20 お見舞い当日です
……当日が、やってきてしまった。
日も登り切っていない5時半に起床すると、私より1時間も早く起きていた使用人たちによってメイクアップに入る。
せめてと思って作ったカンペの出来も不十分だ。謝り倒すバージョンと情に訴えかけるバージョンで2個作ったのは間違いだったかな……。
リズには「そんなものよりアドリブの方がイヴァン様の心に響く」なんて言われてしまったが、どもってまともに話せなくなるよりあらかじめ決めておいたものを読む方がマシだと思う。……まあそのカンペも出来上がっていないのだけれど。
「あら? 隈が浮かんでますね。多めに白粉を塗ってもよろしいですか?」
「えっ」
ぎょっとして鏡を見ると、なるほど確かにパンダのように目の下が黒かった。
よく見ると寝不足もたたって肌の調子は悪いし、髪も何となくパサパサな気がするし、……カンペどうこう言ってる場合じゃなさそうだ。入念にオイルを塗ってもらわねば。
「イヴァン様は昼過ぎに馬車で来られるそうです。従者の方と一緒だと思いますが、向こうから人数は最小限にすると連絡がありました」
「昼過ぎに?」
「ええ。と言ってもゆっくりしている時間はありませんし、朝食もぱっぱと済ませちゃいましょう」
ノーノックで入ってきたリズが、手紙を片手にきびきびと言う。ひ、昼過ぎかあ……。
余裕はあるものの、あと7時間しか猶予がないというのは中々につらい。……心無しかお腹が痛くなってきたのはコルセットのせいだと信じよう。
抑えられない溜息が口から漏れ出る中、慣れたメイクとヘアセットが終わる。
逃げないと決めたはずなのに、窓からの脱走を考えてしまうのは、私の弱い心の表れだった。
◇◇◇
早めの昼食を終え外に出ると、より一層緊張感が強まる。仕事を休んだお父様とお母様も、ついでに私も表情筋がかちこちだった。
いつもより念入りに施された化粧がむずむずする。
やがて遠くに馬が見え始めると、重かった空気が更に張り詰めるのを感じた。殿下が乗った馬車だ。
お母様とお父様が前に出ると、御者さんが戸を開けた。止まった馬車の中から出てきたのは銀髪――ではなく、煌びやかな金色の髪で。
その端正な顔を目にし、息を呑んだ。
「ユ、ユリウス殿下……?!」
お母様が驚いたように声を上げる。従者でも何でもない、御国の第一王子が何故かここにいた。じ、従者と一緒って話じゃなかったの……?!
途端にこちらが慌て始める中、ユリウス様はにこやかに微笑むと、「こんにちは」と一言告げる。お父様は今にも泡を吹いて倒れそうだった。
「いきなり押しかけてしまってすみません。弟がお見舞いに行くって言うものですから、つい着いていきたくなってしまって……」
「いっ、いえいえ! むしろお迎えの準備ができておらず申し訳ない……!」
「ああいや、お気になさらず。ご迷惑ならすぐ帰りますし」
「めめめ迷惑だなんて! そんな滅相もない!」
お父様がぷるぷると震えながら応対する中、私は挨拶のひとつもせず、ただただ呆けて彼を見つめることしかできなかった。
――ユリウス・ルイーズ・フロックハートは、国の第一王子だ。
外交的かつ頭脳明晰。研究室にも籍を置く非常に優秀な研究員である傍らで、次期王位として公務にも精を出す、誰もが認める王子である。
最後に会ったのは、忘れもしないユリウス様の生誕パーティーだ。……イヴァン様と色々やっちゃった日、ともいえる。
あの日も挨拶をしたっきりでお話しすることはなかったけれど、……まさかこんなところを訪れるなんて。
「リナダリア伯もお元気そうで安心しました。夫人も最近パーティーでお見えになりませんでしたし、心配で」
「あ、は、はい。最近はその、予定が合わなくて。ユリウス様の生誕パーティーにも出席ができなかったのですが……」
「あはは、そうでしたね。娘さんは出席してくださりましたけど――」
ユリウス様が突然こちらを向き、びくりと肩が跳ね上がる。こ、こっちに矛先を向けないでくれ……!
という切実な願いも虚しく、ユリウス様は私に向かって「お久しぶりです」と微笑みかけた。コミュ障のパークスキルがオートで発動した私はアハハという下手な笑いしか返せない。
と、そこで、ユリウス様の目線が私の背後に移った。
彼の一挙手一投足に敏感になっていた私は一体なんだとまたびくついたものの、既に彼の視界に私はいない。
ユリウス様はより笑みを深めると、僅かに首を傾げ、
「あれ? もしかして君リーゼロッ――」
リズの右足が、ユリウス様の頬を掠めた。
「リリリリリリズ?!」
「失礼。虫が止まっておりましたゆえ」
「あは、ありがとう。次からは言葉で教えてくれると嬉しいな」
「善処いたします」
ぺこりと一礼したリズに、両親と私の顔が青褪めた。ふりとはいえ第一王子に蹴りを入れるって何をしているんだ。御者さんもぎょっとしているし、相手が相手なら打首待った無しである。
と、リズに訴えかけようとしたその時。
「――兄上、さっさとどいてくれないか」
しばらく開いていなかった馬車の戸が、ユリウス様を押し退ける形で無理やり開かれた。
戸から覗くのは綺麗な綺麗な銀髪。私がはっとしたのと、両親の顔が更に青くなったのは、ほぼ同時だった。
「ええ、兄に対して酷い物言いだなあ」
「文句は受け付けてねえ。今日の主賓は俺で、兄上は従者扱いだろ」
「……まあそうだけど」
――イヴァン殿下。
婚約発表のパーティー以来に見る彼の姿に、きゅうと喉が鳴る。
そうだ。全く想定していなかったユリウス様の来訪ですっかり頭から抜けていたが、今日は彼を迎えるためにここまで着飾ったのである。
途端に足が竦む。背中を叩かれたと思ったら、たった今ユリウス様にエア蹴りを入れたリズが何か言いたげな目でこちらを見ていた。
……そ、そうだ。名目上は私が招いたことになっめいるのだから、せめて挨拶くらいはしないと。
「イ、イヴァン殿下。本日は、その、……ご足労いただきありがとうございます。お忙しい中ですのに、あの」
カンペが頭の中で混ざり合ってわけがわからない。
恥ずかしさで目を逸らしそうになる中、目が合った殿下はハッとした表情でこちらに詰め寄っ――……ん?
「な、何でおまえが外に出てるんだ……!」
「へ?」
「寝てなきゃだめだろ、風邪がぶり返したらどうするんだよ!」
「えっ」
気付けば肩をがっしりと掴まれ、がくがくと揺らされながらそう怒鳴っあ痛い痛い痛い肩が痛い! 指が、指食い込んでる……! どんな握力してるんだこの人!
「で、殿下、肩が」
「今すぐ部屋に戻ってドレスを脱げ! あとは温かい紅茶を」
「あの、殿下! かっ、肩が痛いです!」
「頭が痛い……?!」
「肩ですってば!」
殿下は額に手まで当ててきている。色々違うし、それに後ろでゲラゲラ笑い転げているユリウス様が今はとんでもなく恨めしい。助けてくれてもいいじゃん……!
「リナダリア伯、ステイシーを少し借りてもいいか」
「えっ、あ、は、はい……?」
「助かる。行くぞ、ステイシー」
「え、い、行くってどこに」
「部屋に決まってんだろ。案内してくれ」
言うや否や、返事も待たずに手首を掴まれた。ぐいぐいと引っ張られる中辛うじて振り返ると、何故か大ウケしているユリウス様以外の全員が全く同じ表情で口を開けている。
一体なんなんだ。疑問を投げかける暇さえなく、ただただ足を動かすだけ。
――「ほら、カンペなんて作ったところで意味なかったじゃない」。
頭の中で響く『魔性の伯爵令嬢』の声に項垂れる。確かにそうだと思いつつも、私は殿下の背を見つめることしかできなかった。