十一投目
「ちょっと見ない間に仲良しさんになってる」
戸惑いを見せたのは一瞬で、すぐに朗らかな顔になって雪奈は、男の腕を取る華奈を見た。
「うん。ごめんね、お姉にも迷惑かけました」
華奈が頭を下げると、雪奈は冗談交じりに「許す」とだけ言って返す。そして華奈の口から聞いた自分の呼称を懐かしんだのか、それを自身の声で繰り返した。
「お兄、これからどうする? 早速レッスン?」
「今日は、色々あった。休ませてもらおう」
華奈は、男の腕に抱き着いたまま、丸くした目で男を見上げている。何か妙なことを口走ったのかと思案して見せると、彼女はすぐに答えを示す。
「お兄、何歳になったの? 昔は休んでるとこ見たことなかったよ?」
「言っておくが、お前たちの倍は生きていないぞ」
「ごめん、怒った?」
言って華奈は男の腕に頬ずりする。気恥ずかしさを覚え、思わず腕を引きそうになった瞬間、懐かしい気配を感じ、反射的に顔が跳ね起きた。五階の姉妹の部屋の中には男を含めて三人しかおらず、その場に殺気を立てた顔は、見当たらない。
「華奈ちゃんと《プロデューサー》さんも仲良しになったようですし、五十階で一緒に住むという事でいいんですかね?」
「居住エリアは二人で好きに使え。俺は施設エリアで構わん。もとより荷物もほとんどない」
「一緒に居住エリアで暮らしたらだめなの?」
「日本は向こう程寛容ではない。世間体が物をいうような国だ。《アイドル》の処女性を重要視する傾向もある。だからお前も外では俺との距離感に注意しろ」
不平を洩らしながらも、華奈は私物を取りに行くと地下にあるという預かり所へと一人向かって行った。残された雪奈の車椅子を押しながら、男たちは五十階へと向かう。
「華奈の変わりように驚きましたよね?」
「そう、だな。だが俺に取っては今のあいつの方が、馴染みがある」
「仲直り出来て良かったです」
「ああ。正直許されることがあるとは思ってもいなかった。実際、永遠に恨まれて当然だと今でも思う気持ちがある」
「それは、許してくれた人に対しても失礼ですから、その気持ちは失くした方がいいですよ」
素直に首肯することに多少の抵抗はある。しかしそれが雪奈の言葉だからだろうか、いつか受け入れてみようと、そう考えることが出来た。
「ケンカの理由を訊かないのだな」
言ってから口を滑らせたことに気付くが、もう引っ込みの付く代物ではない。雪奈はしばらく顎に人差し指を当て、顔を上げていた。
「そうですねー……わー」
迷う素振りを取っていた所為か、言葉の途中で五十階へと到達した。扉の開いたエレベーターからは、夕日が沈む際中の光景が広がっている。雪奈は自分で車椅子を進めると、展望エリアの壁に張り付き、眼下に広がる風景に目を奪われていた。
「こんなに高い所に来たのは初めてです」
「そうだな、俺もこの高さで生活するのは初めてだ」
雪奈に追いつき、車椅子に手を掛けると彼女は身を反らせて男の姿を見た。
「休憩する前に探検しませんか?」
「華奈がまだ戻っていないだろう」
男がそう言うと、雪奈は車椅子のポケットから黒く無骨な携帯端末を取り出して見せる。
「連絡はすぐつきますよ。それにこのフロアには私たちしかいませんから」
「仕方がない」
雪奈が声を弾ませお礼を述べると、車椅子を進め始めた。フロアを東西に分けるエントランスを抜け、居住区のある左側を後回しにすると間もなく〝ドレスルーム〟が見えた。
「いつか華奈の《ドレス》がここから生まれますかね?」
「なるべく要求《IL》量を低くし、《ステージコア》を搭載する予定だ」
わかっているのかいないのか、雪奈は生返事で返す。それからしばらくすると〝レッスン室〟に辿り着いた。申し分のない設備に感心していると、雪奈が携帯端末の振動に気付く。
「ごめんね、ちょっと探検してた。すぐホールに戻るから待ってて」
行きましょうか。雪奈に促され、男が後に続く。さして力を込めていないようなので品のいい車椅子なのだろう。彼女は男に先行する形で進み続けた。
「何か面白い物あった?」
「立派な施設だったよ。でも今一番気になるのは窓から見えた水族館と屋台? かな」
何それ。と二人は顔を見合わせ、その表情を綻ばせていた。それを見て、本当に何気なく男は言う。
「プロデュース計画を練るのに約二週間掛かる。その後だ」
二人は顔に疑問符を浮かべていた。男が二人を遊びに誘うのは今回が初めてだ。しばらくして、二人は実年齢よりも幼く思える表情を見せた。
「その時にはパパって呼んだ方がいい?」華奈が男の腕を取る。
「それともファーストネームですかねー?」雪奈が自分の頬に指を当てる。
「どちらも却下だ。居住区へ行くぞ」
結論から言ってしまえば、三人は同居することとなった。バカバカしく思える程広い居住エリアの大半を使用することなく、各自寝室だけを固有スペースとして一日の大半は三人で過ごしている。そして、二週間が過ぎた。
午前八時を回り、男は目覚めると簡単に身支度を整え居間へと向かう。直前に見た、鏡に映った自分の顔は健康的に感じた。
「何も好転した訳ではないのだがな」
雪奈の足は未だに動くことはない。記憶を失っているからか、恨み辛みを吐き出すこともない。彼女には何もされていなかった。そして、何も出来ないでいる。
居間へと続くドアを開くと、そこでは雪奈がペットボトルの水を直飲みしていた。
「行儀が悪いぞ」
「あはは~、見られちゃいましたね」
ばつが悪そうにはにかむ彼女の表情は、再会するまで見たことのない顔だった。つまりは、昔の彼女はこのような屈託のない姿など見せたことがなかったのだ。
「昨日夜中まで戻って来なかったにしては早いですね」
「今日は、約束の日だ」
二週間前に、街へ遊びに行くと約束した、その当日となっていた。三人で出かけるそのために男は《ドレス》も《レッスンプラン》も一通りの区切りをつけた。
「華奈を起こしてきましょうか?」
「まだ店が開くまで時間がある。構わないだろう」
「朝ご飯用意しましょうか?」
「いや、バナナ一本食べれば十分だ。今日は間食の機会が多そうだからな」
男がそう言うと、雪奈はバナナを一本捥いで男へと差し出す。軽く礼を言い、バナナを一口含むと程よい甘さが口いっぱいに広がる。
「美味しいですか?」
男が首を縦に振ると、雪奈は目を弓なりにし、口端を上げ、言う。
「おつとめ品何ですけどね、美味しそうだったので買いました」
「金が足りなかったか?」
「美味しそうだったので買いました」
得も言われぬ迫力を前に、男は言葉を失い、視線をさ迷わせたところで救いの手が差し伸べられた。華奈が上下共に薄緑色のパジャマを着たまま姿を現す。
「おはよ~」
三者三様の挨拶を交わすと、まだ寝ぼけ眼なのか華奈が冷蔵庫から取り出したペットボトルを直飲みし始める。雪奈の時同様男がそれを窘めると、少し唇を尖らせながらも素直にコップを取り出し、注ぎ込んだ。
「相変わらずお兄は細かいんだから」
「その癖細かい所に気付かないんですよね~」
ね~? などと姉妹は顔を見合わせ、首を傾け合っていた。
「努力はしよう。それで今日は街に出る訳だが水族館以外に行きたい施設はあるのか?」
「私は街ぶらぶらーって出来ればいいかな。お姉は?」
「私も同じだよ」
遊び下手が三人寄っても文殊には近づけないものだなと男は独り語ちる。益体もない時間が小一時間も立つと、皆が自然と外出の準備を整え始めた。
雪奈は膝下までの長さがある白のワンピースに水色の薄手カーディガンに麦わら帽子。華奈は七分丈のモスグリーンのパンツに黄色のキャミソール、白の薄手カーディガンを羽織り、キャスケット。男はいつも通りスーツだった。
「お兄何でいつもと同じ格好?」
「《アイドル》と《スタッフ》なら世間体を保てるだろう」
華奈の文句を聞き流すと、男は雪奈の背に回る。雪奈の肩と背がとても小さく見えた。
「それじゃ行こっか、まずは朝ご飯だ!」
そう言って華奈は、雪奈と並ぶようにして黒井芸能プロダクションを出た。晴天に恵まれ、昼に掛けて気温があがるだろうことは用意に想像がつく。ジャケットを即座に脱ぎ、雪奈の車椅子のポケットに仕舞わせて貰う。
「食べたい物はあるのか?」
男が訊ねると、二人は目配せをした。そして先日言っていた屋台、正確には移動販売車に意識が行ったようだ。
「クレープっていうやつ、そう言えば食べたことありませんね~」
雪奈の言葉に、華奈は複数回頷いたが、男は渋面を作る。
「たまにはいいじゃないですか」
雪奈は正しく男の内面を読み取ったが、我を通そうとする。そうなると、もう男にはそれを受け入れるしかなくなった。間近に在ったクレープの販売車に近づくにつれ、二人は顔を引き締め、食い入るようにしてメニューを見つめている。
「全然味の想像がつかないよ、お兄。何が良いと思う!?」
「俺がこういった類の物に詳しいと思うか?」
華奈と男のやりとりを見ていた店主は、豪快に笑ったかと思うと見本だ。とシンプルに生クリームとカスタードクリームの入ったクレープを作り、差し出してくれた。
「おっちゃん、ありがとう」
華奈は目を輝かせ、齧り付くと満足気に笑顔を浮かべて見せた。男が頬についたクリームをハンカチで拭ってやると、華奈は身体を捩じらせながら言う。
「ナプキン貰えるみたいだしいいよー」
「《アイドル》の顔に傷をつける訳にはいかないだろう。もう少し気遣え」
返す言葉もないのか、華奈は短く「むぐ」とだけ呟き、されるがままになった。
「はい、お姉」
華奈が雪奈にクレープを差し出したところで男は一つ思い出す。しかし止める間もなく雪奈は華奈の差し出したクレープに歯形を残し、そして固まった。
しばらくそのまま停止していたかと思うと、もの凄い早口で、かつ小さな声で呟き始める。
「なにこれあまあまいなんてもんじゃないわなんで生地あまいのにさらにあまいクリームになにこれカスタード正気の沙汰とは思えないあまいあまい」
顔を真っ青にしながら小刻みに震え、嚥下することも吐き出すことも出来ず身を硬くしていた。三年前、華奈に買ってやった駄菓子を彼女に食べさせられた時の雪奈と同じだ。
男が黙って雪奈にペットボトルの水を手渡すと、彼女はクレープごと飲み込み、一息を吐く。
「ありがとう、華奈。私はもういいわ。思ったよりもお腹空いていたみたい。サラダや食事になりそうな具材のクレープというのはあるのかしら?」
「普通のクレープ屋にはあるんだけど、うちは甘味だけだねえ」
「ならフルーツ――」
「――うちの自慢の自家製ジャムだ、どれも美味いぜ」
な、ん、と、か、し、て。男の目には雪奈の口がそう動いたように見えた。




