十投目
《ドレスメーカー》の電源を切断した頃にはもう夜も深くなっていた。熱帯夜でありながら、室内は快適な温度を保ち、今日も質の高い睡眠が取れそうだと床に着く。
寝返りを二度打つと、寝室のドアがゆっくりと開くのが目に入る。寝た振りをしながらも、薄目でしっかりと闖入者を確認していると、それはつい三時間前に別れたパートナーの姿だった。彼女は様子を窺うように辺りを見回すと、言う。
「困ったわ」
起きているのを確信しているかのような声調だ。狸寝入りをする必要のない男が要件を聞くと、一瞬戸惑いを見せた後、正直に話す。
「華奈が泣き止まないわ」
男はじわじわとやって来ていた睡魔を追いやると、ネグリジェ姿の雪奈と並んで彼女たちの寝室へと訪れた。基本的に男はこの場所へ足を踏み入れることはない。自室とは全く異なる香りに、当初の彼女たちの姿は結びつかなかった。
雪奈の言葉通りに、華奈は寝ながら泣くという芸当をしていた。
「さすがに、男の骨格になるのは無理よ」
雪奈の謎の言葉の意味は、それから間もなく解けた。
「ぱ、ぱ……」
そう呟き、華奈は雪奈と二人で寝ているベッドの上で、手をさ迷わせた。
朴念仁の男ではあるが、いくらなんでも察しがつく。男が華奈の手を取ると、彼女はしっかりと握り返し、そして空いた手で男の胸元を掴んだ。双方辛い体勢になり、男は助けを求めるように雪奈を見る。
「……今日はここで寝ていいわ」
「お前はどうするつもりだ?」
「あなたのベッドで――ダメね。起きた時私が居なかったら華奈のことだから泣くわ」
雪奈はため息を吐くと、華奈を挟んでベッドに横になった。横たわったまま、彼女は男を見上げ、特に色めき立つことなく言う。
「入ったら?」
雪奈に促されながらも、男はベッドを見下ろしたまま固まっている。
「早くしないと華奈が起きるわよ」
「入るスペースが、ない」
大きめのベッドとは言え、三人が寝転がれる代物ではない。それは雪奈も承知しているのだろう、彼女としては非常に珍しい発言をした。
「華奈を抱きしめて寝れば何とかなるでしょう。下心は、ないのでしょう?」
「当たり前だ」
それでも珍しかった。例えわがままを言った華奈であっても、男が抱き上げて移動させようとしようものなら激しい糾弾をされることが常なのだから。
男がしっかりと華奈を胸に抱き、そしてベッドに入る。やはり大の大人が入るとなると、ベッドは手狭だった。身動きを取る度に、端にいる雪奈にも触れることになる。
何とか雪奈に触れないように位置取りを考え、身じろぎしていると、胸の中で華奈が呟く。
「お、にぃ」
焦ったが、起きたのではないようだった。華奈は、より男の胸元にくっ付くように、擦り寄り、鼻を鳴らす。わずかなむずがゆさを感じながらも、男はいつのまにか片頬を上げていた。
男が真っ先に向かったのは五階の華奈たちの部屋だった。昔と変わらないのなら、布団を頭から被っているはずだ。そう記憶を呼び起こし、移動する。
静まり返ったレッスン場から出てすぐ飛び乗ったエレベーターの中でも、五階のエントランスホールから毛の短い絨毯の廊下を渡る途中でも、男は華奈に何と声を掛けるか迷っていた。
華奈たちの部屋を前にした男は、躊躇うことなくドアをノックする。二度三度叩いたが返事はなかった。ドアノブを捻ると、何の抵抗もなく開く。
「入るぞ」
「出てけ!」
華奈の声は、男の言葉とほぼ同時だった。
「そうだ、出て行かなくてはな。俺も、お前もだ。五十階がお前たちの部屋だろう」
「私は承諾してない!」
「しただろう。雪奈と話している時に」
「うるさい! してない!」
華奈が頭から布団を被ったまま怒鳴る物だから、声はくぐもっていた。
わずか数年前の出来事でありながら、懐かしく感じる。
「二年前、一人にして悪かった。言い訳のしようもない。雪奈が飛び降りて、その後のことだ。不安、だっただろう。雪奈の資産を掠め取ろうとする大人たちが、恐ろしかっただろう。傍に居られなくて、すまなかった」
男にとっては長く、実際には数瞬の間、静寂が漂う。
「そんな一言で全部水に流すつもり?」
「いや、俺に出来ることなら何でもしよう」
「じゃあ今すぐそこから飛び降りなさいよ。丁度お姉が飛び降りたのと同じ高さよ」
「それは出来ない。俺はもう二度と自ら命を軽んじる行動は取らないと決めた。それが自分の命であろうと、他の人間のものであろうともだ」
「償う気がないんでしょう」
華奈は静かにそう言って、枕を男に投げつけた。顔面でそれを受けた次の瞬間には、華奈は男の横を走り去っていく。少し遅れて男がその背を追う。ほんの数秒の差で先行されてしまい、エレベーターが下がっていく。
「相変わらず足が早い」
階段を探す間に、エレベーターは地上一階で止まった。男は諦めてエレベーターを呼び、その速度にやきもきする。雪奈に頼ろうとする思考が過るが、それには及ばなかった。
男は五十階でエレベーターを降りると、失笑する。そこはに思った通り、最上階同様に展望スペースが存在した。ガラス張りの壁面から地上を見下ろし、そして目的の物を発見する。
改めて黒井プロから外に出ると、この辺りで一番樹齢の高そうな樹の元へと足を運んだ。見上げると、そこには華奈がいる。
「お前は変わらないな。向こうと違って日本の樹は堅いだろう?」
華奈は大樹の中ほどの高さで、枝にのしかかるようにしていた。それはまるで野生動物が外敵から逃れ、休んでいるようだ。一度男を見下ろすと、再び彼女は目を閉じた。
「降りられなくなっただろう? 今そこまで行こう」
男はスーツの上着を脱ぎ捨て、数年ぶりの木登りを始める。
「バカじゃないの、いつまで子供を相手にしているつもり? 降りられるわ」
「そうか。しかしせっかくの機会だ、俺も登ろう」
運動不足の男は、悪戦苦闘しながらも木登りを続ける。華奈のいる高さの四分の一程度の箇所で、息が上がり始め、休み休みよじ登る。
「無様ね」
「そうだな。何、俺が様になったことなど、ない」
華奈のところまで後三分の一、四分の一、五分の一。そして、というところで足下の枝が根元から折れた。
「お兄!」
華奈の差し出した手が宙を掴む。が、元よりその甲斐はなかった。折れた枝の根元に、シャツが引っ掛かり、男はまるで首根っこを掴まれた猫のようになっている。
しばらく二人は無言だった。しかし、男は言わねばならなかった。
「引っ掛かって動けん」
華奈はひとしきり笑い声を上げると、気が済んだのだろう。彼女から差し伸べられた手を取ると、男は丈夫さを確かめ終えた枝に腰を降ろした。
真夏の風が濃い緑の香りを運び、木の枝葉が揺れる。心地よささえ覚える葉鳴りだけが二人の間で音となっていた。静寂を破ったのは男だ。
「ありがとう。助かった」
「……ふん」
「雪奈のところに戻るか。心配しているだろう。部屋の鍵も渡しそびれている」
無言で返した華奈だったが、彼女は軽やかに大地を目指す。動き始めを見届けると、男は慎重に地面へと降り、しっかりと草の生えた地面に足を着けた。華奈へと振り返ると、彼女は沈痛な面持ちで、男を見ていた。
「そんな傷跡、昔はなかったよね?」
どこかを負傷したかと自分の身体を見回し、肩甲骨辺りから腰までシャツが裂けていること、古傷が露わになっていることに気付く。
「いつの、怪我?」
顔面蒼白になりながら問う華奈に、古傷だと、今は痛むことなどないと叩いて見せた。
「リハビリは済ませた。激しい運動さえしなければ問題ない」
誤魔化しは通じなかった。華奈は再度同じ質問を投げかける。交通ルールを破ったのは自分で、それがもたらした結果を言い訳には使えない。そう、今も思っている。男は華奈に背を向け、半歩踏み出し、呟く。
「あの日だ。だが、経過でミスをしたのは俺だ。その結果、お前たち姉妹に苦労を掛けた。言い訳にはならない」
「バカ、じゃないの」
華奈が一歩男へと歩み寄る。
「バカだ、私」
背後から、男の腰に手が回された。そのまま、背中に暖かい温度が触れる。
「でもお兄もバカ。言い訳しないのがかっこいいとでも思ってるの?」
「すまん」
朴念仁。分からず屋。唐変木。ぽつりぽつりと、華奈は不平をもらし、最後に言った。
「ごめんなさい。それから、お帰りなさい、お兄」
仲直り唐突過ぎましたかね、、、




