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ロズウェル達が森の中を暫く歩くと、前方の木々の間が白く霞んでいた。
「霧か?」
「息子から霧が出たとは聞いていないんですが……場所としてはあの辺りが空き地ですね」
「凄いな、俺初めて見たわ」
「俺も」
先が見えない霧にも見えるナニカに大人達の足は止まる。それはマリーが目を輝かせて突撃した場所だったが、ここに居るのは脳内リディだらけの頭を持った子供ではない。理性と経験を併せ持つ大人達である。
彼らは武器を構え、じりじりと歩を進める。
先程から半分くらいの距離まで詰めたその時。ロズウェルは霧がピタリと動きを止めたような感覚を覚えた。
――霧が、止まった?いや、そもそも動いていたか?私の気のせいか?
警戒心が指先から足先まで届く。僅かな電気信号で指が勝手にピクリと動きそうなくらいだった。不透明ではあるが、動きに支障はなさそうな濃度だ。
「周囲に気を配り、いつでも動けるように頼む」
「わかりました領主様」
「いつでも行けます」
領民達の緊張している雰囲気を背中で感じ取り、ロズウェルは正面を見据えたまま頷くと霧の中へ踏み込んだ。
――一方その頃。
マリーは屋敷の勉強部屋でマナーレッスンを受けていた。講師はターニャだ。
「もう出来たー、やりたくないー」
「マリー様」
「大丈夫だよー、出来なくても問題ないって」
「お嫁に行き遅れます」
「別に私結婚したい訳じゃないし、結婚するなら刺繍の一つや二つ出来なくても気にしない人と結婚するもん…」
「ガリア領主一族としてその様な訳には参りません。刺繍くらい刺せる様にして頂かないと。大体これは何ですか?……豚?」
「猫!!」
目の前で放り投げられた刺繍を手に取り、怪訝な顔で猫(豚)を見つめるターニャ。
マリーは現在、刺繍に悪戦苦闘中であった。
フォルタンシア国では刺繍は嫁入り前の女性達にとっては必須能力と言われるほどで、婚約や結婚、出産など節目となる出来事の際には女性から男性や子供に自ら刺繍した物を渡す風習がある。
なんでも建国時初代正妃が国王と結婚する際に渡したのが始まりらしく、その刺繍は正妃が刺した事で魔力効果が付与されており、それにより国王の命が救われたと言われている。今では魔力が多いにしろ少ないにしろ、女性のほぼ全員が刺繍を練習するのが普通だった。
――確かに魔力の多い女性が刺繍をすれば魔力効果も付与されて、いい事尽くめかも知れないけどさあ…
マリーは別に絵が下手な訳でも、手先が特別不器用な訳でもない。ただ、刺繍をするとなると惨めな気持ちになるのだ――2年前の魔力測定を思い出して。
規定値に届かなかった自分。
泣いて迷惑を掛けた自分。
期待を裏切った、自分。
家族の中で唯一規定値に達していなかったことはマリーの心にシコリを残していた。そこに魔力の多かった正妃による刺繍。傷は抉れるばかりだった。
嫌気が差してはやらず、やらないので上達せず、上達しないので更に嫌気が差すという負のループに陥っている。
シャキン シャキン
ターニャの糸を切る音が聞こえる。糸を抜いてまた同じ布に刺す練習をするためだ。
マリーがぼんやりとターニャの手元を見ていると、ふと、マリアーナが刺繍をしているところを見た事がない事に気がついた。
「ねえターニャ、私お母様が刺繍しているところを見た事無い。やっぱりしなくてもいいんじゃない?」
「確かに最近は刺していらっしゃいませんが、奥様の刺繍は素晴らしいですよ。第2応接室にあるテーブルクロス、あれは奥様が刺されました」
「え!あれをお母様が!?」
第2応接室の机には薄黄緑のテーブルクロスにエメラルドグリーンの糸で植物がテーブルを縁取るような刺繍が施されている。
マリーはその繊細で優しい色合いのテーブルクロスを気に入っていたが、てっきり職人が刺したものだとばかり思っていた。
――そっかぁ。あれ、お母様が刺してたんだ。
母が作った物だと聞き、より一層嬉しさが増したマリーは「んふふふ」と笑みを溢した。
ターニャはマリーの様子に口元を綻ばせたが、はっと自覚すると口元を引き締め、マリーの前に糸がとられた布が置く。
瞬間、マリーの目は明後日を向いた。
「私森に行きたーい。明日は行ってもいい?」
「今日の結果次第かと。マリー様続きをしますよ」
「……ぬ"ーん!」
言葉にもならない音を返したマリーは机に突っ伏した。その際両腕を体と机の間に挟んだのは「刺繍、断固、拒否!」の意である。
ターニャが横で姿勢を正し、続きをさせようと話す中、マリーは全てを聞き流して決意した。
――今日は行けなかったから、きっとお腹空いてるハズ!明日は食べ物をたくさん持って行こう!
マリーが決意を新たに鉄壁のガードを貫いているころ、ロズウェルがバクスイを片手に抱え、ザフォルの森を駆け抜けていた。
「…ッ!………!!」
「グアアア!!!」
怒り狂っているコケグマ(巨体)を引き連れて。