十七話・天才
「すまない」
雪奈からの返事はない。死は回避出来たが、どうにもしようがない空気が漂う。
「俺に、そんな幸福が訪れることがあるとは、想像したことがなかった。すまない」
卑屈になっているのではない。男は、誰かに愛されようと行動したことはなかった。ただひたすら自分のためだけに生きてきたという自覚がある。
「……もういいわ。私も悟られないように振舞ってきたつもりよ。それに、幸福なことだという感想も聞けたことで私は満足よ」
その表情に、先ほどの雪奈の姿はない。呆れられ、覚めたのかもしれない。男は、そうされても仕方がないと思う。
「だから、あなたにも白井プロへ行って欲しい」
雪奈の思考は、元々男には読むことが出来なかった。それは、今でも変わらない。だから尋ねるしかなかった。かつての、白井プロの面々のように。
「『聞かれなくても話した方がいいことも、話したくなくとも聞かれた方がいいことも世の中にはある』のだそうだ」
「随分と、あなたらしくない言葉ね」
微笑というのだろうか、軽く、本当に軽く雪奈は表情を和らげる。
「あなたの夢は何だったかしら?」
「雪奈を《アイドルマスター》にすることだ」
雪奈は目を丸くし、口を半開きにした。そんなあっけに取られたと言わんばかりの顔は、男の記憶の中にはなかったし、これからも見られる物だとは思っていなかった。
「そう。そうなのね……。《スノウドロップ》は今どこに?」
男は黙って背広を脱ぐと、裏地を引裂く。そして新雪のように純白の《ドレス》がそこから姿を現す。白に浮かぶ金糸の模様が、芸術作品のような存在感を持つ。
「バカね。あなたがそんな重荷を背負う必要何てなかったのに」
雪奈は、《スノウドロップ》を受け取るとそれぞれを一度擦り、首、両手首に巻きつけた。《スノウドロップ》が発光を始める。首、両手首に嵌められた《ドレス》が水晶、もしくは湖畔の水のように輝く。
しかし、《IL》の残滓である光の粒はどこからも放出されていない。
男が最悪の想像をした。雪奈は《IL》を失ったのかもしれない。そう、思った。
《スノウドロップ》の輝きが強く、薄く、交互になっていく。
思わず零した彼女の名前を呼ぶ声に、彼女が答える。
「黙って見ていなさい」
滝のように汗が流れていた。
いつもすまし顔や笑顔で《パフォーマンス》をしていた《スノウ》の見る影もない。
《スノウドロップ》の輝きが一定となった。
そして、雪奈は言う。
「あなたが言うから信じたのよ」
車椅子の肘掛に手を添える。
「私は、天才だって」
添えた手に力が籠り、腰が上がる。足は地面に投げ出され、そして身体を支える。
下半身不随のはずの雪奈が、立ち上がった瞬間だった。




