第8話 舞い降りし少女Ⅱ
目が飛び出るという比喩は、あながち唯の例えを意味する言葉ではないのかもしれない。
両腕を軽く広げながらその手に空気を受けて、まるで抵抗を操るかのように着地してみせたそれは、腰ほどにまである長い髪を、空気を含ませ大きく広げ、すらっとした細身の身体に夏用のブレザーを身に着けている。
さらに、そこから伸びる両手足は、まるで永久凍土から振り出したかのように白い、白く美しい素肌をしていた。
まるで、光々しさをそのまま体現したかのような少女がそこにいた。
しかしアリトを一番驚かせたのは、その髪だった。その髪は、この世界が灰色と影に支配された世界であるにも関わらず、鮮やかに彩られた黒檀のような髪をしていたのだ。
「…………綺麗……」
そんな少女の姿をぼうっと見つめながら、アリトは半ば無意識にそう呟いていた。
それをはたして聞き取ったのかそうでないのか、少女はこちらに少しだけ視線を向け、口を開き。
「……少しじっとしてて」
滑らかで、そして艶やかなシルキーボイスでそう囁いた。その手には刃渡り三十センチほどの短剣が握られていた。
しかしアリトは、その明らかな異様さには気づくことなく、ただその少女の瞳を凝視するのみだった。
そして少女はその無言を相槌と取ったのか、それ以上アリトに視線を合わせる事は無くもう一度闇人形の方へと視線を戻していった。
その横顔を呆けた目で見つめながら、アリトはその時言いようの無い妙な心細さを感じた。だからアリトは、その横顔に向かって、まるで子供が親に縋りつく時のような震えた声を掛けていた。
「……ま……待って――」
そう言おうとして、しかしその言葉の全てを言い終えることは無く、少女は一瞬で地面を蹴った。
その一蹴りはとても静かで、同時に凄まじい爆発力を持った一蹴りだった。
凄まじい運動エネルギーは、足元にある地面の一点へと集中的に注がれ、それを踏み台として反対側の、闇人形が丁度腰を起こして立ち上がろうとしていた方向へ、弾丸のように飛び出した。
それを視認した闇人形も反応が早かった。悠長に立ち上がる素振りは一瞬で消え、急速に近づいてくる脅威から早くも脱出する体勢を取っていた。
闇人形は、残っていた右腕を使って、手前にあったガードレールを支えに跳ねるように右へと飛び退る。さらに空中で姿勢を整えながら、すたっと器用に着地する。
そこへ少女も方向を転換し、さらに追随する。瞬間的に身体を左に旋廻させ、さっきまで闇人形が寄りかかっていたガードレールに右足を向け、そのまま激しく右足をめり込ませた。
ガードレールが悲鳴を上げながら無残に変形していく。そしてそれを足場にして、もう一度闇人形の方へと弾丸のように跳び出して行った。
――あっ!
その挙動を見ながら、その時アリトは気がついた。さっき闇人形が吹っ飛んだのは、この少女が何かしらをしたからなのだろう、と。
そして闇人形も、今から繰り出されるのであろう攻撃に備えるため、素早く構えの体制に入っていた。無くなった左腕は庇う事もせずに右腕だけを前に掲げ、接敵するまでの一瞬をただ待った。
少女は尚も高速で走りながら、同時にその手に握られた短剣を振りかざす。両者の距離が瞬く間に縮まっていく。
そして遂に、闇人形は先行の一手を放ち。少女は受身の一手を放った。
闇人形は真っ直ぐに少女に向かって拳を放ち、少女はそれをその手にある短剣で流れるように受け流す。
それを皮切りに両者は、次から次へと手数を増やしていった。
闇人形の繰り出す五連、六連の攻撃を、少女は短剣で確実に防御、もしくは受け流していき、わずかな一瞬の隙も逃さずに致命傷を狙って的確に反撃を加えていく。
それに闇人形も流石の速さで食らいつき、少女の一手一手を防いでいく。 お互いに決して引く素振りは見せていなかった。
しかしアリトはというと、唯々この状況に呆然としていただけだった。
闇人形と少女が繰り出すその動きに、アリトの眼は全くといって言い程追いついていなかったのだ。
次から次へと打ち出される攻撃は、その全てが白と黒の単なる軌跡にしか見えず、攻撃を打ち出す側の動きすらも、とてもこれが人間だとは思えない物理法則を完全無視した動きをしていた。というか片方はそもそも人間じゃなかった。
それでも、アリトはその戦いを必死に追い続けていた。物凄く近い筈なのに、どこか別の世界の物語を見ているような感覚ではあったが、この今目の前で行われている戦いは、アリトがVRゲームにおいて、今まで経験したどの戦闘よりも美しく思えたからだ。
「……凄い」
そうしてアリトが戦闘に見入っている頃、両者の死闘は意外にも早く終わりが見え始めていた。
元は鋭利な左腕によってアリトを弄んだ闇人形には、最早その左腕は無く、今は唯の腕でしかない右腕一本で少女の相手をしていた。
それに対して少女は、短剣持ちである。互角の力量であったこの戦いは、はなから勝者が決まっていたのだ。
闇人形の打ち出す一手を倍にして返し、その反撃でさえも少女は倍にして返し続けた。その身体にはいつしか無残なまでの刺し傷や切り傷、ひび割れが出来ていた。
そして遂に、痛みを感じないと思われる闇人形に決定的な瞬間が訪れた。
闇人形が少女に向かって水平に放った回し蹴りを、少女が短剣で受け止めたその直後、その足は遂に衝撃に耐えかねて砕け散った。
それが最後の隙だった。少女は砕けた足には目もくれず、闇人形へと一気に肉薄し、そのままの勢いで手に握った短剣を深々と闇人形の喉元に突き刺した。
その衝撃に闇人形は、一瞬まるで痙攣でもするかのように跳ね、そのままぐったりと力が抜けていった。決着がついた瞬間だった。
そして少女は、突き刺した短剣を思い切り横に薙いだ。
首がごとりと落ち、切断部からは黒い闇を盛大に噴出させている。少女はそれを浴びるように被り、身体にはべっとりとした闇をこびり付かせていた。
――なんだろう……この感じ。
その後姿を見つめながら、その時アリトは何故だか哀しいと思った。しかし少女の背中は何も語ろうとはせずに、ただ沈黙だけをその場に残していた。
しばらくそうしていただろうか。そこでようやく、自分の身が安全であることを今更のように認識した。
緊張の糸が一気に解れる。体中から力が抜けていく。
「……はぁ……ぅ……」
そして、その限界もやってくる。
すぐに意識が薄れて目が霞み、次第に腰を起こしていられなくなっていく。
最後には前のめりに倒れこんで、頬を地面に押しつける形となった。
今まで何故倒れなかったのかが不思議で仕方がなかった。
アリトの意識は、今までの帳尻を合わせるかのようにどんどんと急速に薄れていく。
――はぁ……やっぱり……死ぬんだよな……。
さっきと変わらず、何故俺が死ななければいけないんだという、理不尽さは消えていなかった。
だが同時にアリトは、別にそれでも良いかなとも思った。そう思えてしまうのはきっと体中に血が足りないからで、こんな感情もきっと一時の異常心理なのだろう。
しかし、それでもこう思う。せめて、自分が闇人形によって殺されなかっただけでもマシだったなと。今のアリトには、その事実だけでも十分に満足だった。
何もかもを全て受け入れて、静かにその時を待っていると、そこに少女の声が聞こえた気がした。
――え……。
しかし、既に耳もかなり遠くなってしまっていて、アリトにその少女の声を聞き取ることは出来なかった。
少女が一体何を言っていたのかが少し気になった。しかし、拡散していく意識の波は、自身の認識をどんどんと曖昧なものへと変えていき。
そこでアリトの意識は暗転した。
しかし、意識が途切れる寸前、はっきりとその言葉が聞こえた気がした。それは、こんな感じだったような気がする。
――やっと……みつけたよ――――――。