてはやっぱり心配で。クレア様はお嬢様とどんなお話をなさってるんですか?」
ユリウスは第一王子の地位に就くものとして見過ごせないほど気分屋であるが、そう意味のないことはしない。今回のこの一見娯楽にも見える嘘にも目的がある。
それが、弟が随分熱を上げているステイシー・リナダリアの素性を知ることだった。
ユリウスは第一王子である前に兄だ。ボーッとしている癖に自分よりよっぽど天才肌で、労せずとも成果を上げるイヴァンが気に食わないこともあるが、それなりに可愛がってもいる。
そのイヴァンがご執心なのがよりにもよってあの『魔性の伯爵令嬢』ときた。
ユリウスとしては心配にもなるし、従者であるリーゼロッテに忠告のひとつもしてやりたくなるというわけで。
(ま、そのリーゼロッテには『見守れ』って叱られちゃったわけだけど……)
数ヶ月前、リナダリア家への見舞いに半ば無理やり着いて行ったのも似たような理由だ。ステイシーという女のことを知りたい。興味がある。
だが、本人とは楽しくお話ができる雰囲気ではない。であればその友人を当たるというのは、考え方としては至極真っ当ではなかろうか。
しかも相手がユリウスのことを知らないのも好都合だった。変に媚びられずに済むし、あくまでも従者としてならステイシーに話題が向くのも自然である。
――さて、庶民から見る『魔性の伯爵令嬢』はどんなものか。
にこやかに笑顔を貼り付けつつユリウス、もといユーリが言葉を待っていると、仄かに頬を染めたクレアが小さく口を開いた。
「えっと、あの……、そう、ですね。……お恥ずかしいのですが、ステイシー様とは恋のお話をしたりしました」
「……恋?」
初手から斜め上の回答だった。……恋? 魔性の伯爵令嬢に?
いやまあ確かに男性経験は豊富だろうが……、純愛を語るには彼女は爛れすぎていやしないか。
「といっても私のお話を聞いていただいただけなんですけどね。……ステイシー様には、想い続けていれば実ると背中を押していただきまして」
「背中を」
「はい。そのおかげでちょっとだけ積極的になれたんです。分不相応だろうが頑張ってみようって」
照れた様子で笑うクレアに、ユリウスは一瞬言葉を失った。
意外だった。男を食い物にしているという話だし、てっきりライバルとなる他の女性とは仲良くしていないものだとばかり思っていたから。
「……本当に素敵な方ですよね。ユーリ様はご存知でしょうけど、私パーティー会場でステイシー様におめかしさせてもらったこともあって……。あの時が人生で一番嬉しかった」
それが目の肥えたユリウスからしても純粋で清廉に見えるクレアと友人だとは。目を見張るユリウスに何を思ったか、クレアはわたわたと続ける。
「って、何か私お世話されてばかりですね。何かお礼ができたら良いんですけど……」
そう困ったように笑い、小さく溜息を吐く。長い睫毛に縁取られた瞳が憂いげに揺れた。
「でも私お菓子くらいしか焼けなくって。それにリナダリア領までは歩きで行ける距離じゃないし」
ユリウスは困惑していた。頭の中のステイシーと、彼女が語るステイシーがうまく結び付かないからだ。
……どういうことだ。うまく猫でも被っているのか? にしたってステイシーはそう器用に見えないが。
貼り付けたような笑みを浮かべつつ思考を回す。仕切り直しの意味を込めてティーカップに口を付けると、ユリウスは再度クレアに向き直った。
「へえ。……となると、クレアさんのお家はこの辺に?」
「あ、はい。近いって程でもないんですけど、アンリバレ領の端に」
「……アンリバレ?」
アンリバレ領。ここスティード領の大体隣に位置する、アンリバレ伯爵が治める領地だ。
これは驚いた。何故って、アンリバレ領――特に端の方は、数年前までだいぶ治安の悪い場だったからである。
水道の開発不足で疫病が蔓延し、商売が立ちいかなくなったがために職を失う者が増え、結果野盗が住み着くという散々な場所だったはずだが――そんなところでこんな悪意と無縁そうな娘が育つとは。
「なるほど。……でも、あそこも数年前までは大変なところでしたよね。クレアさんはなかなかたくましいようで」
アンリバレでのあれこれはユリウスの記憶にも新しい。何を隠そう、あそこの問題を片付けたのは数年前のユリウスである。
(今思い出しても酷い有様だったけど……、ほんとアンリバレは何してたんだか)
ユリウスは心内に溜息を吐く。当時は最悪だった。領民の訴えを退け続けたアンリバレのせいで状況も悪かったし、父に命じられていなければ早々に放り投げていただろう。
領民もノイローゼぎみだったし、その点クレアは快活で朗らかだ。
そんな意を込めてユリウスが笑いかけると、クレアは照れたように目尻を下げた。
「あ、……いえ、私はずっとお医者様のところにいましたから。守られていただけで、べつに強くも何ともないんですよ」
「医者? ……失礼ですが、何か病でも?」
「はい。今はずっと良くなってるんですが、流行っていた疫病に罹ってしまって」
疫病。というと、水道の開発不足からくる例の病のことだろう。重症の患者は医者の元にいたという話はユリウスも聞いていた。
「実は私、お医者様にこのままじゃもう2年も生きられないだろうって言われてたんです」
「……」
「それでずっと泣いてて、お医者様を困らせてたりもしたんですけど……。お城の王子様があっという間に良くしてくださって」
驚いて目を見張る。
お城の王子様。まるで童話のような単語が示す先が、自分のことであると理解するには容易かった。
「すごいですよね。とても笑顔なんて浮かべられる状況じゃなかったのに、王子様のおかげで今じゃみんなニコニコしてるんです」
「そう、ですか」
「お礼がしたくて、何故か家に届いたお茶会の招待状片手にお城に行ってみたりもしたんですけど、……やっぱり私みたいな平民じゃ難しいですよね。ふふ」
そう笑ったクレアに、ユリウスは何も返すことができなかった。
あれだけ饒舌に言葉を紡ぎ、息を吐くように嘘を並べ立てていたのに。なのに、今じゃ頭が真っ白で。
――まさか、こんなところで数年前の自分を褒められるとは。
ユリウスに掛けられる褒め言葉なんて、大抵が目論見の見えすいたおべっかだけだった。
ユリウスは自分でも嫌になるほど目が肥えている。人の裏なんて意図せずとも読めてしまうし、純粋な褒め言葉が存在しないことも知っている。
なのに、何なんだこれは。
(……もしかしてこいつ、俺の嘘なんて見破って、)
ハッとしてクレアを見やったものの、その瞳には影のひとつも映っていない。
困った。何か目論見でも透ければ下手な芝居だと笑ってやれたのに、こうも真っ向から褒められちゃ反応のしかたがわからない。
唇を噛み、頭を回し、口を開く。
とにかく何かを言おうとした。しかしそれより先に、柔らかく微笑んだクレアが声を発した。
「行動ひとつで人の命を救っちゃうなんて、まるでヒーローみたいじゃないですか」
「……っ」
その一言が、ユリウスにとってはダメ押しだった。
持ちかけたティーカップをソーサーの上に置き、色々なものが込み上げる感覚に空を仰ぐ。
(あー……、くっそ……)
途端に顔に熱がこもり、両手で顔を覆った。「ユーリ様?」と不安げに声を発する彼女に返せる言葉がない。
ヒーロー、だと。なんて楽観的な思考なんだ。
別に人の命を救うためにやったんじゃない。ただ王である父に命じられて、それがたまたま人を助けることに繋がっただけだ。
そう、それこそいつか昔馴染みに言われた通り、『良い子の第一王子』でいるために。
「あ、あの、ユーリ様……?」
「……」
「その、すみません、私ばかりベラベラと。こんな話されても知りませんよね、えと」
そんな様子のユリウスをどう思ったか、クレアは不安げにわたわたと続ける。
何かを言ってフォローすべきなのだろうが、今はクレアの顔を直視することができなかった。
(庶民なんて王族に不満を持って当然だろうに、こんな)
ヒーローなんかじゃない。周りのご機嫌を取りたいがためにコロコロと意見を変える、滑稽な王子だ。
そうやって空を見上げて数秒、ユリウスは咳払いをひとつ挟み、やっとクレアに視線を戻した。
クレアは困ったように眉を下げている。恐らくは「ごめんなさい」と言いかけたであろう彼女に、ユリウスはむず痒さやら何やらで溜息を吐いた。
「幸せ者ですね、第一王子は」
「……へ?」
「そうやって、自分がかけた労苦を評価してくれる方がいて」
『良い子』で当たり前。行いは正しくあるべきで、それらは評価にも値しない。何故なら当然だから。
人の上に立つとはそういうことだ。そんなの重々承知していたはずなのに、いざ褒められてみると心臓がうるさくて仕方がない。
身体に悪すぎる。こんなの毎日言われようものなら、冗談じゃなく死んでしまいそうなくらい。
「……あの人も、きっと嬉しく思っているはずですよ。僕が保証します」
そう言い切ったユリウスの顔には、自然と笑みが浮かんでいる。
クレアは数秒ぽかんと固まった。他人の喜びを保証するユーリに対して疑念も浮かんだが、しかし彼の言葉を理解すると、まるで子供のように目を細めて笑う。
「はい。……そうだと私も嬉しいです」
ステイシーはとんでもない友人を持ったものだ。頬を染める彼女を瞳に収めながら、ユリウスはふと、そんなことを思った。
スティード邸でレイマンが叫び散らしていることなど露ほども知らない2人の織りなす空間は、ひどく平和的なものだった。