10 お話しいたします
「……い、ない?」
私は、やはり顔を上げられぬまま頷いた。そうだ。婚約者なんてただの一度もいたことがない。
ただただ遊びたかったステイシーの出まかせが、こんなところまで来てしまったのだ。
「き、……求婚を断る際に、そういった嘘をよくついていたのです。……ですから、あの時もつい」
前世の記憶やら告白やらが重なっては困惑し、つい口から漏れ出た癖。
シャルナ様が聞いたら憤慨する話だろう。相手の誠実さを裏切るような嘘を吐くなんて、貴族令嬢失格だ。それをまさか第二王子にやらかしてしまうとは。
「そう、か。……求婚を」
殿下はただ一言、そう告げて黙りこくる。私も何を言えばいいのかわからず、唇を引き結んだ。
怒っている、のだろうか。
……そりゃそうだ、怒らないわけがない。
握った拳に、更にきつく力を込める。
やがて10秒か1分か、はたまたそれ以上の時間が経った頃、不意に言葉を発したのは殿下の方だった。
「……迷惑、だったか」
「え?」
主語がわからずちらと視線をやると、何とも言えぬ表情でこちらを見ていた殿下としっかり目が合ってしまった。
逸らすわけにもいかず、まるで石にでもなったかのようにぴしりと動きを止める。
「求婚を断るための嘘、なんだろ。 ……だったら、俺がおまえにああ言ったのも迷惑だったのか?」
……迷惑、だったか。
記憶を呼び起こす。あの時、この部屋で行われた告白は、私にとって迷惑なことだったのだろうか。
もし、嘘をつくなんて悪癖がなかったら、私はどう返していたのだろう。初対面なのに怖いですと一蹴していたのか、二つ返事で頷いていたのか、それとも。
――……それとも。
「そんなこと、ないです。……絶対に」
私は大きく、力強く首を横に振った。
うまい言い方が見つからない。けれどもきっと、迷惑なんかじゃなかった。
「あの時は、その……戸惑ってて。自分でもよくわからないうちに癖でついあんなこと言っちゃったんです」
「……」
「好きかどうかとかは、まだわかりませんけど……。でも嬉しかったのは間違いないです。じゃなきゃこんなところまで来てません、から」
真っ直ぐその顔を見据え、私は最後にもう一度「ごめんなさい」と謝罪した。何度謝っても足りない。
私と殿下は、そうやって暫しの間見つめ合った。
「……本当か?」
「本当です。今度こそ」
あんな嘘をついた以上、もう殿下に隠し事なんてできない。
お互いに目を逸らさずにいる、と。
「…………はああ……」
――殿下は突然、右手で顔を覆いながら、肺を空っぽにする勢いで大きく大きく息を吐いた。
前触れのない行動に、私の肩がびくりと跳ねる。
「え、……えっと、殿下……?」
すると殿下は指の隙間からちらと瞳だけを覗かせ――その顔を見て驚いた。彼の顔が、今まで見たことがないほど真っ赤に染まっていたからだ。
「……何でよりによって今なんだ」
「え?」
「おまえに嫌われてなかったってだけでこんだけ嬉しいのに、婚約者ってストッパーまでなくなったらもうどう我慢すりゃいいんだよ……」
溜息と共に吐き出されたのは、そんな不満ともとれる言葉で。
何を言うべきか、一瞬躊躇った。怒鳴られたなら相手の気が済むまで謝ればいいし、出て行けと言われたらそうすれば良かったのだが、そのどちらにも該当しない今の場合はどうすれば良いのだろうか。
それに、今の殿下は何というか、……とてもじゃないが、怒っているようには見えない。
とにかく「すみません」と呟くと、殿下はふるふると首を横に振った。もういいと、そう暗に伝えるように。
「ステイシー」
殿下は、顔を覆ったまま私の名を呼んだ。
私の「はい」という返事が、震えながらも確かに音になったその時。
「…………好きだ。結婚してくれ」
そう、二度目のプロポーズを口にした。
この間ほどの驚きはない。殿下は申し訳なくなるくらいにずっと好きだと言ってくださっていたし、何となく予想すらできていた。喪女とて慣れはする。
……慣れはする、けれど。
胸の高鳴りは、照れは、この間なんて比にならないほど強い。
心臓が破裂してしまうのではないかと思った。頭は酸欠の時のようにくらくらしているし、頬は痛くなるくらいに熱い。
「……その、今すぐに答えてくれとは言わねえ」
「は、……はい」
「嘘とか家とか関係無しに俺とのことを考えてほしいんだ。……嫌なら嫌と言ってくれて構わないから、頼む」
殿下はそう言って、長らく顔を隠していた右手を膝の上に置いた。
露わになった綺麗な顔は首から耳まで真っ赤だ。きっと、私も似たような顔をしているに違いない。
喉がきゅうと締まった。ひとつ頷くと、私はゆっくり視線を下に落とす。みっともない顔を見られたくなかったのだ。
――結婚。殿下と私が、結婚。
考えるだけで頭が沸騰しそうだった。本当にドキドキしたし、多分、嬉しかった。
……なのに即答できなかったのは、まだ私が彼に対して後ろめたさを感じているからで。
ステイシーは『魔性の伯爵令嬢』だ。
殿下はそれを知らないし、主人公のことも気にかかる。そんな中で私だけが良い思いをするわけにはいかない。
――それに、まだこれが恋かなんてわからないし。
私はそっと顔を上げた。顔から赤みが引いてきた殿下が、様子を伺うようにしてこちらを見ている。
短い深呼吸をひとつ。
考えなければならないことは山ほどあるが、その前に。
「じゃあ、その……そろそろケーキを食べないか」
まずは、殿下が勧めてくれたマロンクリームのケーキを頂くことから始めよう。




