棋譜並べ
第一章
『秒読みを始めます 30秒_ 40秒_ 』
対局時計の音が淡々と時を刻む。
『50秒_ 1 2 3 …7 8』
「…負けました。」
「はい、ありがとうございました。」
8まで詠まれてボクは時計を止めた。
いっそ、時間切れした方が楽だったかもしれない。
自分で自分の不甲斐なさを認めるというのが、こんなにも惨めで悔しいなんて。
「感想戦、どうしますか?多分、初心者…ですよね?やり方とか…。」
「あ…すいません。大丈夫です。ごめんなさい。」
ボクは挨拶もそこそこに、荷物を抱えて走り出した。
対戦相手の顔も、盤面も見れやしない。これ以上、ボクに現実を突きつけないで。
顔を真っ赤にして、涙を浮かばせたまま、ボクは大会会場から逃げ出した。
「こんなに難しかったんだ、将棋って。」
その日以来、ボクが将棋に触れることはなかった。
「ろ…!…きろ!」
とある高校、とある教室、とある放課後。
真っ白なノートをぐしゃぐしゃにしながら、教室の最後方で机に突っ伏す色白の少年と、彼を起こそうとして声を張り上げる、スポーツ刈りの色黒の少年。
クラスメイトたちが一斉に教室を出ていく中、一向に起きない彼にしびれを切らし、色黒の少年は一際大きな声を出した。
「起きろ!いつまで寝てんだよ!」
「んあっ?」
最後の一撃でようやく色白の少年は目を覚ました。
寝起きで状況が掴めなかったのか、しばらく周囲を見回していたが、先生どころかクラスメイトもいない空っぽの教室を見て全てを悟ったようだ。
「あ…ごめん。ありがとね、康介。」
「優人〜、どうしたんだよ?最近、ずっと授業寝てるし。夜ふかしでもしてんの?」
「ううん、そうじゃないんだけど。何かやる気でなくて。」
「ふーん。ま、何かあったら言えよ?せっかく高校も一緒のクラスになれたんだし。」
「アハハ、康介とは小学1年生からずっと同じクラスだもんね。」
色黒の少年、荒木康介と、色白の少年、西山優人。
見た目も性格も真反対な二人は、小学校からの幼馴染で、いつも一緒にいる。
「そういうこと。お、悪い。もう部活始まる時間だわ。」
「サッカー部だったよね。楽しい?」
「おう!やっぱ、小学校とか中学とはレベルが違うな、練習キツイし。でも、やりがいあるぜ。何かこう…上手くなってるって感じするんだよ。」
根っからのスポーツ少年である康介にとって、今の環境は性に合っているらしい。
「優人も部活入ったんだろ?あの…あれ…将棋!」
「あ、うん…。まあ…ね…。」
歯切れの悪い優人に、康介は怪訝な顔をした。
「何だよ、もぞもぞして。」
「あー、えーと…。4月とか5月の頃はね、将棋部行ってたんだけど、最近はもう行ってないんだ。」
「えー、幽霊部員ってやつ?もったいねえ。あそこは美人の先輩がいるのに。」
「九重先輩のこと?美人かどうかは分かんないけど…。」
「いやいや、あれはとんでもない美人だろ。凛としてクールっていうのか、大人の女性っていうのか、見た目からそういうのが出まくってるよ。」
「そうかなぁ…?まあ、カッコいい人だとは思うけど…。」
鼻息の若干荒い康介についていけない優人。
そんな彼を分かってないなぁという顔で見ていた康介であったが、ふと疑問に気づき、優人にぶつけた。
「ってか、何で幽霊になったんだよ。」
「うーん、何だか、ボクには合わなかったみたい。でも、辞めますって言う勇気もなくて、ズルズルと…。」
「それは良くないぞ。優人もモヤモヤするし、先輩だってモヤモヤするだろ。はっきり言った方が良いって。」
「でも、部室には先輩しかいないんだよ?元々、部員は先輩とボクだけだったんだし。そこに乗り込んで行って、辞めます!ってのは怖いよ…。」
「俺からすれば、美人のお姉さんと一緒にゲームできる環境を捨てようとしてるお前の方が怖えよ。」
優人を呆れた顔で見つめる康介。
どこまでもヘタレで、苛立ちさえも感じさせる子供っぽさ。
しかし、それでも親友をやめないのが、数ある康介のいいところの1つである。
「とにかく、今日中に言ってこいって。一緒には行けないけど、大丈夫、何かあったら守ってやるから。」
「えぇ…。」
「約束だぞ!じゃあな!やっべぇ、マジで遅れる…。」
優人が返事をする間もなく、康介は言うだけ言って教室から走り去っていった。
一方的な約束に戸惑う優人であったが。
「しょうがない、行こうかな…。」
どこまでも素直なところが、数ある優人のいいところの1つであった。
たった1人の親友との約束を守るべく、彼は教室を去った。
第二章
「うう…緊張するなぁ…。」
ボクは、康介との約束を果たすため、将棋部の部室の前にいる。
4月の頃は放課後に毎日通っていたこの部室も、今はとても入りづらい。
あの頃は部活が楽しくてワクワクしてたはずなのに、今はもう、扉を開ける勇気もなくなっちゃったみたいだ。
扉に手もかけず、ひたすらウロウロしているうちに、教室を出たときのボクの決心はすっかり揺らいでしまった。
「もう、今日はムリ…帰ろ…。」
「何をしている、少年!」
「ひゃあっ!?」
ボクは突然の死角からの一喝に、尻餅をついた。
ボクは立ち上がることもできず、挙動不審な動きを見られた恥ずかしさと、ビックリして腰が抜けた情けなさで、顔を真っ赤にして固まってしまった。
そんなボクを見下ろす背後の誰かは、その場からちっとも動こうとしない。こんな姿を見てないで、早くどっかに行ってほしいのに。
「なぜ部室の前で立ち止まっているんだ?西山少年。」
背中越しの声がボクに追い打ちをかけてくる。
女性の声。ボクの名前を知ってる、しかも、聞き覚えがある声だった。
ボクは彼女が誰なのかを悟った。
「おい、いつまで床に座っているんだ。ズボンが汚れるだろう。ほら、立ちたまえ。」
件の女性は、ボクの脇から腕を差し込み、ボクを立たせようとしてきた。
さすがにそこまでしてもらうわけにはいかないので、ボクはすぐに起立し、彼女の方に振り返った。
「おっと…大丈夫か?久しいな、西山少年。」
「お久しぶりです…。九重先輩。」
彼女こそが将棋部の主、九重 葵先輩である。
黒髪ロングストレートに真っ白な肌。康介曰く綺麗系美人…らしい、よく分かんないけど。でも、クールで堂々としてるっていうのは合ってると思う。
ボクよりもよっぽど男らしいもの。
「キミは大会の後、全く姿を見せなくなったからな。何事かと心配していたんだ。来てくれて嬉しいよ。さあ、部室に入ろう。」
「あ、えっと…。」
「遠慮などするな、さあ!」
「あっ、えっ!先輩!?」
先輩は、スタスタと部室に入ってしまう。
ボクも、意を決して中に飛び込んだ。
改めて部室を眺めると、毎日部室に来ていたあの頃と何も変わっていない。
部室は6畳間のフローリング仕様。部屋の中央を陣取る大きな丸机に椅子が2つ。部屋の奥には学校の中庭を一望できる大きな窓がある。
そして部屋の右側に配置された棚には、トロフィーや賞状が所狭しと飾られている。これらは全て、先輩が高校3年間で築き上げてきた栄光の軌跡である。先輩は入学以来、全ての高校将棋大会女子の部の県代表になっている。ボクが負けて逃げ帰ったあの日も、別の部屋で女子の部が行われており、またしても先輩は県代表を獲得したらしい。
そのきらびやかさに、ボクは少し憂鬱な気分になった。
「ふぅ、さてと。」
そんなボクを尻目に、先輩は日当たりのいい奥の席に座り、棚から将棋盤と駒を出して並べた。そして、スマホを眺めながら駒を動かし始めた。
ボクはその向かいの席に座り、先輩の隙をうかがうかのごとくじっと眺める。
眼の前で先輩がやっているこれこそ、先輩のルーティーン、棋譜並べである。
棋譜並べとは、プロの対局などに沿って駒を動かし、自分なりに手の意味を考えて上手い人の指し方を吸収する練習法である。
ボクが初めて部室に来た日も、先輩は同じ席に座って、棋譜並べをしていた。
細いしなやかな指で力強く駒を打ち付ける姿は、不思議なカッコよさがあった。康介が言ってたみたいな、顔が綺麗とか整ってるとかはどうでもよくって、ピリッとしたその雰囲気をすごくいいと思ったんだ。
思えば、ボクはそうした先輩の姿を見て、入部を決めたのかもしれない。
でも、その先輩に向かって、今からボクは別れを告げなきゃいけないんだ。
そんな決心を知ってか知らずか、先輩は駒を動かす手を止め、ボクに言葉を投げかけた。
「おっと、すまない。つい癖でね、せっかく来てくれたキミを放ったらかしてしまった。そうだな、もう7月だが、学校には慣れたか?」
「あ、はい。それであの…」
「そうか、高校に入って勉強なども忙しくなったろうからな。部活に手が回らないのも分かるが…、両立できるぐらい余裕を持てるといいと思う。」
「あ、はい…。」
「それで、これからの将棋部としての予定だが…」
まずい。このままだと、有耶無耶になっちゃう。
ここまで来たら後には引き返せない。言わなきゃ。
ボクは意を決して本題を切り出した。
「あ、あの!」
「ん?」
「ボク、部活やめます!短い間でしたけど、今までお世話に…」
「断る。そんなことより、大会はしばらくないから…。」
「ええっ!?」
先輩は、ボクの一世一代の告白を一瞬で捻じ伏せてしまった。
ボクが感じていた気まずさとか、先輩に怒られるかもしれないとか思っていたあの緊張感とか、全部をぐしゃっとまとめて放り投げられたみたいだ。
「どうした、何か問題でもあるのか?」
先輩はキョトンとしている。
一瞬、怒られなくてホッとしたけど、そういうことじゃない。
予想外過ぎて呆気にとられていたけど、そういうことじゃないんだ。
ボクはそう自分に言い聞かせて、気を取り直して先輩に立ち向かった。
「え、あの、断るとは…?」
「そのままの意味だが。退部など認めない、と言ったほうがはっきりしていいか?」
「そんな無茶苦茶な…。」
「では問おう。少年はなぜ辞めたいんだ?」
「え?いやぁ、将棋やってみましたけど、あんまりボクには合わなかったかなぁって…。」
「嘘だな。」
「へ?」
「キミが入部してすぐの頃、キミの目はとても輝いていたぞ。ルール1つ覚えるのも楽しそうだった。将棋が性に合わない人間に、あの目はできるはずもない。」
「本当の理由を当ててやろう。大会で負けたのが悔しかった、これ以上負けるのがイヤになった。違うか?」
ぐうの音も出なかった。
本心を完全に見透かされている。
「大会で当たった相手は経験者、キミは初心者。力の差があって当たり前じゃないか。そこからいかに成長するかが大事なんじゃないのか?」
正論だった。だけど、今のボクにそれは受け入れられない。
「先輩の言ってることは正しいです。でも、それは先輩が強いから言えるんです。」
「何?」
先輩が少し苛立っているのが声色や表情から分かる。
でも、ボクは止まれなかった。どうせ最後だから、言いたいこと全部言ってやれって思ったからだ。
ボクはありのままの本心を伝えた。
「先輩はいろんな大会で入賞できるぐらい強いです。だから、負けても頑張ればまた勝てるようになるって思えるんです。でも、ボクはまだ誰にも勝ったことない。そんな人間が努力しても、報われるかなんて分からないじゃないですか。ずっと悔しい思いをしたまま終わるかもしれないんですよ。」
先輩は黙ってボクの話を聞いていた。その顔は決して緩むことなく、冷静に怒りを抑えているようだった。しかしボクは、先輩が何も言わないのをいいことに、最後のトリガーを引いてしまった。
「強い先輩には、弱いボクの気持ちなんか分からないですよ。」
その言葉を聞くやいなや、先輩は勢いよく立ち上がった。
その時の表情たるや、怒りの感情を全て垂れ流した、般若のごとしであった。
「…!!もう1度…」
「へ?」
「もう1度言ってみろ、貴様ァ!!!!」
「うわああッ!?」
あまりの恐怖に、ボクは椅子から転げ落ちた。
先ほどまでの先輩とはまるで別人。
先輩は怒りのままに椅子を蹴り飛ばし、またしても腰の抜けたボクの顔面スレスレに詰め寄ってきた。
「おい、荷物をまとめろ。行くぞ。」
「へ?どこへ?」
「早くしろ!」
「はッ、はいぃっ!」
先輩の迫力に押され、急いでかばんを背負う。
先輩はボクの方など見向きもせず、スタスタと歩き始めた。
ボクが逃げないのを見越しているようだったが、悲しいことにそれは正解だった。何が気に障ったのか分からないけど、これ以上怒らせたら終わりだということは分かっている。
とんでもなく早足の先輩を見失わないように、ボクは必死に歩き続けた。
第三章
先輩は歩き続けた。
既に校舎を出て、学校の敷地を出て、最寄りの駅も越えた。
一体、先輩はどこに向かっているんだろう。
「あの…。」
「もうすぐ着く。」
「はい…。」
先輩は何でもお見通しのようだ。
余計な質問はやめて、付いていくことに徹しよう。
そのまま無言で歩き続けて5分ぐらい。
とあるビルの前でようやく先輩は止まった。
「ここの2階だ。」
「はぁ。」
先輩は臆することなく階段を上がっていく。
ボクも恐る恐る後をついていくと、1枚の扉が見えてきた。
そこには、『OPEN』と書かれたドアプレートがかかっていた。
先輩はそれを確認し、中に入っていく。
ボクも従者のごとく後に続くと、中には異様な光景が広がっていた。
「うーん…。こりゃいかんな…。」
「ここで歩が厳しいですか。」
「ここで一手負けてるなら、もっと前にこうした方がいいんじゃない?」
中では、10人ぐらいのおじさんたちが1つの長机を取り囲んで何かを話していた。
よく見ると、その輪の中心には、おじいちゃんと小学生くらいの男の子がいた。2人は長机を挟んで向き合っており、表情は真剣そのものだった。
まるで全財産をかけたギャンブルでもやっているような、恐ろしいほどの熱気と殺気だった。
2人をそこまでさせたものは、机の上でみんなの視線を独り占めにしていた。ボクの視線もそこに吸い寄せられる。
それを見たときボクは、ここがどういう場所かを悟った。
「先輩、ここって…。」
「そうだ。ここは…。」
「タナカ将棋倶楽部へいらっしゃ〜い。」
「うえっ!?誰?」
突然の声に振り向くと、謎の男性が立っていた。
いつの間に背後を取られていたんだろう、全く気づかなかった。
先輩はびっくりしなかったようだが、何だか呆れた表情をしていた。
「田中さんか。気配もなく後ろに立つのはやめてくれ、と何度も言っているはずだが?」
「ハハハ、別にわざとやっているわけじゃないんだけどね?」
田中さん、と言うらしい男性は、先輩の圧を前におどけてみせた。
それを見た先輩は、完全に無表情になり、田中さんの目をじっと見つめた。
「怒んないでよ、葵ちゃ〜ん。もう慣れっこでしょ?」
「高校生2人分だ。私が払うから、とっとと領収書を持ってこい。」
「はいはい、2人で1000円だからそこ置いといて。」
田中さんは入り口横のカウンターに入り、領収書を書き始めた。
「あ、ボクも払います。」
「いいんだ、私が無理に連れてきたんだから。さっきは脅すような真似をしてすまなかった。私の悪い癖だ、すぐに頭に血が上ってしまう。」
先輩は深々と頭を下げた。
よかった、もう怒ってないみたいだ。
「やっぱり、ここって将棋道場…ですよね。」
「そうだ。私が小学生の頃から通っている。田中さんとも長い付き合いだ、残念なことに。」
先輩は顔を上げるやいなや、田中さんを睨みつけた。
田中さんはへらへら笑っている。
2人の間に何かあったのかもしれないけど、それを聞くのは藪蛇だと思った。
「あの頃は俺も若かったねぇ。25歳でここをオープンして、お客さんも全然いなくてさ。それこそ、葵ちゃんと2人きりのときが多かったよね。」
「老人の昔話は嫌われるぞ。さっさとそれをよこせ。」
「老人って…、俺まだ30代だよ…?」
先輩は領収書をもぎ取るようにして受け取り、かばんにしまった。
先輩のクリティカルヒットをもらった田中さんは、カウンターにもたれかかってうじうじし始めた。
先輩はそんな田中さんを無視して、ボクに向きなおった。
「さて、キミの疑問を当ててあげようか。」
「え?」
「なぜこんなところに連れてこられたのか、自分はもう辞めるのに、だろう?」
またしても図星だった。先輩が超能力者なのか、それともボクが分かりやすすぎるのか。
「答えは簡単だよ。キミに、私が将棋を指すところを見てほしかったんだ。キミにはルールや戦法を教えただけで、対局もしたことなかったしね。」
確かに、先輩とは1度も対局したことがなかった。先輩の棋譜並べを邪魔するのも悪かったし、自分のレベルが低すぎて迷惑なんじゃないかって思って何となく誘いを断ってた。
「キミ自身の目で、何かを感じ取ってほしいんだ。その上で、部活を辞めるかどうか考えてほしいな。」
そう言うと先輩は、暇そうにしているお客さんに声をかけて駒を並べ始めた。
「お願いします。」
堂々たる挨拶を皮切りに対局が始まった。
鋭い眼光で盤面を見つめ、力強い手付きで駒を動かす。
獣のように獰猛なオーラを放ちながら、先輩は勝負にのめり込んでいった。
「すごい迫力でしょ。男の子顔負けだよね、葵ちゃんは。」
うじうじから立ち直った田中さんが話しかけてきた。
「自己紹介がまだだったね。ここ、タナカ将棋倶楽部の店長やってます、田中宏紀って言います。よろしく。」
「西山優人です。先輩と同じ高校の1年です。」
「さっきの話聞いてると、西山くんは葵ちゃんの対局してるとこ見るの初めてなんだよね。どう思った?」
田中さんは、対局姿を眺められる位置に椅子を引っ張り出してきて座った。
ボクもそれに合わせて椅子を借りて座る。
「なんか、すごいです。ここに来てる他の人もそうですけど、目が変わりますね。」
「昔からそうなんだよ、いつだって真剣でさ。それに、ずっと将棋に一途だ。他の子たちがゲームとかスポーツやるって道場に来なくなっても、葵ちゃんだけはずっと通ってくれてるんだよね。」
「それが、先輩の強さの秘訣なんですね。それだけの努力をしたからこそ、大会で優勝できるくらい強くなれた。」
「ん?うーん…。葵ちゃんから何も聞いてない?」
あれ?田中さんの歯切れがあからさまに悪くなった。
何かおかしなことを言ったかな?
それに、何も聞いてないってどういう意味だろう?
ボクが質問の意味をはかりかねていると、田中さんはそれを答えと受け取ったようだった。
「そっか、2人で将棋指したことないのか。まあ、本人の口から言い出すまでは俺は黙っておくよ。多分、すぐに分かるしね。」
田中さんは1人で納得して意味深な言葉を残し、また対局を眺め始めた。
田中さんに翻弄されまくったボクは、ただただ戸惑うばかりだった。
そしてボクは、考えるのをやめ、先輩を黙って見守ることにした。
盤面が見えないから対局がどうなっているかは分からないけど、先輩のことだから多分勝つんだろうな、と思っていたその時、決着の瞬間が訪れた。
「負けました!」
「えっ…?」
はっきりとした声で負けを認めたのは、何と先輩の方だった。
その表情には曇りがない。決して手を抜いたり、ふざけたりしていたわけでもないことは明らかだが、それでも先輩は負けたんだ。
「ありがとうございました。」
先輩は感謝の言葉を対戦相手に述べると、次の相手を探しに行った。
ボクは信じられない思いであったが、すぐに考えを改めた。
さっきの相手が特別強かったんだと。先輩だって誰にでも勝てるわけじゃないんだろうと。何なら人間味があっていいじゃないかとまで思った。
だが、そんな楽観的な考えは目の前の惨状によって打ち砕かれた。
「負けました。」
「参りました。」
「あっ、負けました…。」
先輩はお客さん10人に手当り次第に挑戦を申し込み、そして全敗した。
その中には、ボクたちよりうんと幼い小学生や幼稚園児もいた。
死闘を終えた先輩は顔が赤く、息も荒かった。
「嘘…。」
「うーん…。今日も厳しいかぁ。」
「今日も?ってことは、先輩はいつも…。」
「その通りだ。」
いつの間にか先輩がボクと田中さんににじり寄ってきていた。
「私はここに通い始めて10年になるが、まだ誰にも勝ったことがない。それどころか、今まで指してきた全ての対局で負けている。」
衝撃のカミングアウト。
さっきの結果を見るに、嘘はついていないと思う。
しかし、だとすれば1つ疑問が生まれる。
「でも、先輩は大会で優勝してるはずじゃ。」
そう、先輩は高校生の大会で代表になっているのだ。
部室にトロフィーだっていくつもある。
アレは嘘でも幻覚でもない、確かに手に取れるものだ。
「確かに、県大会女子の部で優勝していることは間違いない。だが、あんなものはまやかしの経歴だよ。中身がまるでない、ハリボテさ。」
先輩は自嘲気味に話す。
「1人なんだよ、出場者が。この県内で、将棋を指している女子高生は私しかいないんだ。だから、私みたいな雑魚でも優勝できる。」
「そんな…。」
知らなかった。
確かに、ずっと優勝し続けているなんておかしいとは思ったけど、それは先輩が強すぎるからだとばかり。
ボクは、自分の中の先輩像が崩れていったように感じた。
「そういうことだから、全国大会でもいつも全敗で予選落ちしてるんだ。辛いものだよ、自分がボーナスステージとして扱われるのは。」
先輩は少し涙ぐんでいる。
いつも逃げてきたボクには想像もできないくらいの悔しさだと思う。
その悔しさに先輩は1人で立ち向かってきたんだ。
「キミは、私を強いと言ったが…見ての通り、こんなものなんだよ。それを分かってほしかった。経歴に騙されずに、私自身を見てほしかったんだ。その上で、キミは何を思ったか、聞かせてもらってもいいかな。失望したでも、ダサいと思ったでも何でもいい、正直なところを話してくれないか?」
先輩はボクに優しく微笑みかけた。
ボクは、先輩の覚悟に応える責任があると思った。
「最初は、先輩がめちゃくちゃ強いと思ってたので、とてもビックリしました。まさか、先輩が弱いなんて、考えもしなかったので。」
ボクは紛れもない本心を語り始めた。
「その上で言わせてください。やっぱり、先輩は強いですよ。だって、ずっと負け続けて、それでも挑戦し続けるなんて、ボクには出来ません。それに、ボクだったら自分が弱いなんて絶対に誰にも言いません。なのに、先輩はボクにそれを見せてくれた。すごい勇気だと思います。」
興奮のあまり、最後は早口になってしまったが、ボクの本音を伝えた。
自分の弱さを見せることがどんなに勇気のいることか、経験のないボクにだって分かる。
バカにされるんじゃないか、弱みを握られるんじゃないかって、デメリットは数えだしたらきりがない。
それでも先輩は、ボクにそれを曝け出してくれた。
これをボクなりに受け止めなくちゃいけない。
「先輩はボクの気持ちが分からないって言って、すいませんでした。」
ボクは地面に打ち付ける勢いで頭を下げた。
しばしの沈黙の後、先輩のクスクス笑う声が聞こえた。
「いいよ、私も必死だったから。キミが部活を辞めると言い出したときは、本当に焦ったよ。思わず反射神経で断るって言うぐらいにはね。」
「え、ボクなんかが辞めても別に…。あっ。」
ボクは初心者だし、部の役に立っているわけでもない。
でも、ボクには心当たりがあった。
「私はもう3年生だから。今度の秋にある大会で部活は引退だし、来年の3月には卒業だ。だから、キミにはいてもらわないと困るんだ。」
将棋部員はボクと先輩の2人だけ。
先輩が卒業してボクが辞めてしまえば、部員は0。
当然ながら廃部になってしまう。
先輩の目は真剣だ。
でも、ボクは…。
「すいません、少し考えさせてください…。」
またしても、ボクは逃げた。
ここまでしてもらったのに、また逃げた。
「そうか、まあすぐに辞めないだけマシと思うことにするよ。」
「すいません…。」
「謝ることはないさ。私のワガママに付き合わせて悪いね。」
先輩は笑っているが、どこか悲しそうだった。
「今日はもう帰るとするよ。キミも自由にしたらいい。それでは、また。」
そう言って、先輩は店を後にした。
ボクは近くの椅子に座り込んだ。
頭がグチャグチャで疲れたし、このモヤモヤを抱えたまま1人で帰るのは無理だと思ったからだ。
そんなボクに、田中さんが話しかけてきた。
「ボク、部活辞めません、先輩の後を守ります!だと思ったんだけどねぇ。」
2割弱ぐらいのボクのモノマネを交えてからかってくる田中さん。
今日会ったばかりだけど、イラッとする人だなと思ってしまった。
「何だか、急に重大な使命をもらった気がして…。わけ分かんなくなっちゃって…。」
「うーん、プレッシャーにやられちゃったってところか。ま、若い時はしょうがないね。」
うんうんとうなづく田中さん。
この人なりにボクを励まそうとしてくれているのだろうか。
「キミは、高校から将棋を始めたのかな?」
「はい。」
「何で?」
「何か新しいことを、今までやったことのない物を始めて、自分を変えたかったのかもしれないです。」
ボクは、中学まで何もしてこなかった。
自分は凡人で、自分から何かアクションを起こさないといけないと思いつつも、きっかけを見失って、いや、あえて見過ごしてきた。
そんな自分を変えたかったんだと思う。
「そっかぁ、キミも意外と勇気あるんだね。」
「む…、意外とは余計だと思います。間違ってはないですけど…。」
この人はどこか人を苛立たせる。
先輩がキツく当たるのも何だか分かる気がする。
「アハハ、ごめんね、怒った?俺の悪い癖なんだよ、人をすぐに怒らせちゃう。葵ちゃんにもよく注意されるんだけどね、無意識だからしょうがないんだよ。」
田中さんは無邪気に笑う。
無意識なわけはないと思うのだが、悪気はなさそうに見える。
不思議な人だ。
「ところでさ、葵ちゃんのことどう思ってるの?」
「はい?いや、すごいストイックだなぁと。」
「いやいや、そうじゃなくてよ。あの子、男っぽいけど見た目は美人さんでしょ?」
まさかこの人も康介と同じことを言うとは。
ボクは若干の呆れとともに注意した。
「そんなこと言ってると、また先輩に怒られますよ。今日もお会計の時に睨まれてたじゃないですか。」
「ああ、あれね…。葵ちゃんも根に持つタイプだからねぇ。」
田中さんは苦笑いしている。
あの時は先輩がいて聞けなかったが、田中さんになら聞いても良さそうだ。
田中さん、おしゃべりっぽいし。
「一体、2人の間に何があったんですか?」
「あー、本人には内緒にしといてね?葵ちゃん、将棋で1回も勝ったことないって言ってたけど、微妙に違うんだよね。実は、1回だけ俺に勝ったことあるんだ。」
今日は一体、何回、衝撃の事実と出会うのか。
衝撃を衝撃で塗り替えるのは頭が混乱するからやめてほしい。
田中さんの言ったことが事実なら、先輩は嘘をついてるっていうこと?
何のために?
「葵ちゃんがここに来始めて2年位してからかなぁ。あまりにも勝てないっていうんで、俺と練習することになったんだ。俺は、少しでも自信をつけさせてあげたいと思って、手加減したんだ。うまく隠してたつもりだったんだけど、バレててね。俺が投了して、強いねって褒めたら、葵ちゃんどうしたと思う?」
田中さんは自分の頬を指差して苦笑した。
「思いっきりビンタされた。何で手加減するんだ、そんなことされて勝っても嬉しくないって泣いて怒られたよ。だから、葵ちゃんの中ではあの勝ちは無かったことになってるし、未だに恨まれてもいる。」
先輩にそんな過去が、と思ったが、納得もできた。
あれだけ将棋に真面目な先輩なら、接待されるなんて耐えられないだろう。
「俺が浅はかだったなぁ、と今は思うよ。やっぱり、将棋の醍醐味って自分の頭で必死に考えて勝利を掴み取ることだと思うしね。約束された勝利なんか面白くもなんともない。」
田中さんは、近くにあった駒を持ち、パチンと打ち付けた。
まるで確かめるみたいに、何回も打ち付けた。
「それ以降、あの子はまた負け続けた。今でも負け続けてる。でも、一生勝てないなんて誰が決めた?勝利まであと何センチかなんて、あの子自身にも分からないのに?ってわけで、俺はあの子を見守ることに決めたんだ。あの子が、ブレずに進んでいるうちは。」
田中さんは、話し終わると駒を箱に片付けた。
よく見ると、周囲にはお客さんもおらず、窓の外も暗くなりかけていた。
「ごめんごめん、余計なこと喋ってたら遅くなっちゃった。もうそろそろ店閉めるから、忘れ物とかないようにね。」
「あ、今日はありがとうございました。」
「うん、葵ちゃんと仲良くね。」
「いやっ…!そういう仲では…」
「ん?ああ、部活仲間としてだよ?」
「えっ!?」
「あれぇ?何を勘違いしたのかなぁ?」
田中さんは、おもちゃを見つけたみたいにニヤニヤしている。
最後の最後で痛恨のミスをおかしてしまった。
「ハハハ、冗談。気をつけて帰りなね。」
「はい…。」
ボクは最後まで田中さんに翻弄されっぱなしだった。
その晩、家に帰ったボクは、今日1日の出来事を整理していた。
あまりにも濃い1日に、結局は何があったか忘れそうになりながらも、ボクは1つの決意を固めた。
第四章
「よー、優人。今日は起きてたんだな。」
翌日の放課後、教室で康介が話しかけてきた。
「うん。いつまでもダラダラしてられないしね。」
普段は寝てばかりの授業も、今日は何とか起きていられた。
「結局、部活は辞められたのか?」
「ううん。」
「何だよ、先輩に言いくるめられたのか?だったら俺がガツンと…。」
「ううん、そうじゃないんだ。実は…。」
ボクは、昨日の冒険を語ってみせた。
もちろん、先輩が弱いとか、田中さんから聞いたエピソードとかは隠して。
その上で、ボクは自分の決意を話した。
「ふーん、まあ、優人が自分で決めたのならそれでいいけど。」
あまりにも急な話に、康介も不思議に思ったようだが、納得はしてくれたようだ。
「じゃあ、ボク、部活行ってくるね。」
「おう、頑張れ!」
康介と笑顔で別れ、ボクは部室に向かって早足で進み始めた。
そして部室の前に立つと、躊躇なくドアを開けた。
「先輩!」
そこには予想通り、いつものルーティーンをこなす先輩の姿が。
「おや、自分から扉を開けてくれたね。どうしたんだい?」
ボクは先輩の目の前までツカツカと歩を進め、ボクらしくない毅然とした態度で言い放った。
「先輩、ボク、部活辞めません。」
これが、昨日1日考えて出した結論である。
それを聞いた先輩は一瞬、ポカンとした顔をしていたが、すぐに気を取り直して質問してきた。
「いいのか?引き止めておいて何だが、本当にいいんだな!?」
先輩は溢れ出る笑みを抑えきれていない。
きっと、心の底から嬉しいんだ。
「はい。昨日で、先輩のイメージとか色々変わりました。ボク自身も変わらないと、いや、変わりたいです。」
いつまでも弱いままでいるわけにはいかない。
先輩だって少しずつ前に進んでいるんだから。
何度敗北しても、その度に立ち上がっているんだから。
1度の敗北しか経験していないボクが、諦めていいわけがない。
昨日という日がなかったら、ここまでは思えていなかっただろうけど。
「よく言ってくれた。本当にありがとう。情けない姿を見せた甲斐があったというものだよ。」
「それなんですけど…。先輩、ボクと対局してくれませんか?」
「構わんが…。フフッ、何だ?昨日のアレを見て勝てると思ったか?」
先輩は自虐めいた質問を投げかける。
「そういうわけではないんですけど…。ボクは初心者だし。でも、先輩が引退する前に1度はやっておきたくて。」
「分かった。やろう。」
先輩は、棋譜並べの途中だった駒を初期配置に戻した。
ボクは、先輩と向かい側の席に座り、制服の袖をまくった。
「お願いします。」
ボクと先輩の、初めての対局が幕を開けた。
死闘を繰り広げること30分。
終局のときは訪れた。
「…負けました。」
「あっ…ありがとうございました。」
やはり、先輩は敗北の呪縛から逃れられなかった。
ボク自身にも勝った実感はないし、どうしよう、何を話そうかとオロオロしていると、先輩が清々しい顔で盤面を指差した。
「この手がまずかったか。キミはどう思う?」
あまりにも自然に検討を開始した先輩に、ボクは面食らった。
この人は、もうすでに次を見据えているんだ。
「勝ったことを気に病む必要はないし、遠慮する必要もない。将棋に勝敗はつきものだからな。さあ、キミの忌憚なき意見を教えてくれ。」
「えーと、じゃあ…。」
ようやく、ボクは自分の読みを披露する決心がついた。
相手へのリスペクトを忘れずに、自分も次に活かせるように。
そして感想戦が終わると、また対局が始まり、またボクが勝つ。
それを5局ほど繰り返した後、先輩が中断を申し出た。
「すまんね、私も受験生だからな。学生の本分は勉強ってやつだよ。」
そう言って、先輩は問題集を開いて解き始めた。
「次の大会は9月だからな。最後ぐらいは勝って代表になりたい。それまでは両方を頑張ると決めてるんだ。」
先輩にとって最後の大会。
それが終わると、先輩は引退だ。
ボクとの対局が練習になるかは怪しいけど、何とか優勝できるように、お手伝いしたい。
そのためには、ボクもボクで強くならないといけない。
ボクは、先輩の見様見真似で棋譜並べをやってみた。
「フフッ、同じだ。」
問題を1つ解き終わった先輩が笑う。
同じというのは、どういう意味だろう。
ボクが怪訝な顔をしていると、先輩が思い出話を語ってくれた。
「私が1年生でこの部活に入った時にはね、部員が3年生の先輩1人しかいなかったんだよ。それで、対局が終わるといつも勉強してて、その間、仕方ないから私は棋譜並べをやり始めて…。懐かしいな。」
そんな時代があったとは知らなかった。
先輩の棋譜並べのルーツもそこにあったとは。
歴史は繰り返すとはこういうことかもしれない。
「キミに同じ思いをさせるのは申し訳ないが、少しだけ我慢してもらえると助かる。これを解き終わったらまたやろう。」
そして、また先輩は問題に没頭し始めた。
ボクも棋譜並べに没頭した。
やがて日が落ち、解散の流れになった。
「では、また明日。」
「はい、さようなら。」
この日を境に、ボクたちは毎日将棋を指した。
平日は部室で、土日はタナカ将棋倶楽部で。
結果はいつもボクが勝ち、先輩の負けだった。
そんな日がずっと続いた。
そして、気づけば大会の前日まで来ていた。
「ついに、明日ですね。」
「そうだな、長かったような短かったような…。良い部活人生だったとは思うよ。」
今日も今日とて、ボクたちは部室で将棋を指していた。
結果は変わらない。
もはやここまで含めてルーティーンなのではと思う。
「さて、明日に備えて、今日は早く帰って寝よう。最後の大会だし、気合を入れていかねばな。」
「…はい。」
「どうした、緊張しているのか?大丈夫だ、キミは確実に強くなっているよ。もっとも、いつもキミに負かされている私が言うことではないかな。」
「そうですね。」
「フッ、随分とハッキリ言うようになったものだ。それではな、明日、遅刻しないように。」
先輩は一足先に部室を後にした。
ボクは、少し心配になった。
でも、それはボクにはどうすることも出来ない問題だった。
ボクは無理矢理に自分を納得させ、家路についた。
第五章
翌日、大会会場。
前の大会とは会場が違ったため、少し迷った。
会場の入口で先輩が待っている。
「やあ、おはよう。間に合って良かったな。」
「おはようございます。今日は、会場一緒なんですか?」
「ああ、ここは広いからな。それと、さっさと受付をしたほうがいいぞ。ギリギリになると迷惑だからな。」
「はい。行ってきます。」
ボクは先輩と別れ、受付に向かった。
参加費を払い、名前を登録したちょうどその時、女子の参加名簿が見えた。
その時、ボクは自分の心配が的中したことを悟った。
ボクはそれを先輩に伝えるか迷ったが、
「これより、開会式を始めます。選手の皆様は着席してください。」
会場内にアナウンスが流れる。
ボクは近くの席に座った。
審判長が挨拶をしているが、そんなの誰も聞いていない。
みんな、これからの戦いに真剣なのだ。
そんな空気を察したのか、審判長は早めに挨拶を切り上げ、大会システムの説明に移った。
一通りの説明が終わると、参加者は各々、指定された対局席に向かった。
ボクもその流れに乗って移動するが、先輩は1人だけ審判長に呼び出されていた。
恐らく、現実を突きつけられているのだと思う。
またしても、女子の参加者は先輩1人だということを。
「参加者の皆さん、準備はよろしいでしょうか。」
またしてもアナウンスが流れる。
ボクは対戦相手の方に向きながら、頭の中では先輩のことを考えていた。
この参加者という言葉に、先輩は含まれているのか?
いもしない対戦相手のために、先輩はこれ以上何をしろというのか?
誰も悪くない、これは仕方ないことだと言い聞かせても、怒りに似た感情がこみ上げてくる。
「それでは、対局を始めてください。」
「お願いします…!」
ボクは、目の前の勝負に勝たなければと思った。
そうでなければ、先輩は安心して引退できないと。
ボクは持ちうる限りの全てをぶつけようと、頭をフル回転させた。
「負けました…。」
「ありがとうございました。」
思いを込めた一局の結果は、無情にも敗北だった。
将棋の世界に運はない。
神様の入る余地もなく、あるのは実力に支配された81マスのみ。
その狭い世界で、ボクは命を落とした。
悔しかった。
しかし、ボクはもうあの時のボクではない。
「この手がダメでしたか?」
自ら沈黙を破る。
感想戦が始まる。
ボクはもう逃げない。
「うーん、そうですね…。」
対戦相手もそれに応える。
それが将棋だ。
コミュニケーションなんだ。
「なるほど、ありがとうございました。」
「ありがとうございました。」
一通りの検討を終え、ボクは席を離れる。
先輩は、会場の片隅で対局を見守っていた。
ボクの接近に気づくと、小さく手を振った。
「すいません、負けてしまいました。」
「見てたから知ってる。でも、頑張ったな。」
先輩はボクの頭を撫でてくれた。
高校生にもなって気恥ずかしかったけど、今のボクには1番効いた。
「私は、また代表だったよ。女子の将棋人口は少ないから仕方ない。引退は先延ばしになったけど、実感としてはあまり変わらんな。」
全国の舞台が厳しいことは何となく想像がつく。
先輩が勝てる可能性はほぼない…と思う。
でも、先輩は諦めていなかった。
「今度こそ、本当に最後だ。今までバカにしてきた奴らに目にもの見せてやる。裏で勝ち確だって笑ってたの知ってるんだからな…!」
相当怒っている。
全国の舞台裏でそんなことが行われていたとは。
女子って怖い…。
「おっと、すまないね。また頭に血が上るところだった。さあ、帰ろうか。」
「はい。」
先輩とボクは、他愛もない話をしながら帰った。
最終章
結局、先輩は全国大会でも勝てなかった。
でも、本人曰く、一泡吹かせてやることには成功したらしい。
今までよりも決着を長引かせられたらしく、対戦相手が警戒し始めたのが分かったという。
この話をしている時の先輩は、普段の先輩からは想像がつかないほど、悪党の顔をしていた。
そして、再び時は流れ、先輩は卒業していった。
2年生になったボクはいつも、部室で1人、棋譜並べをしている。
部には新入生が入ってこなかった。
まあ、人が少ないほうが落ち着いてていいかなって、自分を誤魔化してる。
内心は焦っているが。
去年と変わったことといえば、たまに康介が遊びに来るようになったこと。
なぜか康介には将棋のセンスがあり、結構負かされる。
今度、一緒に大会に出ないって誘ってる。
もうひと押しすれば何とかなりそうだ。
タナカ将棋倶楽部にもよく行く。
なぜかボクを気に入ってくれて、割引をしてくれる。
カワイイ葵ちゃんのカワイイ後輩だからだというが。
当の本人…先輩は、県外の大学に進学した。
将棋は続けており、たまにネットで指すこともある。
将棋部ではお姫様のような扱いを受けているらしいが、本人曰く気持ち悪いの一言だそう。
それを聞いたとき、意志の強さは健在で何よりだと思った。
「ふぅ。」
ボクは、棋譜並べを中断して背伸びをした。
部室を一通り眺めて、また棋譜並べを始める。
ボクは、先輩ほど情熱を持てるか分からない。
今は、負けても次への希望を抱けるが、やがて絶望するときが来るかもしれない。
そんな時、ボクは先輩を思い出すって決めている。
先輩が1人で棋譜並べをしていた、あの姿を思い出すんだ。
それが、目の前の敗北を明日への糧にしてくれると思うから。
自分の中で折り合いをつけるため、投稿しました。