はじまり
「お兄、お姉が、お姉が」
霜月華奈が涙ながらに寄越した電話を受けて、男は今この瞬間まで事故を起こしていないことが僥倖としか言いようのないスピードで、車を走らせていた。
「何故だ。何故……」
異常気象がもたらす雪の降る街道はとても静かだった。男は車内の暖房を利かせるのも忘れ、掠れた声を白い息と共に放出している。担当霜月雪奈のイメージカラーである白が男の口から生まれては消えていく。
脳裏に焼き付いた血だまりの上に倒れる雪奈の姿。それが否応なしに思い出される。ハンドルを指で規則的に叩きながら、車通りの少ないその道にもそびえる信号機を恨みがましく睨み付け、かろうじて守っていた交通ルールもとうとう視界から外した。
そして、目的地の病院まで目と鼻の先まで辿り着いた次の瞬間、けたたましいクラクションの音と共に男の乗る車は半壊した。
強い陽射しを避けて、男は堅いベンチの背もたれに深く体重を預けていた。その顔色は悪く、希望も活力もないようだ。ただ生きることしか出来ていない脆弱者がそこにいる。死んだ魚のような目とはよく言った物だ。
「うーそ、つき! うーそ、つき!」
鬼の首を取ったみたいに幼い少年達が囃し立てる。対象となっているのであろう小さな少女が、その瞳に涙を浮かべている。悔しさに唇を噛みしめているが、もういつ泣き叫んでもおかしくない。
男の濁った瞳に、ほんのわずかに光が灯った。その虹彩は少女が首に巻いたチョーカーに似た《ドレス》を捉えている。彼の目にはそれが《簡易ドレス》であることが容易に判断出来た。
「うそ、じゃない、もん」
俯いた少女がワンピースの裾を掴む。何が嘘で、何が嘘ではないのだろう。男は耳を傾けた。
「じゃあ見せてみろよお前の超能力―」
「う~、う~」
男には全て合点がいった。少女が《簡易ドレス》を手に入れたこと。それの調子が悪いこと。そして少年たちがそれではなく、少女に問題があると誤解していることを。
少女は豊かなまつ毛を濡らしつつも力み続けるが、不足物のある《簡易ドレス》が機能することはなかった。
「ほら見ろ、うそつきー」
「…………何してるの?」
一人の少女の登場で、空気が変わった。例え幼くとも少年たちは感じたのだ。その少女の美しさが普遍的である事実を。
艶やかな黒髪はしっかりと光沢を放ち、天使の輪を形成し、枝分かれのない真っ直ぐなそれは癖付くことなく重力に従っている。切れ長の瞳はともすれば冷たさを表すが、どちらかといえばカッコいい印象を見る者に与える。
「女の子、泣かしちゃダメだよ」
桜色の唇から紡がれる声は、胸にすっと染み入る。少年たちは気まずそうにお互いを見合わし、素直に謝罪すると思われたその時、一人だけ強がりか何かから、口を開く。
「でも、そいつが嘘ついたのが悪いんだ」
「嘘じゃないもん!」
間髪入れずに小さな少女が叫ぶ。少女が困ったように小さな少女の頭を撫でると、少年の一人が続けた。
「そいつが《ドレス》買って貰ったって言うから。《アイドル》になるって言うから」
「そっか、《アイドル》になるんだね」
少女は小さな少女の目線にまでしゃがみ込み、柔らかな笑みを見せた。
「《ドレス》の調子悪いみたいだね、お姉ちゃんの貸してあげる――」
小さな声で続けられた言葉は、男の耳には届かなかった。ただ、予想は出来た。それは、男から見れば最大の悪手だ。彼は何ら関係のない少女たちのために、不思議と行動を起こす。
「《ドレス》は貸し借りする物じゃない」
はっきりと、その場に不審者が現れた空気が漂い始める。無理もないだろう、日中どこへ向かうでもなくスーツ姿で公園に現れる男など、それが自身でさえなければ彼もそう思うに違いない。
だからか、彼は自分の身分を表すように《アイドル》には通じるだろうツールを懐から取り出し、それを少女へと掲げた。男の誤算はそれが通じなかった事だ。
「どちらさま?」
少女は幼い少年少女を庇うように男との間に立つ。不審者と思しき男を前にした彼女は、その美貌も手伝い、並の変質者であれば踵を返す威圧感を放った。
変質者であれば一目散に退散しただろう。しかし男は変質者ではなかった。そして、やや感情が鈍化していたのが幸いした。怯む様子もなく、加えて運の良いことに、久しぶりに開いた口も吃ることなく言葉を形取れた。
「失業中の《チューナー》だ」
超能力を持った《アイドル》がその能力である《IL》を用いてパフォーマンスを行う《アイドライジング》の人気が隆盛している昨今、《プロデューサー》と言えば高所得職業の代名詞か、詐欺師の代名詞だ。だからか、男は本業を口にすることはしなかった。
「で? その《チューナー》崩れが何の用?」
子供たちが怯えているでしょう? そう、力の込められた瞳が物語っている。
「その《ドレス》、一緒に指輪が二つ入っていただろう。それはどうした」
「ちょっと」
自分の頭上を飛び越える振る舞いをされ、少女は非難するが、小さな少女は答えた。
「お母さんが危ないから預かるって」
「そうか、いい親御さんだ」
《簡易ドレス》とは言え数十センチは飛ぶ、というより浮かぶ事が出来る。操作を誤ればケガもないことはない。危険度で言えば自転車レベルではあるが、幼い少女が一人で繰るには不安を覚えるのも無理はないだろう。
「《ドレス》を貸してみろ」
幼い少女が首から《簡易ドレス》を外し、男に恐る恐る手渡す。少女は幼い少女自身が差し出したからか、それについて言及することはなかった。
男が預かった《簡易ドレス》の、幼い少女に触れていた面を観察する。金糸状の物で画かれた《回路》がそれぞれ意味を為す形で編み込まれていた。男はその一つ一つの主旨を解すると、それに手心を加える。
通じなかった名刺代わりのツールを開くと、裁縫キットのような物が露わになる。太さや長短の異なる多くの針状の物、《回路》を形成している物と同質の糸に近い物質。それらを駆使し、男が《回路》を編む。
もしもこの場に《ドレス》を調整する者の代名詞、《チューナー》が居れば目を見張っただろう。それほどの速さと正確さで男は《回路》を作り上げた。
「一分だ。《IL》を流し込んでから一分経ったら自壊するように組んである」
男は一つの嘘と共に幼い少女に《簡易ドレス》を返却した。
「じかい?」
「一分経ったら電池切れだ」
「わかった!」
目を輝かせた幼い少女が大慌てで首に《簡易ドレス》を巻く。そして、彼女は数十センチ浮かぶ。浮かんだ少女の足元には《疑似IL》の残滓である光の粒が放出されていた。その美しさに、少年たちが歓声を上げる。
「歌ってみろ」
男の言葉に幼い少女が小さく頷く。開かれたその口から、拙い歌と《簡易ドレス》が作り出した音符が大気に舞う。その光景に、最早彼女を揶揄していた少年たちの姿はなかった。
男の手を煩わせることなく、一分間限定の《アイドル》は地上に降り立った。
「おじさん、ありがとう」
小さな少女の満面の笑みに、男は久方ぶりに浮かべた微笑で、彼女に応じた。そして、その場に少女だけを残し、幼い者たちは諍いなど忘れたように仲睦まじくその場を後にする。夕暮れが近い。
「ごめん」
少年達を見送る視線のまま、少女が言った。
「逆の立場なら俺もそうする」
気にするな。そう口にしつつ、脳内では否定する。自分なら、無関係な事柄に首を突っ込んだりしないだろう。結果としては横やりを入れたが、それも今目の前に立つ少女が先にお節介をしたり諍いの元が《ドレス》であったりしなければなかったはずだ。
「あのさ、失礼ついでに重ねて何だけど、直せる?」
そう歯切れの悪い言葉と共に、少女は《ドレス》を差し出した。簡易式ではない事を男は一目で悟り、困惑顔を浮かべる。
「《チューナー》はどうした?」
「うちの事務所、いないんだ」
外注、という意味合いでないことは彼女の表情からいくら何でも察しがつく。しかし男は内心不可解に思う。子供好き、なのだろう目の前の少女が、先刻の少年たちに害を与えるとは想定出来ない。
「そんな《ドレス》をあの子に貸そうとしたのか?」
「ち、違うよ。ちゃんとあたしの《ドレス》貸すつもりだったよ!」
「だいたい《アイドル》用に《チューニング》された《ドレス》を素人に貸すという発想があり得ん。事故の元だ」
「そうなの? ごめん、知らなかった。助かったよ」
顔面蒼白とは言い過ぎだが、本気で知らなかったことは通じる彼女の顔色に、男はそれ以上責める言葉を探さなかった。
「気を付けた方がいい。後悔することになるかもしれない」
後悔は晴れない。男は今なお悔やみ続けていることから、そう断言出来る。少女が首肯し、男は改めて手渡された《ドレス》を観察した。複雑な幾何学模様と化した《回路》は信じられない程の精緻さで画かれ、肉眼ではどんなシステムを構築しているのか男の《ドレス》に関する豊かな知識を持ってしても分からない。
ただ、その馬鹿げている程の超絶技巧の塊に、一つ思い当たる名があった。
「まさか《エアリアルレイド》か?」
その名を口にした途端、少女は男の手を取った。手専門のタレントでも通じるほどの滑らかで、しなやかな少女の手に、男は心拍数が上がるのを感じ、そっと手を外す。
「見ただけで分かるの? 凄いよ!」
理解者に出会えた孤高の者というのはこんな表情をするのかも知れない。そんな笑顔だ。
しかし男の表情は暗い。たかが《ドレス》の名を当てただけだと本人は卑下している。そんな彼を余所に、少女は喜色満面で、二人の温度差が痛々しかった。
「修理出来る!?」
出来るよね? 少女の顔にはそう張り付いていた。そして、それを確信までしている節がある。見た目からはわからないが、藁にも縋る思いという必死さをその声から受け取る。
「《ドレスメーカー》で細部を調べるのが先だ」
「ど、《ドレスメーカー》か、うちの事務所あるかなあ」
軽く握った手で顎を覆うと人差し指で唇に触れ、少女が呟く。内容としては《アイドル》を有する芸能事務所としては劣悪な環境ではないかと思わせた。だが、関係ない。男はそう結論付けた。
「俺はそろそろ失礼する」
「待って。明日、暇? うちの事務所に一回来てみてくれない?」
暇と言えば暇だった。明日どころかこれから先ずっと。緩やかに減り続ける預金残高がゼロになった時、男がどういう行動に出るのかは彼自身も知らない。
「メリットがない。そもそも興味がない」
「う、メリットか。お金、はうちの事務所貧乏だし、労働、そう、労働で払うよ」
女給の真似事でもするつもりだろうか? だが生憎男にその類の趣味は無く、それがメリットとは感じ得ない。
「不要だ」
冷たく言い放ち、男はその場を後にした。少女は黙ってその背を見送った。
「よう、マホウツカイ。シンデレラの調子はどうだい?」
肌の黒い陽気な男は、親しげに男に話しかける。男もそれに対して悪印象を持っていないようで、白い歯を覗かせた。
「いい。あいつは最高の《アイドル》だ」
「それ本人に言ってやれよ? お前他の《トレーナー》たちの間でクソ評判わりいぜ?」
怒鳴りつける、オーバーワークすれすれまで反復練習を繰り返させる。諸々思い当たる節はあったが、それでも伸び続ける《スノウ》こと霜月雪奈を見ていると、つい熱くなってしまう。
「下手に褒めて伸び悩んだら、どうしたらいいかわからん」
「その気持ちもわからなくはねーけどな。レディに対して厳しすぎるのも良くないぜ?」
「気を付ける」
「おう、それがいい。たまには褒めてやれ。あと、お前もたまには休めよ」
男はここの所ろくに休暇を取っていなかった。雪奈が頑張っているところで自分だけのうのうと休んでいる気分にもなれなかったし、今が彼女の売り時だと確信し、足が棒になるまで《プロデュース》を続けた。《ドレス》の《チューニング》も、彼女のレッスンやパフォーマンス構成も、全て男一人でこなした。
本来分業して行われるはずのそれを、一人で、そしてなおかつそれぞれで一流の成果を出した結果《魔法使い》と呼ばれるようになり、その名に恥じぬよう男も努力し続けていた。
しかし、二人の努力家が辿った末路は悲惨だった。




