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15 会いたかった、です

 使用人専用の出入口として使用されているらしい裏口は、正門とは真反対の位置にあった。


 少し戸を開いて外を確認してみるものの、やはり土砂降りの雨の勢いは凄まじい。


 傘も御者に預けたわけだし、私が馬車に戻るにはこの中を切り抜けねばならないのだが、少し躊躇してしまうくらいには酷い豪雨だった。……もう腹を括るしかなさそうだ。


 バッグを両手に抱え、ドレスを濡らしてすみません、丁寧に洗いますと心内でクレアに謝罪をひとつ。


 一度深呼吸をすると、私は意を決して一歩目を踏み出した。水滴が肌を裂くように冷たい。それに痛い。


 豪雨と水滴でまともに前も見えない中、脳内の地図を頼りに足を進める。馬車が停めたのは正門の近くだったはずなのだが、いかんせん視界不良でまともに方向すらわからない。


 ――ど、どこだっけ……? 今どの辺りにいるの?


 雨の勢いが想像を遥かに超えている。とにかく視界が悪すぎるし、一度裏口に戻るべきだろうか。


 そう振り返り、思わず目を見張った。雨と曇天で薄暗すぎて前が見えやしないのだ。


 進むうちにあらぬ方向へと向かっていたのだろう。これじゃ元来た道すらわからない。


「……どうしよう」


 せめてと抱えたバッグすらずぶ濡れになる中、呑気にも口からそんな言葉が漏れ出た。


 ……とにかく、馬車に戻らなくては。


 雨の溜まった靴を何とか動かし、恐らくは正門方面と見られる方向へと歩を進める。一歩を踏み出すごとに鳴るぐちゃりという音が気持ち悪い。


 やはり恥をかいてでも正面から出るべきだっただろうか。でも、家まで馬鹿にされたら迷惑を被るのは私だけじゃないし。


 視界を鮮明にすべく、袖で目元を拭った。


 ドレスじゃ走りにくくてどうしようもない。いっそ靴くらい脱ぎ捨ててしまおうか。


 と、そう思った時だ。

 左手が突然何かに掴まれて、身体が後ろに傾いた。


「は」


 いけない、倒れる。空を踏んだ足に、反射的に目を閉じる。


 ぬかるんだ場所に足でも突っ込んだのだろうか。雨に濡れ視界も晴れず散々なのに、何故不幸というのは重なるのだろう。


 奥歯を噛んだ。その次の瞬間。


 覚悟も決めきれていない私の背を受け止めたのは、ぬかるんだ地面でも衝撃でもない。



「――っ何をやってんだ、お前は!」



 水を滴らせた銀髪と、そう怒鳴る声、で。


「傘も差さずに走る馬鹿がどこにいる! 雨も見えねえのか?!」

「……へ」

「裏口に向かったと聞いて来たらこれって、どれだけ心配させれば気が済むんだお前は……!」


 必死に訴えかけるその顔を見て、彼に凭れる形になった私はぴたりと動きを止めた。


 ……殿下、だ。殿下。


 お城ぶりに会うイヴァン殿下が、見たこともないくらい怖い顔でこちらを見ている。何で。


 戸惑いながらぽかんと開いた口に、容赦なく雨が入ってくる。


 そういえば「雨は汚いから飲もうとするな」って言われたことがあるなとか、髪もメイクも乱れた今殿下に会いたくなかったなとか、そんなくだらない思考だけが回って。


「…………なん、で」


 雨音に掻き消されるであろう音量で放った呟きは、殿下の耳には届かない。


 代わりに、左手を掴む手に力が篭った。そのまま強く引き寄せられると、雨でぐちゃぐちゃだった私の頭は、鈍い音を立てながら彼の胸元に収まった。


 ――と、そこでやっと、私の脳が冷静さを取り戻した。


「でっ、殿下、いけません! 濡れて風邪でも引いたら!」

「いい、もう手遅れだ」

「いやいやいや、そんなこと言ってる場合じゃないでしょう……! 早く会場に戻られてください!」


 数秒のフリーズののち、勢いよく顔を上げると、私は彼に向かって精一杯言葉を捲し立てた。


 王族がこんな冷たい雨の中傘も差さずに突っ立っていたら大問題だ。それに今は婚約発表パーティーの真っ最中なわけで、国のトップに近い王子がいないとなれば騒がれるに決まっている。


 だからただひたすらに戻るべきだと言ったのに、殿下はいつの間にやら回された腕を離そうとしない。


 それどころか、大きく大きく溜息を吐き、私の雨に濡れた肩に額を埋めた。


「……え、あ、あの」

「……」

「殿下、雨が」


 彼の肩を数度叩いてみる。反応はない。

 声を掛けてみる。反応はない。


 ただひたすらに濡れながら思い至った既視感の正体は、クレセントのお茶会の日に連れ出されたあの裏庭での一件だった。


 あの日、あの時、5秒という制約付きで触れ合った私たちの今に、時間制限は存在しない。


 所在を失った手を下ろす。顔の水滴を拭うと、剥がれた頬紅と白粉がついでとばかりに流れ落ちた。今の私は酷い顔をしているに違いない。


 それからどのくらい経っただろう。10秒もしない頃合いだ。

 それまで言葉のひとつも発さなかった殿下が、そっと口を開く。


「…………心配したんだ」


 耳元に囁かれた言葉は、豪雨にだって掻き消されやしなかった。


「おまえが、見当たらなくて。心配だったんだ。……レイマンに裏口から出ていったと聞いて、それで」

「……」

「外を見たらこれだ。名前を呼んだのに振り返らねえし、だからここまで追いかけて来た」


 名前。そんなの聞こえなかった。

 雨の音で耳はいっぱいだったからだ。


「…………俺が、おまえを心配したんだ。なのにおまえは『殿下は戻れ』って、そればっかだろ」

「……」


「俺はおまえを探しにきたんだ。……頼むから、自分を蔑ろにしないでくれ」


 絞り出されたような声に、話そうとしていたことが全て弾け飛んだ。じわじわと集まり始める熱は、雨なんかじゃ治らない。


 ――……殿下は、私を、探しに。


「ご、……ごめんなさい」

「……」

「探しにきてくれるとは、思わなくって。……まず言うべきなのはお礼でした。ありがとうございます」


 気が動転していたとはいえ、確かにお礼のひとつも言わずに帰そうとしたのは無礼だっただろう。改めて言葉にし直すと、肩口の感覚がもぞりと動いたのがわかった。どうやら頷いてくれたらしい。


「で、でも、その、……風邪、引きますから。戻りませんか。冷たいですし」

「……ああ」

「あ、え、ええと、ですので、離していただけると……」


 こうしていたって空気の読めない雨は止んでくれない。ぽんぽんと殿下の肩を叩くと、一度ぎゅっと腕に力を強められた後、その藍色の瞳と目が合った。


 いつ見ても綺麗な色だ。同じ色のドレスに思わず目を奪われてしまったくらい、綺麗な瞳。


「ステイシー」

「はい」


「会いたかった」


 最後にそう言って、殿下は私の手を取る。


 相変わらず身体を打ち付けてくる雨を疎ましく思いながら、私は小さく「ありがとうございます」と言った。


 「私もです」とは、言えなかった。

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