許しと贖罪、、あるいは不寛容とアガペー。ベルイマンの「処女の泉」をめぐって。マイムービーレビュー
イングマル・ベルイマンの「処女の泉」という映画がある。
英語で言えば、、「バージンスプリング」
いわゆる泉の名前の語源のいわれを述べたもの、
なぜ「処女の泉」という名前になったのかという、、古い伝説ですね。
これは中世の伝奇というか
宗教説話?にもとずいて
映画化したもので
内容は深い宗教色に包まれていることはいうまでもないことですね。
端的に内容を言うならば
それは、、
子羊のようなイノセントは
なぜ?
不条理にも
辱めをうけ
あまつさえ
殺害されなければならなかったのか?
という無垢の乙女の劫罰と
贖罪というテーマでしょう。
西洋には、、
こういうテーマが今でも脈々と受け継がれていますね?
何の罪もない少女がゆえなくなぶり殺しに合う。
それなのに
神はそれを、断罪してもくれない。なぜかかる凶事が我に起こりしか?という。
不条理
神はいったい何を考えているのか?という。
無垢な処女への神の不条理な劫罰
それは何を神が我に求めているのか?
まさにヨブの悲痛な問いでもあるわけですね。
私が一体、何を悪いことをしましたか?
神よあなたはなぜこのような
無垢なるものへ故なき劫罰を下すのですか?
そんな神の不条理と
故なき劫罰
そして神への贖罪と
許しの物語、
それがこの宗教映画≪処女の泉≫なのです。
まさにキリスト教の永遠のテーマです。
さてこの映画、
時代は中世です、
娘を使いに出した父親。
娘は、しかし、途中で無頼漢たちに娘をなぶり殺しにあってしましまう。
それを知った父親は
殺人犯を探し出し
復讐する、、彼らを殺して殺して恨みを晴らす。
しかし死んだ娘は戻っては来ない。
神よなぜこんな無垢な娘にかかる劫罰をお与えになるのですか?
父親は必死に神に問いかける。
しかし答えはどこからも帰っては来ない、
深く絶望するしかない父親、、。
そういう物語ですね。
ところで、、、
イエスは言いますね
「あなたの敵を愛しなさい」と、
「あなたから上着を奪うものには下着をも与えなさい」と。
「あなたの敵を7度の70倍許しなさい」と。
「右の頬を打たれたら左の頬も向けなさい」と。
「恨みに恨みで報いていたら恨みは永久に終わらない」とも。
つまり徹底的な
無抵抗であり
寛容であり
許しであり
博愛である。
それしかないとイエスは断言しているわけですね。
「処女の泉」においては
娘を殺された父親は
殺人者をなぶり殺しにして恨みを晴らします。
そして必死に神に問いかけるが何も返事はない。
父親は神を呪いそうになり、
しかし、
父親は神に言う。
私はあなたに約束します。
私の手は殺人でけがれました。
それゆえその贖いのために
ここに教会をたてます。
すべて私のこの手で
石を一個一個積んで
教会をたてることをお約束します。
そうして、、、
殺された娘の遺骸をどけると、、、
その乾ききった大地から
なんとまあ、不思議なことに、
こんこんと泉が、突如、わきだしてくるのですね。
父親はそれを見て、、慄然として、
神の配意?を悟り?
これがあなたの配意なのですね。
私は殺人を行いました、娘の復讐のためです。
でも神よあなたはこうして清冽な泉のシンボルによって
許しという、崇高な徳をお示しなされたのですね?
わかりました。
私はここに教会をたてることをお誓いします。
父親はなみだを拭いながら深く悟り
許しと贖罪、、あるいは不寛容とアガペーという
神の深い真理を心の奥深くに刻むのでした。
こうしてこの中世を題材とした宗教映画
「処女の泉」は終わるのです。