第9話 冷たくて温かいもの
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「……ぅ……ん…………はっ……!」
ぼんやりとした意識が、突然音を立てて覚醒した。
「え……あれ、俺……何やってん……だ?」
自分が今どうゆう状況で、今まで何をしていたのか、前後の記憶がまるで無く、ただ何となく夢をみていたような、奇妙な感覚だけが残っていた。
それからアリトは、しばらく何をするでもなくぼーっとしていた。まるで夢の続きを見るような、廻らない思考の片隅で廻り続ける記憶のように。
けれど、段々と意識は鮮明になっていき、そこでアリトは、ふと自分が自転車に跨っていることに気がついた。その自転車は、アリトが高校に入学してから新調したものであり、それから今日までの4ヵ月間ずっと頼り続けてきた相棒で――。
「……え」
アリトが自転車の存在に気づいたその時、脳裏にとあるビジョンが過ぎった。
それは、唯ひたすら這いより続ける恐怖から、逃げたい一心で相棒を裏切り、見捨てていった自分自身の姿。
「……お……い」
そして、アリトはそれをきっかけに次から次へと芋づるのようにビジョンを見つづけた。
灰色と陰に支配された世界、人っ子一人いない幽霊都市、突然襲い掛かってきた闇色に包まれたデッサン人形。
「……おい……まさか」
全ての記憶が鮮明に蘇えっていき、それらが少しつづ、少しづつ自身を満たすように同化していき――。
心臓がどくんと跳ねた。一瞬だけ呼吸が出来なくなって、体全体を悪寒が包み込んでいく。
認めたくなかった、嘘だと思いたかった。けれど、この事象について最も理解している自分の冷静な部分が、その切望を否定した。
「は……はは……そうか……そうゆうことか……」
自転車のハンドルに添えられていた、震える右手を持ち上げて、それをほんの少し凝視する。
そしてそれを見ながらまた笑い、アリトはその右手を両目に当てて上を向く。
空はさっきまでとは打って変わって曇り空。しかし、両目を手で覆うアリトにその景色が映ることは無く、ただその暗闇の中で1つ、消え入りそうな声で言葉を発した。
「俺……死んじゃったんだな……」
あと少しすれば雨が降りそうだった。アリトはビルに囲まれた路地裏の一角でそう呟いた。
帰りの道は何故だかとてつもなく長く感じた。実際、帰るのに要した時間はとても長く、本来30分もあれば着くであろう家に、既に一時間近くもかけて歩いている。
その理由は、アリトが自転車を持っているにも関わらず、乗らずに歩いて帰っていたからだ。
雨がザーザーと降り始め、このままいけば家に着く頃には全身びしょ濡れになってしまうだろう。
しかし、それでも別に構わない、とアリトは思った。今はただ、この地面をしっかりと足で踏んで歩くことが、何よりも心地いいと思ったからだ。
「俺……死んじゃったんだよな……」
チェーンをキチキチ言わせて自転車を押しながら、アリトは俯いた姿勢でさっき自分が呟いた言葉をもう一度呟いていた。その声はとても自分の物とは思えないほどに掠れ、濁っていた。
そして、"死んだ"というのは文学的表現ではない、しかし当然そのままの意味であるはずもなく。正確には。
"もう片方"のアリトが死んだのだ。
元々アリトの作った座標転移プログラムは、自分のデータを目的の位置座標に上書きするという方法で行っているわけだが。その際何かの手違いで、自分のデータが紛失してしまえば、それこそ本当に死を意味することになる。
だからアリトは、このプログラムを作る際、ある保険を掛けていた。
それは、座標転移をする前に、別の仮想空間に"自身のコピー"を取って置くというものだ。
その後、そのコピーを改めて目的の座標へと転移させた後、元の座標の自分を消去するという手順である。
そして、その仮想空間というのが、一言で言えばエリシオンの裏側の世界である。
この仮想世界エリシオンは、気の遠くなるほどの膨大なデータを量子的に保存、演算し、この世界の変動を半永久的にシュミレートしている。
そして、必然的に演算の際にはどうしてもエラーが蓄積してしまう。だからエリシオンシステムには、エラーを見つけ次第、それを自己修正するプログラムが存在する。
それが下位仮想空間。
アリトはあの夕暮れの路地裏にてコマンドを唱え、アンダーに自身をコピーした。その後、本来であればプログラムが直ぐにでも対象を転移させるはずなのだが、その時何かの干渉を受けて、アリトはアンダーにて実体化した。
しかし、本来はコピーするといっても実体化まではしないようにプログラムされている。だからアリトは、あの灰色の世界に全く見覚えが無かった。
そして、アンダーで力尽きたアリトは、本当に死んだ。
しかし、元の座標の自分までは消えることは無いため、プログラムのセーフティが働き、またあの路地裏にて目覚めたというわけだ。
一言で言って気持ち悪かった。自分は今ここで自転車を押しながら、雨を感じて、しっかりと存在しているのに、自分の死に対する先入観は、容赦なく自身の生を否定し続け拒んでいた。生きているにも関わらず、その生を自身が認めようとしなかった。それが堪らなく気持ち悪かった。
そんな感情が無尽蔵に溢れていって、それは次第に言葉となって漏れ出した。
「…………気持悪い」
理解していたつもりだった。転移をすることが何を意味するのかを。
どうでも良いと思っていた。どうせこの世界は偽者で、本物の魂などもう外の世界にすら有りはしないんだと。
だから、あの時の自分は躊躇わなかったし。自分を消すことにも何の感情も抱かなかった。
だけど、今回のは明らかに全く違った。
死ぬことが、こんなにも冷たいものだなんて知らなかった。死ぬことがこんなにも軽いものだなんて知らなかった。いざとなったら自分の命など簡単に消えてしまうのだ。
そう思った瞬間、途端にさっきまでの自分が自分だとは思えなくなって、それがますます気持ち悪さを助長した。雨はまだまだ止む気配を見せなかった。
――あぁ……もう嫌だ……考えたくない。
いよいよもって吐き気まで催して、アリトはこれ以上のことを考えるのを止めた。
しかし、何も考えない為に無心になるには、今のアリトの精神力では無理があったので、代わりに雨の音や横を走る車の音だけに耳を傾けることにした。
それからやっと家に着いたのは、辺りがすっかり暗くなった7時半ぐらいのことで、夜空は雨雲が所々に点在しているまだら模様よろしく微妙な白黒を彩っていた。
そして雨に関してはどうやら夕立だったようで、アリトが家に着く頃にはすっかりと止んでしまっていた。
アリトは、気づけば自転車を車庫へと仕舞っている最中だった。
「…………あ……」
――あれ、俺どうやって家に帰ってきたんだっけ?。
自分がどういった道を通って、どうやって帰ってきたのかまるで覚えていなかった。
「……ま、良いか。はぁ……飯作るのかったるいな……」
これが休日で、尚且つ父親が帰っている時などであれば、食事は大体父親が作ってくれたりするのだが、今日は平日である為食事は自分で用意しなければならない。
アリトは自転車を慣れきった手つきで車庫に仕舞い入れた後、家に入るべく玄関に向かって歩き出した。と、同時に玄関の鍵もポケットから取り出した。
アリトの家の玄関は車庫のある場所から小さな庭に出て直ぐのところにある。
「……どうするかなぁ。今日はもう食べずに風呂入って寝ようかな……」
正直なところ、今日は本当に色々ありすぎた。さっきと比べれば気分はいくらか楽になってきた方ではあったが。未だに心はもやもやしたままだし、これ以上考えたとしても、余計精神的に疲れるだけだなと思った。
「よし、もう今日は寝よう……。あ……宿題……は、もういいや」
そうしてアリトは、今日の予定を早めに繰り上げ終わらすことを決心し、玄関のドアノブに鍵を挿してそれを開錠の方向へとくいっと捻った。
しかし。
――あれ?
鍵は捻ろうとしても捻ることができず、ガチャリという小気味の良い音を立てて開錠する事は無かった。
アリトは一瞬だけ不審に思い眉をひそめた。しかし、その直後もしかしてと思って、ドアノブを引いてみると。
ガチャリ。
ドアは小気味良い音を立てながら、軽快にアリトを出迎えた。
「……え……何で……?」
おかしい。絶対おかしい。今朝学校に行くために家を出た時、確かにアリトは玄関の鍵はちゃんと閉めて出て行ったはずで、自分の性分上掛け忘れたなどということは万に一つも有り得ないと確信しているわけで……。
何か嫌な予感がした。それは次第に形を帯びていって、アリトの中で一つの概念を導き出した。
――はっ! もしやこれは……お泥棒さん!?
そう思い至った理由は、そもそもこの家が平日は自分以外の人間を招き入れることが無く、何年か前にも一度、泥棒に入られた経験があったからという理由だ。
そして、そう思ってしまうと途端に背筋が冷めていって、アリトは、留守を任される身である自分の本能を爆発的に呼び覚ましていった。
疲れた身体のことも、びしょ濡れになった服のことも忘れてアリトは中へと飛び込んだ。ついでに玄関のところに立て掛けられてあった一体いつからあるのかまるで分からないパター用のゴルフクラブも手に取った。
その姿はさながら、生きて帰ることを誓い、遥か彼方の戦場へと旅立っていく防人のそれと似ていた。
もどかしく靴を脱いだ後、一瞬どこから確認しようかと迷ったが、よく周りを見てみると、横にある自分の部屋に繋がる階段や、風呂場やトイレ、それ以外の場所にも一切の電気がついておらず、目の前のリビングにだけは電気がついているが伺えた。
ごくっと一つ唾を呑む。アリトは確信を持ってクラブを握る手に力を込めた。忍び足で一気に廊下を渡りきり、見つからないよう壁に張り付いて中を覗く。
もしも本当に泥棒がいたら、半殺しに出来るぐらいの覚悟があった。
少しずつ、少しずつ中を覗いていく。そして、同時にアリトは目だけではなく全ての五感をもフル活用して辺りを警戒した。そして。
「…………………………――――――!!!!」
人がいる。間違いなく人がいる。なんかよく分からないけど人の家で料理をしている。
声が出そうになるのを必死に押さえ、ともかく様子を見守った。
謎の侵入者はしばらくこちらに背を向け料理をしていた。その間、尚もアリトは壁に寄りかかったまま額に脂汗を滲ませて、ひっそりとその時を待っていた。
そして、アリトの緊張の糸が爆発する寸前、侵入者は遂にこちらに振り返った。
お互いの目と目が合う。侵入者の目が驚きに染まる。アリトの目も驚きに染る。
「……え?」
しかしそこにいたのは、ある意味では泥棒よりも度肝を抜かれる人物だった。
「…………父……さん?」
それは、普段は休日などにしか家には帰らず、少なくとも平日などで見掛けようものならシステムのバグを疑ってしまうほどの超天然記念物級な存在。
アリトの父親である上月風間だった。
「なんだ、アリトか。いつのまにそんなとこ……って、何してんだ?」
不精なボサボサ頭にインテリなメガネを付けて、スーツ姿のままチャーハンを作っていた手を止めて、風間はアリトの帰宅を出迎えた。
「え゛っ!? あの……これは、そのぉ……って! そんなことはどうでも良いよ! それより、なんで家に帰ってるのさ!?」
手に持ったゴルフクラブを慌てて誤魔化しながら、それよりも気になったウルトラレアな平日帰宅の理由を問いただした。
「びっくりしただろ? 今日は何だか上の都合で弾かれてな、よくは分からんが俺の出る幕じゃないんだそうだ」
「それで……早く帰ってこれたと?」
「わけも教えられずに癪だがな、まぁそうゆうわけで帰ってこれた」
そういって手を竦めた風間は、本当に癪に思っている感じではあったが、早く帰れたこと事態は嬉しいようだった。
「へぇー……そうなのかー……」
――やべぇ……今更ながら恥ずかしい。
けれどアリトは、そんな風間の心境とは裏腹に、さっきの臨戦態勢が今頃のように恥ずかしくなってきて、思わずそんなぎこちない返事を返していたのだった。
しかしその後、風間が追い討ちを掛けるようにアリトを更に恥ずかしくさせる一言を口にした。
「それに、こうやって息子と会話する時間が取れるんだ。むしろラッキーさ」
「え!? あ……おう、そうだな……は……はは」
そう屈託の無い笑顔で風間はそう言い、再びチャーハン作りを再開しだした。
それに対してアリトは、そんな言葉を恥ずかしげも無く言う父親に少したじろいでいた。
風間は昔からこうなのだ。幼い頃に母を無くした当時のアリトに、仕事の多忙さ故に付き添ってあげられなかったことをずっと後悔していて、昔からこうして時間を見つけては積極的にアリトとコミュニケーションを取ろうとしているのだ。
そして、その影響はアリトの中でも凄く大きなものとなっていて、幼い頃からかなり一人でいることの多い身の上だったが、今までグレてしまおうなどとは一度も考えなかったし、それに忙しい中でもしっかり自分に構ってくれていたのだ、むしろ今では感謝すらしていた。
だがやはり思う。もの凄く恥ずかしい。
アリトはどぎまぎしてしまって、この後何を話したら良いのか全く分からなくなってしまった。
しかしそこで、運が良いことに父は思い出したかのようにこんな言葉を発した。
「それはそうとアリト、お前びしょ濡れじゃないか? さっさと風呂入んないと風邪引くぞ?」
「え……あ、そうだな! うん、そうさせてもらうわ――」
これぞ渡りに船だった。一時はすっかりペースを乱されてどうなることかと思ったが、とりあえずこれで助かりそうだ。とにかく気持ちを落ち着かせよう。
そう思ってアリトは、そそくさと廊下に出てから風呂場の方へと歩き出し、そこで。
「あ、それと晩飯はチャーハンな、お前好きだろ?」
「うん、好きだけどさ……、父さん……チャーハンしか作れないじゃん」
「うるせー! さっさと風呂入れ!」
そう言って風間はフライ返しを振り回しながら、アリトを風呂場へと追いやった。
アリトも、飛ばしてくるチャーハン粒から逃げるように、風呂場へと急いで走っていった。
そんな三文芝居が何故だかとても楽しいと思った。アリトはその時、自分のどこかが温かくなるのを確かに感じていた。
そして、その口元からは自然と笑みがこぼれていた。