八投目
玉のような汗が浮かんでは滑らかな肌を流れる。身体に溜まった熱を吐き出すように喘ぐが、一向に体温は下がらないのか、凛の顔は蒸気していた。
運動着はその重量を増し、凛の専用である《凛音》は輝きを曇らせていく。
「休憩だ」
「まだ……まだ出来るよ」
そう言う凛の体力は限界近く、額面通りに受け取るわけにはいかなかった。休め。男はそう繰り返したが、凛は首を横に振る。
「本番まで、一週間しかないんだよ?」
男が取って来た凛の初仕事は地方ローカル局の生番組だった。そこで歌うステージを用意されている。《クラシックアイドル》に交じって歌う予定の彼女は、明らかに気負い過ぎていた。
「わかっている」
「あなたの作ってくれた《凛音》にも、雪奈さんの曲にも、恥をかかせたくないの」
「その心意気は買う。だが、悪いな。俺はもう二度と担当を失いたくない」
ずるい言葉だった。しかし本心でもある。雪奈の事故の原因は未だ不明だ、もしかすると彼女の体調不良だったかもしれない。それほどのオーバーワークを強いてきたことも事実なのだ。
「ごめん、休むよ」
凛が座り込むと、男はその頭にタオルを掛け、スポーツドリンクを差し出した。
男の探し出した新たなレッスン場は外観に見て取れるような派手さはなかったが、十二分に施設の整った物だった。冷風を用いず室温を人の身に最も適した温度にする空調、《IL》の使用を可能とする《ステージ》としての機能、様々な角度から《アイドル》のパフォーマンスを検証することが可能となる映像システム。
それらに加え、《S級トレーナー》の資格も有する男がマンツーマンで指導した成果か、凛の実力は既に並の《アイドル》に劣る物ではなくなっている。
「現状で、B級並だ」
「あはは、嬉しいな。売れ筋アイドル並ってことだよね」
「ああ。よくやっている」
「ありがと」
疲労以外の原因でさらに凛の頬が染まるが、男に気付いた様子はない。
「思い出すね、初めてレッスン見て貰った時のこと」
「あの時か、あまり思い出したくないな」
「そう? あたしは、ああでも一つだけ気に入らなかったな」
朴念仁の男は真意を汲めなかった。郷田のセクハラの件かと思った程だ。
「雪奈さんって、どんな人だったの? あたしと似ているんでしょ?」
「そうだな、凛が事務所を思うのと同じように、雪奈は妹の華奈のことを思っていた。そういうところは似ているな。ただ《アイドル》としてはあまり似ていない」
「そうなの?」
「雪奈の《IL》は《特異》型で《IL》に質量を持たせることが出来た」
「それって《舞》型と同じじゃないの?」
《舞》の《IL》は基本的にそれを放出することによって様々な機動を可能にする。しかしそれと雪奈の《IL》を同一視することはあり得ない。
「汎用性が桁違いだ。基本的な《舞》型の《アイドル》は《IL》の放出のみを可能とするが、雪奈は放出した《IL》をある程度操作することが出来た。維持することもな」
「んと、つまり?」
「《ステージ》の影響範囲でさえあれば例え砂漠であろうと雪を積もらせることだってやって見せる。例え話だがな」
「あ、あたしとはレベルが違うね……」
「確かに《IL》を用いたパフォーマンスは雪奈に軍配が上がるかもしれない。だが、歌唱力は凛の方が圧倒的に高い。もし気にしているのなら心配するな。少なくとも俺は凛を見てもう一度に戻りたいと思ったんだ」
「なんか、あなたって、結構褒めて伸ばすっていうか、意外、だよね」
男はタオルで表情を隠す凛を見下ろし、一つだけ確信したことがある。褒めたところで驕らない人種というのは確かに存在し、凛も、そして雪奈もそのタイプであり、であっただろうと。
「そろそろ再開するね」
「ああ、そうだな。始めから通しでやるぞ」
首肯し、凛が踊り、歌う。その姿は男の下でわずか一月レッスンしただけのアイドルの姿ではなかった。
A級が十人は集うその控室は、見る者が見れば垂涎の空間だった。《アイドライジング》における《トップアイドル》を決める前哨戦と言っても遜色のない顔触れが並ぶ中、どれだけ緊張しているだろうと男は凛に目を向けたが、彼女は至ってリラックスしている。
「思いのほか冷静だな」
「昨日まではすっごく緊張してたんだけどね」
「すまない」
「何言ってるの。《チューナー》のあなたに《プロデュース》や《トレーニング》までして貰っているんだから、こっちこそごめん。でもさ、あなたって凄いよね。今日まで、まるで魔法を掛けられているみたいだった」
男は過去をまだ口にしていなかった。赤鳥にはさすがにもう《魔法使い》と呼ばれていたことを知られているが、結末まで知ったのか知っていたのだろう。彼女は凛にそれを話していないようだった。
「お前の実力だ」
「へへ、ありがと。それにね、そんなに長く緊張しなくても済んだんだ、同じように付き添いのいない《アイドル》と友達になったの。先月まで海外で活動してたんだって」
先日行われたイベント参加者を集めた懇親会に男は参加出来ていなかった。《アイドル》たちのリハーサルの前日に《プロデューサー》は一仕事がある。
「そうか、上級と交流を持つのはいいことだ」
「そんな打算的な思いはなかったんだけど」
「ふっ、それでいい。そういうのは俺の仕事だ。紹介してもらえるか?」
「この話の流れで会わせたくないなあ、でもそれとは別にまだいないんだよ、どうしたんだろ?」
「仕事の都合だろう。そういうことはままある」
二言三言交わしている内に、ぽつりぽつりとリハーサルのために《アイドル》たちが《ステージ》へと移動を開始し、リハーサルが始まった。
控室に置かれたモニタが彼女たちの姿を映し出す。《歌》型、《舞》型の《アイドル》が半々といったところだ。A級の名に恥じぬ高レベルのパフォーマンスではあったが、凛もそれに劣っていないと確信した。
凛の出番と共に、男も《ステージ》のある会場へと向かい、観客席から担当のパフォーマンスに目を光らせる。
《凛音》と連結した凛の《IL》は水色の光を発し、彼女の超能力を生じさせる準備を終えた。
凛の歌と共に男の胸に清々しさが生まれる。今この瞬間だけは、悩みも、鬱屈とした感情もなりを潜め、彼女の歌の純粋さだけが胸に響く。
明日の観客に配られるはずの物と同型の《リング》が男の《ボルテージ》を計測し始めた。その計測結果を見るまでもなく、それは非常に望ましい数値を出していることだろう。
さして派手さのない振り付けで踊る凛の姿を見て、男は雪奈を思い出す。《ステージ》上で小さな身体を大きく動かし、ファンへ自身の能力を見せつけるようにした挑発的な仕草に、それに足るパフォーマンス。二人は同じ曲で、異なる表現をする。
わずか五分程度のパフォーマンスを終え、凛は客席に頭を下げ、退場した。その背に追いつくと、彼女は充足した様子で会場のスタッフと言葉を交わしていた。
「良かったぞ」
「ホント?」
「なんなら《ボルテージ》見てみるか? 計測器ならすぐそこにある」
「ううん、だって《スタッフ》の《ボルテージ》は当てにならんって言ってたじゃない」
そう彼女は並びの良い歯を見せ笑う。
「そうだな。それでは送ろう、今日はレッスンする必要はない、よく休め」
「うん、でも一回控室に戻ってもいい? 《小雪》ちゃん、そろそろ来ているだろうし」
「例の友人になった《アイドル》か。一言挨拶するくらいなら邪魔にもならないだろう」
会場から控室に戻る《アイドル》は他におらず、行く通路は静まり返っている。十人ほどの《アイドル》とはいえ、彼女たちについていたスタッフを入れると相当な人数だったと言える。
「何か夜の学校みたい」
「不法侵入は感心しないな」
「ちゃんと守衛さんに許可貰ってから入ったよ、テスト前なのにノート忘れちゃって」
「つまりは暗くなるまで勉強をしなかったということだな」
「うぐ、そうだけどさ。それ、ユーモアのつもりなら面白くないからね」
「すまん」
「許してあげる」
スキップするような足取りの凛の背に、男はため息を吐きながら続く。軽く上下関係が入れ替わる関係は、不思議と男にとって心地良い物だった。それが何を意味するのか分かる前に、二人は控室のドアを開き、そして。
「《小雪》ちゃ――」
「――凛ちゃん、あの曲! どうしてあなたがあれ……を」
見間違えるはずはなかった。ぐっと女らしさを増し、かつて目を伏せがちにして弱々しい印象を与えていた様子も百八十度変えていたし、一度も男に見せることのなかった表情を浮かべ始めたのにも関わらず。
「何でアンタがここにいるの!?」
簡易なのだろう。《ステージ》でもないのに関わらず彼女は《IL》、正確には疑似《IL》を噴射し、そのまま勢い付けて男に掴みかかり、殴打。
男の痛みから生じた短い声は耳に届いておらず、彼女は拳を振るい続けた。
「《小雪》ちゃん、止めて!」
凛が縋りつき、ようやく拳を止めた少女だったが、自身を抑えることが出来ずにいる。
「何でアンタが生きてるの!?」
彼女の周りでは激しく明滅する疑似《IL》が男の視界を埋め尽くし、それはそのまま彼女の激情を示していた。それに反して、男の瞳からは光が失われつつある。それは、数か月振りに男が湛えた瞳で、凛はそれを目の当たりにしてしまう。
間もなく騒ぎを聞きつけた《小雪》の《プロデューサー》が彼女を引きはがし、他のスタッフと共に《小雪》はその場から去った。
「この度は、私共の《アイドル》が失礼を致しました。こちらは、その、迷惑料ということで」
差し出された金を、男は受け取らなかった。
「いえ、何も起きていませんので構いません」
食い下がる《プロデューサー》に、男は感情のない声で言う。
「何も、ありませんでした」
只ならぬ雰囲気に、圧倒される《プロデューサー》を見ることなく、男は控室を後にする。自身でもどこを歩いているのかもわかっていない足取りは、見る者に不安を覚えさせた。
そして、辿り着いた場所はリハーサルの行われている会場の二階部分だった。
「え? 《小雪》さんリハ要らないって?」
会場のスタッフたちのやり取りが耳に入っても、それが男の中に入った印象はない。
「大丈夫、だよ。《小雪》ちゃん、向こうじゃもう二年も《アイドル》やってるって言ってた」
その声に、男の背が一度跳ねた。
「すまない、凛。いたのか、いる、な。それはそうだ。すまない、今タクシーを呼ぶ」
「あなたは?」
「俺? ああ、車置いたまま、には出来ない」
「あたしは、あなたを置いたまま帰れないよ」
「明日がどれほど重要な日か、わかっていないのか?」
「わかってるけど……」
「わかっていない。休め」
この状況でその言葉に素直に頷く者など皆無だろう。事実、凛もそれに外れなかった。
「《小雪》ちゃんってもしかして」
「雪奈の妹の、華奈だ」
三年前の冬、目覚めた時には積もっているはずの雪は一片たりとも残っていなかった。そして、消えていたのは雪だけではなかった。
「いつも俺や雪奈の背中に隠れてばかりだったあの子が、どこへ行ったのかずっと探していた」
そして、諦めた。
凛の短い人生からは、言うべき言葉が見つからない。だから男の独白を聞き続ける。
「まだ十二だったんだ。恨まれて当然だ。姉を殺した男で、憎まれて当然だ」
だから向けられた憎悪は男が受けるべきものだと言う。
「そうね、しかもその殺人者が今ものうのうと罪を犯した業界で生きているのだもの」
凛の背後から現れたのは、冷静さを取り戻したかのように見える華奈だった。初めて出会った時の雪奈と同じ荒んだ瞳を携え、彼女は一歩一歩男へと近寄っていく。
「凛ちゃんとは、友達になれると思ってた」
「あたしは、まだそのつもりだよ。でも、その人に酷いことをするなら……」
「相変わらず担当を丸め込むのが上手いのね。結婚詐欺師にでも転職したらどう?」
「華奈、ちゃん」
「私の本名、そいつから聞いたんだ? 驚いた、その口からまだ私たちの名前を出せるなんてね。図々しいにも程があるわ」
「止めて! その人の二年間を知らない癖に勝手なこと言わないで! ううん、今あなたの目の前にいるその人を見て、感じないの!?」
華奈の目には、暗い光が宿っていて、それが薄暗がりの中で妖しく光っているように見えた。
「知らないわ」
もう、言葉は通じない。
「そうだ、そこから飛び降りられたら許してあげる。もちろん頭からね。二階だもん、運が良ければ死なないわよ? お姉は四階から飛び降りたんだ、その半分で許してあげる」
屈託のない笑顔で言い放つ華奈の雰囲気に圧倒されたか、凛が息を飲む。その傍ら、男の動きは迷いがなかった。二階観客席の欄干に足を駆け、その身を宙へと――。
「華奈ちゃん、《プロデューサー》さんが困ってるよ? 早く戻ってあげないと」
華奈の手が男の背広を掴み、彼の進路とは逆方向へと引き倒す。そして、極々小さい声で呟く。内容は、決して男を助けたのではないことを如実に示していた。
「ごめんなさい、姉さん。今行く」
男の中で声にならない声が響く。無様にも地面に膝をついたまま差し出す手は、宙をさ迷い、何も掴めない。雪奈は振り返る仕草をみせたが、華奈がそれを遮る。二人の背は遠ざかり、そして扉の奥へと、消えた。




