六投目
白井プロは、三階建の雑居ビルのワンフロアに事務所を構えている。一階はビルのオーナーが経営している大衆食堂、三階に黒井プロ、二階は倉庫として使われているらしい。ビル自体は、ある程度の年代を感じさせるもので、壁面の塗装に剥がれがあるところもあれば、ヒビがある箇所もある。
凛と並び、男は三階までの階段を上がりきると、目の前にプレートの掛かったドアが姿を見せた。プレハブ小屋についているようなドアのようでいて、その実しっかりと厚みのあるそれは案外重いらしく、開く凛がそれなりの力を込めたのが見て取れた。
「お帰りす、凛ちゃん」
赤鳥の声はすれども姿は見えず。小さな体躯は、彼女のワークデスクであろう机に積み重ねられた書籍や資料などで完全に隠されていた。しばらくそちらを眺めていると、赤鳥は男の下まで足を運んだ。
「どういったご用件すか?」
赤鳥の目は敵意も温かみもなく、男を自社の戦力としては勘定することを諦めたことがにじみ出ている。彼女は経営を一手に引き受けているためか、リアリストだ。
「仕事を依頼しに来た」
「仕事すか? うちにはD級しかいないすよ」
本来D級である凛に仕事の依頼は来るものではない。《プロデューサー》が必死になって掴み取ってくる物だ。だから赤鳥の怪訝な顔は極自然な反応だった。さらには仕事の依頼を持って来た者は自称なのだから不信感は一塩だろう。
「後日正式に書類が届く」
「仕事の時期はいつすか?」
「再来月中旬だ」
「……ありがたい申し出に対して非常に申し訳ないんすけど。その依頼、受け兼ねるす」
断るメリットはないはずだった。男は我が耳を疑うが、続く赤鳥の言葉でそれが正しく機能していることを知る。
「今月末で不渡りが出るす。うちの事務所の実績で貰える《補助金》では賄えないほどの額す」
「なるほど、な」
ようやく黒井プロの置かれた窮地を知ることが出来た。
男にとって四年振りの《アイドライジング協会本部》。国立公園よりも規模の大きな自然公園の真っただ中に建つ高層ビルは、その大きさをしても周囲の家屋に影を落とすことはない。
懐かしさからか男は《協会本部》で用事を済ませた後も、その建物を見上げている。《プロデューサー》《チューナー》《トレーナー》業務それぞれの資格を全て有する彼は、器用貧乏で大成しないと見られることがほとんどだった。当時は就業申請をいくら出してもどこからも声が掛からなかった物だ。男が感慨にふけっていると、知った声に気付く。
「何度も言っているように事務所を自発的に畳むつもりはないす」
「大した恩義もないだろう。そんな事務所の借金を背負いたいのか? ふん、私は善意で言ってやっているつもりだがな?」
只ならぬ雰囲気、ではあるが話の内容から察するに二人の関係は債権者と債務者の関係で間違いなく、男に取って都合がよい。
「赤鳥」
男の声に、赤鳥は勢いよく振り返る。驚いているようで、男の存在に疑問を口にすることも出来ずにいるようだ。そのまま男は反応しない赤鳥を素通りし、債権者と思われる中年の男の前へと足を進める。
中年の男は羽振りがいいのか、ブランド物で装いを整えており、袖口から覗く腕時計も高級メーカーのそれだ。男の登場に彼は不機嫌さを表す。
「何か用かね? 取り込み中なのだが」
「白井プロの債権者だな? これで完済だ」
男はそう言って一枚の小切手を中年の男に差し出すと、ますます彼は怪訝な顔つきを濃くした。男と白井プロの関係を量りかねているのだろう。
「白井の関係者か? 止めておけ。今ここで完済しても無駄だ。白井の所に仕事が入ることはない。金をドブに捨てることになるぞ」
「ご忠告感謝する。要らない心配だ。次の仕事は決まっている」
「ほう? だが、決まった仕事が流れる可能性という物があることを知っているかね?」
その一言で目の前の中年の男がどういったタイプの人間かを、男は知った。しかし、それは彼にとっては何の脅威にもならない。
「心配だな。《協会本部》が開催するイベントが中止になる事態とは末恐ろしい」
「はっはっは、無知とは憐れだな小僧。白井のところには今D級しかいないぞ? それでどうやって《協会》主催のイベントに出場する? 悪いが《推薦枠》は我が黒井プロの推薦する《アイドル》で決まりだ。うちにはA級が三名所属しているのだからな。意味がわかるかね?」
《協会本部》が主催するイベントにおいては高い級の《アイドル》が優先して参加することが出来る。ただ唯一《推薦枠》においてのみ高級の意向で出場が決まることになっている。国内に五人しかいないA級のうち過半数を超えた彼らが黒井プロに所属しているのならば、確かに黒井プロの推薦した《アイドル》でこれまでは決まっただろう。
「そうだったのか、悪いことをしたな」
「何、私は寛大だ。無知を恥じた人間に鞭打つ真似はしない。貴様の罪を許そう」
男は、改めて小切手を差出す。
「後悔するぞ、小僧」
「この程度でする後悔など、さしたる重さなどない」
中年の男は鼻を鳴らすと、男から小切手を受取り、そして目を零さんばかりに開く。
「小僧、《ライセンス》を見せろ」
「そんな義理はない」
「……黒井敬三だ。うちの事務所に来る気になったらいつでも来い。当日採用してやる。ただし、私の邪魔をするのなら覚悟をすることだな」
黒井は、赤鳥とのやりとりなど忘れたように去って行った。
後に残された二人の間でわずかな沈黙が訪れた後、赤鳥が口を開く。
「国内大手芸能プロダクション黒井プロの二代目社長さんす。先代とうちの社長はライバル同士だったらしく、うちを潰すことで二代目さんは先代を越えたと周知させたいみたいす」
「そうか。別に聞くつもりはなかったんだがな」
「それは失礼したす。聞かれなくても話した方がいいことも、話したくなくとも聞かれた方が良いことも世の中にはあるんすよ」
さして年を重ねていないだろう赤鳥が世の中を語るのは、少しばかり可笑しかった。しかし男はそれを一蹴することはしない。
「後半は、同意し兼ねる」
「そうすか」
赤鳥はまとめ上げた髪を形が乱れるまで弄ると、男の目を見上げた。どこか躊躇う様子を漂わせ、それから彼女は瞳に強い光を宿す。
「あしらに、どうして欲しいんすか? 正直、あんたのことが全然理解出来ないす。何であしらに手を貸したんすか? その癖差し出した手をあんたはすぐに引っ込める。訳わかんないす。希望を見せては掌返す、それが楽しいんすか? 恩がある癖にこんなこと言うのが恥知らずなのはわかってるす。けど、あしはあんたのことが大嫌いす」
「俺も、俺が大嫌いだ」
そう言う男の顔を前に、赤鳥は言葉を失う。単に自分に酔っている者の顔ではなく、迷い子のように弱々しく便りない男のその顔は、彼女にとって助けを求めている者にも見えた。
「俺はきっと、《アイドル》に相応しい者が《アイドル》になれないのが嫌なんだ。凛は、才能がある。埋もれさせるには惜しい。だが、俺は、スタッフとして《アイドル》に関わる資格がないんだ。関わってはいけないんだ」
「どうしてすか?」
「俺は、担当を殺した」
絶句する赤鳥を余所に、男は彼女に背を向けた。口を滑らせた自分に腹立ちながら。
「日本?」
雪奈は白を基調とした愛らしいステージ衣装を着ていた。素の彼女を知る者たちは馬子にも衣装だと言うかもしれない。しかしステージ上の彼女、つまり《スノウ》に着いた数多くのファンはそう見ることはないだろう。
「そうだ。この《ステージ》が終わったら日本へ行く」
「そう……、私の貞操を賭けたステージへと行くのね」
成長したのかリボンでボリュームを誤魔化しているのか、男には判断の付かない胸元を抱き、雪奈が不敵に笑うと、男は軽く片頬を上げた。
「馬鹿を言え、もう一生分はお前たちを食わせなければならないほど、お前を使って稼いだぞ」
「そう。それは良かったわ。もう遠慮することはないのね」
「元よりお前に遠慮があったか?」
「あなたは本当にバカなのね」
よく見る雪奈の半眼を前に、男は頭を掻いた。
「《アイドルマスター》になりに行くぞ」
「前哨戦のつもりはないわよ? 私は目の前の《ステージ》でいつも手いっぱいだもの」
五大大会のうちの三大会制覇という偉業を達成した《スノウ》に対して今日の会場は貧相だ。しかしそれでも《スノウ》がデビューした土地である貧国の《ステージ》には《アイドライジング》ファンが世界中から押し掛けている。
「お姉、大成功するようにたくさんお祈りしておいたよ! はい、《スノウドロップ》」
「ありがとう、華奈。特等席で見てなさい」
天真爛漫の語が似合う妹華奈に、雪奈は男にさえ見せない柔和な笑みを向けると、妹の頭に手を置いた。最前列中央三席は常に彼女のための席だ。両隣を空ける理由は熱狂したファンが妹に害をなさないためだと雪奈は言う。男ももうそれについて不平を漏らすことはない。
「うん、頑張ってね!」
これから行われる《ステージ》を思い描き、屈託のない笑みを顔いっぱいに浮かべた華奈が走り去ると、男は長く息を吐いた。
「日本に着いたらしばらく休業して観光でもするか?」
「それも悪くないわね」
その言葉を最後に、雪奈は《ステージ》へと向かう。男の作った《ドレス》である《スノウドロップ》がライトの明かりを反射し、プリズムのように輝く。雪奈の登場と同時に、歓声が上がり、彼女はそれに応えながら《ステージ》中央へと足を進める。
《スノウ》と雪奈を呼ぶ歓声が一際大きくなった次の瞬間には静寂が訪れた。雪奈のアカペラが始まり、観客の持つ《リング》が各々の《ボルテージ》を指し示す。
雪奈の歌声に遅れ、曲が鳴りだすと観客から声援が上がり、また雪奈の動きも激しくなって来た。《クラシックアイドル》のように歌い、踊り、彼女の魅力で会場を包み込む。
そして、《アイドル》の本領が発揮される。雪奈の周囲に虹色に輝く光の粒が出現し、《スノウドロップ》自体が発光を始め、天使の翼のような形に《IL》が形成された。
「何だ?」
本来純白になるはずの翼は、虹色を保つ。虹色の翼をはためかせ、浮かぶ雪奈に対し、男はそう漏らした。
突然だった。雪奈の立つ《ステージ》と観客席を分かつように、白く厚い壁が現れた。そして、雪奈の周りにも同じ物が出現し、彼女を立方体で包むようにして合わさる。閉じ切る直前、男へと雪奈は視線を向け、口の動きだけで指示した。
『華奈には見せないで』
間はなかった。閉じ切った箱の中で爆発音がし、その消失と共に翼を散らせた雪奈が落下を始める。コマ送りのようにゆっくりと高度を下げる彼女に、男は届かない手を必死に伸ばす。
「雪奈ぁぁぁぁ!」
鈍い音が雪奈からした。そして、彼女は血の海に沈んだ。観客席と《ステージ》を隔てた壁は、二日間の間何者も通すことなく、三日目に消滅した。
「何がS級だ。何が《魔法使い》だ」
男は自分の寝言で目を覚ました。触れた頬には涙の跡が残り、それを男は嬉しく思う。二年以上の年月が過ぎてなお、自分の中にある罪は薄れていないことを実感する。
床から離れた男が自室の《ドレスメーカー》を起動し、目を細める。その視線の先には昔と変わらぬ結果が表示されていた。《スノウドロップ》に異常は一つもない。ただ一つ変化しているのは、蓄えられていた雪奈の《IL》が失われたことだ。
男は再びベッドに身を投げ、目を閉じる。




