14 世界で一番可愛いです
辿り着いた化粧室は中々立派なものだった。洗面台が綺麗に掃除されているのはもちろん、鏡が大きいのが素晴らしい。流石は侯爵家所有の建物である。
鍵はないが、ドアノブにネックレスを掛けておけばそれで十分だろう。察しのいい貴族様方なら使用中という意思を汲んでくださるはずである。
――さて、と。
本番はここからだ。私はびくびくした様子のクレアに向き直り、バッグからポーチを取り出した。
「クレアさん」
「は、はい……?」
「今からお色直しです。すぐに終わらせますから、大人しくして頂けるとありがたいのですが」
「えっ」
言うや否や、私は水道で濡らしたハンカチでクレアの顔を拭い始めた。汚れを取るためだ。
ハンカチ越しに「あの」「すみません」「何が」なんて言葉が聞こえてくるが、心を鬼にして無視を決め込む。時間がないのだ。
やはり雨で顔の方も汚れていたらしい。ハンカチは段々と茶色くなっていき、反対にクレアは白い陶器のような肌を取り戻しつつある。この分じゃ白粉は少なく済みそうだ。
「あ、あの……」
「何でしょう」
「すみません、その、……気を遣わせてしまったみたいで」
そんなことを考えながら汚れたハンカチをじゃぶじゃぶと洗っていると、不意にクレアがそう口にした。表情は申し訳なさそうに歪んでいる。
私は白粉を取り出しながらクレアに向き直った。
「クレアさんが申し訳なさそうにする必要はないですよ。私の自己満足ですから」
「で、でも、同情してくださったのに」
「同情じゃありませんよ。ただクレアさんを馬鹿にした人が許せないだけです」
そうだ。私はただ、これだけ可愛いクレアが蔑まれている事実に憤っただけ。単なる自己満足で、何なら怒る権利は彼女の方にあると言って良い。
白粉をブラシに馴染ませ、クレアの後頭部に手を回す。びくりと反応するその顔に白粉を塗っていくと、クレアの肌がワントーン明るくなった。
ちょっとしたシミも消え、これだけでお姫様みたいだ。クレアは元のポテンシャルが凄まじい。
「……優しい、ですね。見ず知らずの私のためにここまでしてくれるなんて」
「……」
クレアはそっと、照れたように微笑む。その顔があまりにも可愛くて、女の私でさえうっかり好きになりかけてしまった。オタクのチョロさは段違いだ。
さて、白粉を首にも少し塗り、厚手のタオルで撫でるようにして馴染ませれば、次は頬紅だ。
白い肌に映えるよう、クレアの瞳と同じ淡い桃色を選ぶ。つるつるとした肌にじんわりと紅を滲ませると、血色のよくなった顔がとても愛らしい。
口紅は、気持ち薄付きの方が映えるだろう。控えめな上唇を描き足すように広げればメイクアップは終了。上出来だ。
「さ、お次は髪の毛です。鏡の前に立って頂けますか?」
愛用する櫛を手に取り、大きな鏡を指差す。するとクレアは、またもぶんぶんと首を横に振り始めてしまった。あっシャンプーのいい匂い。
「いやいやいや!そこまでやってもらうのは流石に……!」
「むしろメイクだけじゃアンバランスですよ。せっかく綺麗な髪をお持ちなんですし、生かさない手はありません」
「でも迷惑ですし」
「私が勝手にやってるんですから、迷惑も何もありませんよ」
本当に迷惑でも何でもないのだが、こうしている間にも時は過ぎていくし、こうなったら最終手段だ。
私はクレアの肩をガッと掴み、無理やり鏡の方を向かせた。
短く悲鳴を上げる彼女の髪に櫛を通すと、ようやく観念したらしい。大人しくなったクレアは、鏡に映る自分を見て驚いているようだ。化粧の魔力は恐ろしい。
クレアの髪は、雨と湿気にやられだいぶ癖が付いていた。
前世のようにヘアアイロンがあるわけでもなし、できることならまとめてしまいたいのだが……、ピンやゴムは持ってきてないんだよな。一体どうしたものか。
生糸のように滑らかな髪を手にし、数秒の間考え込む。と同時に、鏡に映る自分を見て閃いた。
そうだ、ピンとゴムならここにあるじゃないか。私の頭に。
考えついたら躊躇いはない。私は結ってくれた使用人に謝罪をしつつ、髪を解き始めた。クレアは鏡越しにぎょっとした表情でこちらを見ている。
取り外したピンやゴムでクレアの髪を結い始めると、流石にクレアも私の為さんとしていることに気付いたみたいだ。数言謝罪をされたものの、返事をしている時間はない。
頭の上でお団子にしてまとめ、ずれないようにピンを刺してやれば完成だ。これで湿気にも抗えるだろう。
「……簡易的なものになりますが、クレアさんほどお綺麗であれば十分映えますね。素敵です」
鏡の中のクレアは、まるで庶民とは思えない華やかさに満ち満ちているほど美しい。反対にぐちゃぐちゃに髪が乱れた私とは大違いだった。
クレアは暫し鏡の中を呆けたように見ていた。そりゃあここまで可愛く仕上がれば言葉もないだろう。私も鼻高々だ。
「あ、あの……本当に、何とお礼を言ったらいいか。ありがとうございます」
「いえ、そんな。自己満足ですから」
「でも、何から何までやって頂いて……」
眉を下げつつ言ったクレアが、丁寧に腰を折り曲げる。
私は、そんなクレアの手を掴んだ。
「本当に大丈夫ですから。 ……それに、まだ全て終わったわけじゃありません」
「……え?」
顔を上げ、目を丸くした彼女に笑いかける。
そうだ。メイクや髪は私の手でどうにかできても、あともうひとつが足りない。
画竜点睛を欠いてはせっかくの愛らしさも台無しだ。クレアをこの会場で婚約者の次に可愛くすると決めたのだから、妥協はしていられなかった。
「手伝ってくださいますか? このドレス、1人じゃ脱げやしないのです」
◇◇◇
それから10分。
化粧室から出ると、パーティー会場の方から騒がしい声が聞こえてきた。どうやら招待客も集まってきたらしい。
ドアノブに掛けたネックレスを回収し、バッグの中に押し込む。
ちらと背後を振り返ると、未だ室内で躊躇っているクレアに声を掛けた。
「クレアさん、もう時間みたいですよ」
「で、ですけど、こんな……」
「大丈夫だって言ったじゃないですか。第一、私もこんな髪じゃ出て行けませんから」
「……」
もう言うだけ無駄だとわかったのか、クレアがおずおずと進み出る。
しっかり施されたメイク、綺麗に整えられた髪と、――元は私が着ていた藍色のドレスに身を包んだ彼女は、思わず見惚れてしまうほど美しい。
これなら悪意のある貴族令嬢たちに「庶民が」なんて言われることもないだろう。あるとしても嫉妬に心を燃やす輩くらいに違いない。
「うん、……着付けも大丈夫みたいです。ドレスは今度お返し致しますね」
彼女に言った通り、髪もメイクも乱れた私はもう会場に戻れない。だったらドレスだって貸してしまった方が良いと考えたのだが、……優しいクレアは俯いてしまった。
――ううん、本当に私は良かったんだけどなあ。
ルーカス様への挨拶は済ませたし、クレアが気にする必要は全くないのだが、こうも申し訳なさそうにされると罪悪感を感じる。
と、そんな私たちに、こつこつと革靴の音が近付いた。
振り向くと、20分ぶりの派手な格好が目に入る。
「化粧室に籠って何をしているのかと思えば……、どうして君のドレスを彼女が着ているんだ?」
「……レイマン様」
どうやら私たちの様子を見に来たらしい。……彼も一応主催のはずなのだが、こんなところで油を売っていていいのだろうか。
私は苦笑いを浮かべる。レイマン様は眉間に皺を寄せた。
「色々ありまして」
「色々? ……君の髪が爆発しているのもその影響か?」
「ええ、まあ。これでも落ち着いた方なんですけどね」
がしかし、ここで彼が来たのは好都合だ。
私はぱちんと手を叩くと、できるだけの愛想を以てにっこりと笑いかけた。
「そうだ、レイマン様。クレアさんをエスコートして頂けませんか?」
「……は?」
「彼女、こういった場に慣れていないみたいなんです。主催のレイマン様がいらっしゃれば安心かと思ったのですが」
レイマン様がぽかんとした表情を浮かべる。また何事か文句を言われる前に、私は再度口を開いた。
「この間のお茶会でのこともありますし、レイマン様にならお任せできると踏んだのですが」
「お前……」
「ね、よろしくお願い致します。私はもう行かなくちゃなりませんから」
なんて、彼にとっても苦い思い出であろうお茶会の話まで出されれば、流石のレイマン様も断れまい。これぞ魔性の伯爵令嬢仕込みの交渉術だ。
案の定、レイマン様は本当に渋々ながらも頷いてくれた。良かった、これでクレアが性悪な令嬢に絡まれることもないだろう。
もう私がここに長居する必要はない。パーティーの開始はもう数分に迫っているし、あとは彼らを送り出さなければ。
「……では、お二人ともまた今度。ルーカス様たちによろしくお伝えください」
まだ何か言いたげなクレアに手を振り、私はカーテシーと共に踵を返した。この髪の惨状でまさか正面から帰るわけにもいかないし、さっさと裏口から出てしまおう。
会場の騒ぎに背を向けながら、煌びやかな廊下を大股で歩く。
――できれば殿下にお会いしたかったけれど。
なんて、叶わぬ願いを抱いたって仕方がない。今はクレアが楽しく今日を過ごせることをただ願うばかりだ。