十六話・雪奈
「記憶が、ないんじゃ、なかったの、か」
「今それがどれ程重要なのかしら? 早く華奈を追って」
雪奈の眼光は鋭く、口元は引き締まっている。
真直ぐに男の目を捉え、背筋を伸ばし、有無を言わさぬ迫力を持つ。
「それは、出来ない」
男は、それでも引かない。
「お願いよ。だから、華奈を助けて」
〝お願い〟その言葉に男は大きく揺さぶられた。他ならぬ雪奈のその言葉には、それだけのものがある。けれども、すぐには答えられない。
「何故、そんな事を言う?」
自分の存在は、そんなにも雪奈にとって重荷になるのだろうか? そんな風にも考えられた。
「言ったでしょう? 今のあの子は危ういわ。私もいない、あなたもいない。そんな環境にあの子を置いておけないわ」
「華奈をいつまでも子供扱いしている方が華奈のためにならん。あの子は、強い」
雪奈が押し黙る。その理由は、わからなかった。いつもの彼女なら男が考え付かないような言葉を持って納得させただろう。いつもの彼女なら、劣勢でも決して攻め手を休めることはないはずだ。しかし彼女は口を閉じていた。
「駄目ね、妹を出しに使うなんて、最低の姉……」
雪奈は、艶やかな前髪を掻き上げた仕草のまま、動きを止めた。
男が彼女の名を呼ぶと、諦観のため息をつく。
「私には、あなたの傍に居る資格がないの」
「何を、言っている?」
耳を疑う気持ちでいっぱいだ。聞き違いだとも思う。しかし雪奈の悲しそうに眉を寄せる表情、顔を隠すように前髪を掴む仕草が、男の考えを否定する。
「睦月凛から、彼女とあなたが出会った頃の話を聞いたわ」
男の喉が、大きく鳴った。
「あなたのことだもの、私が飛び降りた理由について誤解したのでしょう? 浅はかだったわ。私が絶望して飛び降りたのだとあなたなら勘違いする可能性があったことは、計算出来たはずだったでしょうに」
それから雪奈は膝を何度か掴み、拳を作ってはまた膝を掴む。視線をさ迷わせ、口を開いては閉じた。その顔は、耳まで真赤になっている。
「わた、私は、あの時……愛する男の重荷になりたくなかっただけよ――彼なら華奈の面倒を文句も言わず見てくれただろうし遵法精神もあるから華奈に手出しもしないだろうしお金も地位もあったから彼が華奈を迷惑に思うようなら里子にだって出せただろうし」
男が初めて見る雪奈だった。虹彩は渦巻きを描いているようになっていて、顔は真紅に染まり、やたらと早口だ。
「そうか……微塵も、気が付けなかった」
「でしょうね」
雪奈は半眼になり、顔を背け、唇を尖らす。
「そんな男が居たのか」
相手を尋ねようとした次の瞬間、男は死を覚悟した。




