七投目
男は虚空を見つめていた。もしも視点が定まっていれば天井の染みを数えることくらいなら出来たかもしれない。物一つ落ちていなかった男の自室の床に散乱するゴミから察するに、無意識の内に食事を取り、排泄等はきちんとしていたようだ。
夢で見た過去の映像は、男の時間を凛と出会う以前の――否。霜月姉妹を失った頃まで遡らせた。そしてその当時と同じ逃避行動を取る。しかしそれを続けることは許されず、何者かが男の自宅を尋ね、呼び鈴を鳴らす。何度も何度も鳴らし、諦めることを知らない来訪者に、凛の姿が思い当たったが男は玄関のドアを開くことなく済ませた。とても誰かと会う気分にはなれない。
それらが繰り返されて数日が過ぎた頃だ。施錠し損ねていた玄関のドアが開かれた。遠慮がちに歩く足音が男の耳にも届く。男は空き巣の類も疑ったが、結論から言えば的外れだった。
「空気の入れ替え、するから」
凛はベランダに繋がる戸に掛かるカーテンを一気に開き、また戸自体も開け、外の新鮮な空気を室内へと取り込む。麻痺し、何の匂いもしなかった部屋に緑の香りが混じる。
「やっぱり、外の空気は暑いね。でもさ、クーラー点けっぱなしは駄目だよ。空気、籠ってる」
凛は日差しを背に、男へと向き合うと、表情を曇らせた。
「赤鳥さんが、最後にあなたに会った時のこと教えてくれたの。来て、よかった。酷い顔してるよ? 解決は出来ないかもしれないけれど、辛いことがあるなら――」
「――何か用か?」
その声に、生気はなかった。枯葉が地面を転がる音の方がまだ瑞々しくさえある。
「事務所の借金、あなたが肩代わりしてくれたって聞いた。《協会本部》からチャリティイベントでの仕事の依頼も来たよ」
「そうか」
「うん。そう」
それからしばらく、静寂が続いた。凛は落ち着きなく目を泳がせ、男は何もない空間を眺めている。
「赤鳥さんから聞いた。あたしの才能、買ってくれてるって」
男は何も答えない。
「嬉しいよ」
男は黙っている。
「オーディションに受かってもさ、『黒井プロの他の《アイドル》に空きが出来たそうなので』って翌日には断りの連絡が来るばっかりだったんだ。そんなことばっかり続いたから、あたしには何の力もないんだと思ってた」
男が持った黒井社長の印象に、誤りはなかった。
「直接言ってもくれたよね? フィジカルも《IL》も及第点だって」
それももう遠い昔のように感じる。
「でもさ、自信、ないんだ。怖いよ、《協会本部》からの仕事を失敗したら、あたしたちはどうなるんだろう? また黒井プロが何かしてくるかもしれない。ううん、チャリティイベント内でも何されるかわからない」
《協会本部》が主催するイベントは、業界注目度が高い。登竜門とも言えるそのイベントだが、参加権を掴みとることすら容易ではなく、《推薦枠》で参加するとなれば妬みなどの敵意を一身に浴びることにもなる。失策を犯そうものなら嬉々としてそれを槍玉に挙げる者も少なくない。
「あなたにレッスン場で助けられて、事務所の窮地を救ってもらって、仕事を取って来てもらって、ありがとうばかりがたまる、それなのにあなたに何も返せずに終わるのだけは嫌だよ」
「何も恩に感じなくていい。全て、気まぐれだ。たまたま気が向いた時に目の前にいたのがお前だっただけだ」
「そう、なのかな? あたしじゃない誰かがその時あなたの前にいたらあなたはその人をあたしと同じように助けた?」
男は返事をしない。答えは、否だからだ。凛の中に、雪奈を一瞬でも見なければどんな些細なことにも手助けはしなかったはずだ。
「あたしは、あなたが殺した《アイドル》に似ている?」
男は、言葉に詰まった。
「社長が昔言ってた。失敗したら失敗したことで次に成功すればいいって。あたしに当てはめたらチャリティイベント、失敗しても次成功したらいいってことなんだと思う。でもさ、今回しかないんだよ。今回だってあなたがいなければチャンスすらなかった。あなたはどうかな? あなたがしたいことは、なに? チャンスは、ある?」
凛の瞳の色が変わる。弱々しい物から底知れぬ光を帯びた物へと変わる。
「何もない」
「嘘だよ」
「実現不可能なことなんだ」
「それは、何?」
赤鳥の、話したくないことでも聞かれた方が良いこともあるとの言葉が、思い出される。
「それで罪を薄れさせ、忘れて生きろとでも言うつもりか? くそ」
凛は、正しくそれが問いかけに対する答えでないことを理解し、黙って続きを待つ。
「雪奈を《アイドルマスター》にしたかった」
「わかった。あたしさ、命を賭けて《アイドル》をするって言ったと思う。でもそれはね、事務所がやっていけるだけのお金を手に入れるレベルでいいと思ってたんだ。だけどさ、《アイドルマスター》、なるよ。そして雪奈さんのファンだって言い続ける。それじゃ、ダメかな?」
かつて《アイドルマスター》が没落したライバルをライバルと言い続け、復活したライバルと国内最大級のイベント《フェスタ》で雌雄を決したことがあった。そして、その一年限定で復帰した《アイドル》は今なおその名前を業界に残している。
それと近いことをすると、凛は言う。名前を覚えていられる限りその人物は生きている、《アイドルマスター》がそうだと言えばその人物は《アイドルマスター》と遜色のない存在となる、そう凛は伝えたいのだろう。
「戯言……だ。だが、何もしないで《スノウ》の名が消えるよりかは遥かに、マシか。俺はそんな事にも気づかなかったのか」
五大大会の三大会を制した《アイドル》が、そう簡単に忘れ去られてしまっていいのだろうか。という思考と、それを拒絶する言葉が浮かぶのは同時だった。
もしも男がヒーローで、凛がヒロインの物語ならば《魔法使い》として「魔法をかけてやる」と言えただろう。しかし、そうではない。
「《アイドルマスター》になれると思っているのか?」
《アイドルマスター》になる方法は二つ。五大大会を制覇する。もしくは《アイドライジング》の本場、日本で三年連続を受賞することだ。
「あなたが協力してくれるのであれば」
買いかぶり過ぎだ。男の性格上、そう発せられるはずだった声はしかし――
「任せろ」――となった。