2 嘘をついてしまいました
突然の婚約者持ち宣言――反射的に飛び出た嘘だが――に、流石の殿下も面食らったらしい。
ぱちぱちと瞬きをして私を見やると、やがて困ったように眉を下げた。
「そう、か。……おまえに、婚約者が」
「ご、ご存じなかった、ですか……?」
「……ああ、知らなかった。社交界の事情にはどうも疎いんだ」
と思えば、殿下はハッとしたように顔を上げる。
「も、もしや俺は婚約者がいる令嬢に手を……?」
「いやいやいやっ!昨夜のことは私に責任がありますので……!」
そもそも婚約者がいるなんて話は嘘だし、悪いのは平気な顔で様々な殿方と身体を重ねるこちらだ。殿下は悪くない。
――でも、にしたってこの状況は奇怪だ。一体殿下はどうしてしまったんだ。
ゲームの中ではイヴァンがステイシーに想いを寄せる描写なんてなかったはずだ。それどころか、別ルートの悪役令嬢であるステイシーはイヴァンのルートに姿どころか名前すら出てこない。
なのに何故、いきなり告白なんてされたのだろう。
「でもそうか、…………婚約者か」
殿下が再度なぞるように呟くと、どこか重く、シンとした空気が流れた。
思わず不安げに顔を歪める。すると、殿下はそっと笑いかけてくれた。
――ど、どうしよう……。何だかもう嘘だなんて言えない雰囲気になってしまった。
えもいわれぬ罪悪感に襲われながら冷や汗を流す。
でも今更嘘ですと言って馬鹿にしていると思われても嫌だし、かと言って嘘をこのままにしておくのも殿下に悪いだろう。
一体どうしたらと黙りこくる。すると、それをどう捉えたのか、殿下は更に申し訳なさそうな顔をしてしまった。
「悪い。女々しいのはわかっちゃいるんだが、……でも本当に好きなんだ」
「……」
「……ああいや、別に無理に想いを受け止めてくれとは言わねえよ。だからそんな深刻そうな顔しないでくれ」
こちらを見つめる表情に、否応無く心臓がどきりと鳴った。いつの間にか膝に置いていた手でバスローブを握る。
「あの、……殿下」
「ん?」
「その、答えづらかったら、結構なのですが……。……ステイシーのどこを好きになっていただけたんですか?」
気付けば、プレイヤーという第三者の視点で見た疑問がぽろっと零れ出ていた。
婚約者があると言っておきながらこんなことを尋ねるなんてあまりにも無礼だ。がしかし、ハッとしてももう遅い。
「あ、別にこれは」
「……どこを、か」
せっかく殿下が昨夜のことを不問にしてくれたのだ。これ以上怒りを買うわけにはいかない。
そう飛び出した否定の言葉は、殿下の柔らかな笑みによって掻き消された。
「……わからないな。強いて言えば笑った顔だったのかもしれない」
「わ、笑った顔……?」
「ああ。一目惚れだったんだ」
想像より斜め上の甘ったるい単語に、私は目を丸くした。
「3年前、俺の生誕パーティーに来てくれたことがあっただろ。……その時におまえを見て、綺麗だな、って思った」
「え゛っ、そ、そんな前から……!?」
「ああ。でも中々話す機会もなかったし、だから昨日声を掛けたんだ。せめておまえと話ができたらと思って」
『話ができたらと思って』。
その言い回しに、私はどこか違和感を覚えた。
昨夜パーティー会場にて、確かに殿下は私の……正確にはステイシーの肩を叩いた。
ステイシーはその仕草を「私と身体を重ねませんか」というお誘いだと解釈し、殿下の部屋に連れて行ってもらった、のだけれど。
けれども殿下は、肩を叩いたのは「話がしたかったからだ」と言っていて。
「だから、その、部屋に行かないかと言われて驚いたんだ。俺は少し話ができればそれで良かったから」
「へ」
「婚約もしていない令嬢を部屋に招くのもどうかと思ったんだが、……つい欲が出た。俺も男だから」
脳天に雷が落ちたかのような衝撃だった。
――つまり殿下は、元よりステイシーと色々やっちゃうつもりなんて微塵もなかった、と……?
衝撃の事実にぶわわと鳥肌が立った。じゃあ昨夜私と殿下が身体を重ねたのは、完全にこちらの早とちりで勘違いということになる。
そしてはたと気付く。
というかこの一件、全部悪いのは『魔性』の方のステイシーだ。
何で勝手に前世の記憶なんて戻りやがったのだろう。拗らせ喪女の方のステイシーに全てを押し付けないでほしい。せめて責任くらいは魔性のステイシーの方で取ってくれなきゃ困る。
「……実はな、俺はおまえのことを勝手に可愛らしい令嬢なんだと思っていたんだ」
私がもう1人の自分とも言える魔性の方のステイシーに怒り狂っていると、そんな葛藤を知る由もない殿下は照れたように笑った。
「だから昨日の、……やけに積極的だったおまえには度肝を抜かれた」
「……で、できることなら忘れてください……」
「俺も忘れてほしいくらいだ。随分余裕がなかったろ」
色んな男性と身体を重ねていた記憶はなるべく呼び起こさないようにしていたが、インパクトのせいか昨夜のことは妙にちらつく。あれは私じゃなくて魔性の方のステイシーなんだと言い聞かせても、どうしようもないほど恥ずかしい。
「ふふ。……でもな、こうして今日ちょこまか動き回って小さくなってるお前を見てると――やっぱり可愛くて仕方がねえ」
「……ん?」
「だから好きだって言いたくなったんだ。……でも、おまえの申し出を逆手に取って告白したのはみっともなかったな」
――ん、んんん……?
彼の言葉を噛み砕く。もしや殿下は今、ちょこまかとベッドにダイブしたり地に額を擦り付ける姿を見て「可愛い」と言ったのだろうか。特殊すぎる感性に口角が引き攣った。
その言い回しも引っかかる。「だから好きだって言いたくなった」って、まるで『魔性』の方のステイシーではなく、拗らせ喪女の記憶を取り戻した今の『私』を好きだと言っているような口ぶりだ。
「なあ、ステイシー」
思考が及び、ぴたりと動きが止まった。
――あ、あれ……?
「……やっぱり、俺はおまえが好きだ」
先ほどより盛大に、心臓がどきりと鳴った。
「無理強いはしないし、婚約者との縁を切れとも言わない。……だから、せめてこうして想い続けることだけは許してくれねえか」
殿下は再度、私の前に跪く。綺麗な顔が優美に微笑んだ。
何故彼は、こうも歯の浮くようなセリフを言うのだろう。まるで王子様だと思い、気付く。彼は地位的に本当に王子様だ。
「……だめか?」
追い討ちの一手が突き刺さる。
そんな子犬のように濡れた目で聞かないでくれと、私は心の中で叫んだ。がしかし、そんな悲痛な叫びが殿下に届くはずもなく。
「……わ、私、婚約者がありながら殿下と、……その、身体を重ねたきたない女、ですよ?」
改めて口にすると酷い話だ。
なのに、殿下はそっと微笑んで。
「なら、そのきたない女に恋慕を抱いている俺も同罪だな」
ぶわあと顔が赤くなって、もうだめだった。恥ずかしくて前が見れない。
私の心の中に巣食う魔性の方のステイシーに、「そんなんじゃやっていけない」と嘲笑われた気さえした。
「あ、……あの」
「うん?」
「……その、私、い、家に帰ります……」
情けないくらい小さな私の申し出に、ふんわりと笑った殿下の「ああ」という声が重なる。いち早くこの場から逃げ出したくて仕方がなかった。