◇11 第二王子の受難
王城での短い茶会を終えたステイシーが馬車に乗り込んだのは、もう夕日が傾きかけようという頃合いだった。
その馬車を見送り自室に戻ったイヴァンは、ふらりとベットに倒れ込んで目を閉じる。眠ってしまおうかとも考えたが、困ったことに眠気がない。
それどころか、イヴァンの頭の中は先程帰宅したステイシーのことだらけであった。
〝 婚約者なんていないんです。私 〟
申し訳なさそうにそう言った彼女の顔は、今でも容易に思い出せる。道理でロニーに頼んだ婚約者の調査が進展しないわけだ。
今考えると、ああやって小さく縮こまりながら何度も謝罪を重ねていたステイシーは、自分に怒られるのを怖がっていたのだろう。
故にちらちらとイヴァンの顔色を確認し、一挙手一投足にびくびくと反応していたのだ。
(……俺がステイシーに怒ることなんてないのに)
けれども、あの時の彼女は非常に可愛らしかった。
怯えている姿がもっと見たいとまでは言わないが、何とも言えぬ支配欲が背中を駆け抜けていくあの感覚にはうっかり負けかけたものである。
事前に交わした手は出さないという誓いで何とか踏み留まりはしたものの、年頃のイヴァンには中々堪えるものがあった。
――でも、一体これからどうしたものか。
イヴァンは悶々としていた。
今まで散々頭を悩ませてきた婚約者の存在。それがそもそも架空だったという衝撃的な話はイヴァンにとって喜ばしいものであったが、……それ以上に新たな悩みのタネとなってしまったのだ。
(……もう我慢できる自信がねえ……)
深く溜息を吐き、額に右手の甲を当てる。
――婚約者という気を使うべき存在がいなくなったことで、自制心が効かなくなった自分が何を仕出かすかわからない。これが非常にまずかった。
イヴァン・ハイル・フロックハートは良くも悪くもストレートで、かつ鈍い人間である。
確かに大抵のことには気後れせず、羞恥心も恐怖心もほぼ皆無の彼は、生理的欲求が人並み以上に強い。
そんな年頃の男の前に現れた想い人。最初は遠くから眺めるだけでも満足できたのだが――あの生誕パーティーの夜、そんな淡い考えが180度変わってしまった。
人間一度許されると欲が出るらしい。彼女に触れたい。近くにいたらもっと近付きたいし、叶うことならずっと腕の中に閉じ込めておきたい。その目に映るのは自分だけで良い。
なんて欲も「婚約者がいるから」という文字ひとつで何とか抑えてきたというのに、突然足枷を外されてどうしろと言うのだ。
欲が先行していきなりキスでもして嫌われてみろ、イヴァンは今度こそ生きていけなくなる。
(…………もう会いたい。抱きしめたい)
馬車に乗る彼女の腕を何度掴もうと思ったか。
そんなどうしようもない想いにイヴァンが頭を悩ませていると、前触れもノックもなく、突然部屋の扉が開いた。
「えっ、お前ほんとにあの子帰しちゃったの?」
耳触りの良いテノール。イヴァンが鷹揚な動作で顔をやると、――そこには、目を丸くして立っている兄、第一王子のユリウスが立っていた。
「……兄上。何か用か」
「いやいや、『何か用か』じゃないでしょ。リナダリア家の子は?」
「それは俺の真似か? ……ステイシーならさっき馬車で帰ったが」
すると、ユリウスは「え、ほんとに?」と眉根を寄せた。信じがたいものを見たような瞳である。
「何だよもったいないなあ……。せっかく俺が応接間占拠して気利かせてやったのに、お泊まりどころか手の一つも出さなかったの?」
「ああ。手は出さねえって約束だった」
「はあ……? 一回寝た女を部屋に招いて手出さない方がおかしいでしょ。何考えてんのお前」
穏やかな声音でずけずけとものを言うユリウス曰く、どうやら応接間を占拠したのはわざとらしい。イヴァンとステイシーを部屋へと追いやりたかったようだ。
しかしながら結果は進展ゼロ。明らかに落胆したらしいユリウスは、「期待して損した」と大袈裟に溜息を吐きながら扉にもたれかかる。
「メイドからあのイヴァンがワンナイトって聞いた時は腹千切れるくらい笑ったのに、つまんないなあ。お前性欲ないの?」
イヴァンはそんな兄に対し、はてと首を傾げた。
「いや? 下心しかねえ。許されんなら手くらいいくらでも出してたけどな」
「ええ……、何その潔さ。逆に怖いんだけど……」
「でも向こうはそうじゃねえだろ。なら待ってやるしかない」
といっても、婚約者という枷が外れたイヴァンに我慢ができるかは怪しいところなのだが――できれば想い人に無理強いはしたくない。
「……あっそ。随分とまあ献身的なことで」
そんなイヴァンとは打って変わって、ユリウスの方は呆れ気味だった。
王族、しかも王子ともなれば多少の無理は通って当然だし、むしろ気に入った女の1人や2人丸め込めない方が恥ずかしい。
しかも相手は特に力があるわけじゃない一介の伯爵令嬢だ。ユリウスは、強硬手段に出ない弟のことが不可解でならなかった。
「思考が固いよね〜、イヴァンは。どうせ一回寝てるんだし、手くらい出したところで大した問題にはならないでしょ。むしろ押してった方がいいんじゃない?」
「でもあいつに無理をさせるわけには」
「あ〜はいはい、わかったわかった。そういうのもういいから」
大真面目に語るイヴァンにはどう言っても響かなさそうだ。ユリウスは早々に見切りをつけ、ふらふらと片手を振りながら弟の部屋を後にする。
(何だったんだ、一体。用があったんじゃねえのか……?)
残されたイヴァンは、突然現れ去っていった兄に疑問符を浮かべながら再度ベッドに転がった。兄の話は時折意味がわからない。
――……でも、押していった方が良い、か。
確かにそれは一理ある、と思う。婚約者の存在は嘘だったわけだし、彼女に自身の存在をアピールするには絶好のチャンスだ。ここを逃す手はない。
(……でもアピールってどうすんだ? とにかく気持ちを伝えれば良いのか……?)
なるほど、それなら簡単だ。思っていることを口にすれば良いだけだし、特段意識せずとも、彼女の顔を見れば勝手に好きだと言っている。
イヴァンはよしとひとつ頷いた。そうなったら行動は早い方が良いし、早速次はいつ会えるか尋ねよう。今度はリナダリア家にお邪魔するのも良いかもしれない。
イヴァンは起き上がった。若干曲がった思考を紡いではいるものの、しかしやる気だけはあるらしい。デスクへと向かい、大切に保管していた深い藍色の万年筆を手に取る。
さて、文面はどうしよう。天気の話から始めるのが良いとは聞いたけれど、それじゃ固すぎやしないだろうか?……
なんて、そう想い人のことを考えながら悩むイヴァンの口角は、自然と緩やかに上がっているのだった。




