十九話・牧場
ひび割れたコンクリートの壁に剥き出しの階段を、男は進む。
重苦しい扉を前に、一度男の手は宙を掴み、それから改めて硬質の音を生む。
返事は、なかった。
男の胸に宿り始めた小さな火は、その程度で揺らぐものではなく、その場で目を閉じる。
葉の落ちる音に枯葉が転がる音、それに混じって紙を捲る音が男の耳に届く。
男の手がドアノブに伸びる。
「食事の時間はまだですかな?」
白井の姿があった。彼は応接スペースと思われるソファーに腰掛け、手には束ねられた書類を持っている。
男の入室と同時に紙を捲る音は止んでいた。つい先ほどまで雪奈を前にしていた男には、真実を捉えることは難しくなかった。
「何故、呆けた振りを?」
白井は一度瞳を右側に向けると、目を閉じた。
「あまり、感心出来ませんな」
「空き巣の類の心配があった。それに、悪巧みをしておいて施錠していない側にも問題がある」
「ふむ、一理ありますな。賑やかな彼女たちに慣れきってしまっていましたかな」
その顔に浮かぶ表情は、男の知らない色を湛えている。
「私は、事務所の《アイドル》たちに可能性を感じていました。ですが、私では彼女たちを輝かせてあげることが出来ませんでした」
だから、彼女たちが移籍出来るだけの理由を作った。ということなのだろう。
「《城井プロダクション》の《牧場》」
「随分と、懐かしい響きです。そう呼ばれたこともありましたな」
《アイドル》を信じ、決して自分の物差しに従わせることなく《アイドル》を育てた《スタッフ》だ。その実績は5人もの《トップアイドル》を育てながらも、歴代最高の名スカウト《星拾い》のスカウトして来た多くの《アイドル》を潰してきたということで評価は低い。
「《牧場》は、《星拾い》に寄生するだけの最悪の《スタッフ》だと思っていた」
「間違いではないでしょう」
「今は、その言葉に首を縦には振れん」
自分の物差しを完全に超えた《アイドル》を知った今だからこそ、男はそう口にした。
「無論、信じて何もしないということが正しいとも思えん。だから、俺を使ってくれ」
「《牧場》に《魔法使い》ですか、何ともミスマッチですな」
「なに、何なら《羊飼い》を自称するさ」
「お茶を、入れましょう。いい茶葉があります」
「赤鳥にばれたら叱られるぞ」
老人は、肩を竦めながら移動する。
5人分の茶を淹れるため、給湯室へ向かったのだろう。
外から姦しい声が響く。




