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籠屋  作者: 天月ヒヨリ
二.花と貴方へ
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81.旅路―4

 ふわふわした心地だった。ぼんやりと目を開けると、見慣れた暗闇にああ夜か、と回らぬ思考であれこれ考えるよりも先に普段と違う空気の匂いに視線がそちらを向いた。

 杯がいる。輪郭も香りも杯のものだ。


「さかずきさま……」

「起きたか。角を曲がれば着く」

「……良い香りがします……」

「……そうか」


 普段よりもゆっくりと話すのでちらりと見れば、またうつらうつらと眠りに落ちそうになっている。

 宿に到着したので車を停め、何度か話しかけるとようやく顔がこちらを向いた。


「宵ノ進、起きているか? そのままなら部屋まで運ぶことになるのだが」

「……しきょうさま? ああ、おはようございます……お荷物、お持ちします……」


 眠たげに何度か瞬きをして、ゆっくりシートベルトを外すと杯が固まっている。


(あれ……?)「どうされました……? …………、わたくし、眠ってしまっていたのですね……参りましょう、どうも慣れないものですね」

「……いや。たまにはもてなされてのんびりしていろ」


 苦笑して車を降りた宵ノ進と杯は旅館で受付を済ませると二階へ案内される。てこてこと歩く若い女性の地味な着物におや、と内心で首をかしげるも、うちは皆派手なのかもしれない、と思うに留まった。籠屋は各自の好みに任せているので統一された衣装を見る度に新鮮な心地になるのである。

 部屋の障子の前で手短に説明をすると女性は一礼して戻って行った。

 

「わぁ、杯様金魚がおります」


 もてなしの茶菓子と抹茶の横に陣取る丸い金魚鉢の前でやんわり膝を折った宵ノ進が振り返ると、上着を掛けていた杯にぼっと顔を赤らめては慌てて近寄った。


「すみません杯様、上着はこちらへ――」

「ここは籠屋ではない。私もおまえも客だろう」

「慣れてしまったのかもしれませんね……」

「もてなされる側も慣れることだな」

「……」


 ほどなくして料理が運ばれてくると広いテーブルいっぱいに旅館自慢の品々が並び、魚をメインとした配膳に感心していると息が詰まりそうになった。

 美味しい。このお料理を向かいの杯も食べている。いつもは、いつもなら、わたくしの――。


(…………嘘)


「どうした、宵ノ進」

「いいえ……?」


 認めてほしかった。家族でありたかった。幼馴染と恩人の虎雄に、二人の家族に。

 いつから? いつから貪欲に求めてしまっていたのか、それだけで充分だったのに。


「杯様、……」


 訊いてはだめだ。見せてもいけない。知られてはいけない。こんなに醜い蟠りなど知られたら、貴方は二度と箸をつけてはくれない。そのような浅ましい気持ちで作ってきた訳ではない。けれど、気持ちの変化に聡いこのお医者様の琴線に、容易く躓いてしまうかもしれない。

 黙り込んだ宵ノ進に、貝の煮付けを口へ運びながら眺める杯は長い沈黙の後箸を置く。

 びくりとした宵ノ進が視線を上げ、金の眼と淡藤色の眼が合った。


「味付けは籠屋の方が好みだな。……口に合わなかったか?」

「いいえ……美味しいです、とても。食材を引き立てて、遊び心もあって。見事です」


 金魚鉢の中で悠長に泳ぐ琉金が水草に尾びれを絡ませていた。


「すまないとも思ったが、貸し切りにしてある。名湯らしいぞ」

「旅館を貸し切りに?! ……道理で他のお客様を見かけないと……先に入られては如何ですか?」

「いや、書くものがあるのでな。ゆっくりしてこい」


 




「はぁあ………………」


 誰もいないのをいいことに、宵ノ進は湯に浸かったまま膝を抱えて盛大にため息をついた。

 趣を凝らした広い露天風呂に朧月が浮いている。このまま顔を埋めて沈んでしまいたい。


「…………」


 ゆらゆら揺れる水面を、ただただ見つめる。

 いつの頃であったか、初めに怪我をした時脇腹に残る古傷を見られた。どうしても消えぬと伝えれば、そうか、とだけ。それを覚えていた。見られたくないのを知っていて、ただでさえ触られるのを嫌がるからとたくさん心を砕かせてしまった。


「これでは、杯様は、楽しくなど……」


 旅行なのに杯が休めないでどうする。だが客としていろと言う。あんまり寛いでいたら、それはそれで失礼な気がする。既に連れ回して居眠りしているが、呆れられてしまったらどうしよう。

 ぐるぐると回る思考を追いやって、少しぼんやりとした頭で朧月を見上げる。

 仕込みも帳簿も雑務もなく過ごすのは久しぶりな気がする。怪我で寝込んでいるわけでもない。誰かをもてなさずに過ごすなんて、いつぶりなのだろう。



 風呂から戻ると、杯が書き物をしていた。医療とは関係ない、小難しい書類である。


「良いお湯でしたよ、杯様。切り上げては如何ですか?」

「そうしようか。先に寝ていてもいいぞ」

「絶対に嫌です」

「髪は乾かさなかったのか?」

「わたくしあの温風の出る機械は苦手です」

「湯冷めしないようにしておけ」

「はい、いってらっしゃいませ、杯様」


 障子が閉められると水気の残る髪を放ったまま金魚鉢を眺めた。

 普段ならそのまま櫛を通して傷めるが、櫛を持つ気分にならない。乾けば傷めていない部分はさらさらと流れてしまう。けれど。


(杯様はどのような顔をするだろう)



 普段三つ編みにしている、左脇の髪を指へと絡めてすくと容易く倣う黄朽葉に緩く瞬いて、金魚鉢から視線を外すと立ち上がり、障子をそっと開いて出ていった。



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