第6話 闇人形
瞬間、目の前の影が揺らいだ。
その影は今までゆっくりと少しずつ歩いているように見えていたが、アリトがそれを認識した瞬間には、既に目と鼻の先までに迫っていた。
「なっ――!!」
その"動き"を見た瞬間、アリトは最早本能的とも言える動きで、それに対して避けていた。
無意識は身体を左斜め後方へと自然に倒し、アリトはそのままの姿勢で跳躍する。
「っあ……!」
しかし、疲労した意識と身体は思うようには動いてくれず、跳躍の寸前に足が縺れてしまい、跳べはしたものの、そのまま情けなく背中をアスファルトに打ち付ける結果となってしまった。
瞬間、背中と肺に痛みが走る。アリトはその衝撃にとっさに目を瞑りそうになった。
しかし、目の前で起こっていたその光景は、むしろアリトの中から瞬きという概念を消し飛ばすほどの衝撃を持ち合わせていた。
――な……なんだ……コイツ!?。
アリトは、腰だけを起こした姿勢で目を見開いて、唯々ソレを凝視した。
それは、さっきまで自分が信じて疑わなかったソレではなく、明らかに"人ではない者"だった。
黒ずくめ。いや、デッサン用の人形のようなものがそこには居た。
姿形はどう見ても美術室などによくある人型デッサン用の頭がツルツルした人形で、身長は恐らく二メートルはあろうかという感じだった。しかしその色彩は、目に映るもの全てを飲み込むかのように深い、とても深い闇色をしていた。
だが、注目すべきは最早そこではなく、その闇人形の左腕にあった。
その腕は、とても平和的な形状をしているとは言いがたい、全ての物質を容易に切断できそうなほどに鋭い切っ先を持つ刃の腕だった。
さらにその刃が、闇人形の目の前のアスファルトを大きく穿ち、辺りにその破片を散らばらせ、道路の下を、橋の鉄骨部分が見えるほどにまで破壊していたのだった。
「……ぁ…………」
そんな非現実的な光景の中で、思考はこの状況に対して全くついていけてなかった。
何が何なのかまるで理解できなかった。眼に映るもの、耳が聞き取る音の全てが信じられなくて、元々疲れきっていたアリトの精神は遂に悲鳴を上げ始めた。
ただ、理不尽な裏切りにあったという感覚だけが頭の一番奥で鎮座している。
そして、闇人形はゆっくりとこっちを向いた。闇人形と目が合う。
今まで見た黒の中でも一番黒かったかもしれない。
その瞳は、闇人形自身の黒さにも負けないほどに黒く、深くて、カメラレンズのような球面状をした瞳が一つ、不気味な鈍色の光沢を輝かせ、アリトを捉えていた。
アリトはまるでその瞳に吸い込まれるかのように、ひたすら眼球を固定させ、その瞳に囚われた自分自身を見つめていた。
逃げなくちゃ。頭の防衛本能はしっかりとこの状況に対する危険を啓示していた。けれど何故だろう、不思議なことに身体はまったく動こうとはせず、強力な電磁石のように地面に張り付いて、頑として言う事を聞こうとはしなかった。
恐怖や生死の感覚は既に麻痺していた。この状況に対して恐怖するには、余りにも現実感が欠落していた。
そして闇人形は、ゆっくりとした、けれども確かな足取りでアリトに向かって歩き出す。その足取りは、先ほどまでの音速じみた速さとは完全にかけ離れていて、まるでアリトを試すような、むしろ、獲物を前にした捕食者のような態度でこちらに向かって歩いてきていた。
一歩、また一歩近づいてくる。
そうして何歩目かを歩き終え、遂に闇人形はアリトの目の前で立ち止まり、その刃を一瞬で音も無く振り上げた。
アリトは肘を地面につけたまま、唯々それを見つめるだけだった。
そこからの闇人形の行動は、いたってシンプル且つ平坦なもので、まるで諦めそのものをぶつけてくるかのような、ある種の失望を含んでいるように見えるそれを、諦観に満ちた刃と共に、アリト目掛けて振り下ろしたのだった。
――どうしてだよ?
高らかと振り下ろされる刃の光沢を前に、呑気にもアリトはそんな思考を巡らせていた。
――どうしてそんな眼をするんだよ?
振り下ろされる刃がアリトを両断するその刹那、その疑問にけれど闇人形は応えなかった。そしてその応えが、意外にもアリトの意識を現実へと引き戻させた。
麻痺した神経が一気に解れていき、身体の全感覚に危機感が行き渡る。
瞬間、アリトの身体に力が燈る。
それはまるで、電池を交換したばかりのミニ四駆のような、身体全体を力が満たしていくような充実した感覚だった。その間、実にコンマ五秒。
鈍色の刃が凄まじい速度で迫る。
そして刃がアリトを切りつける寸前、アリトは身体を思い切り右に捻った。
アスファルトの上をごろごろと転がる。
その後、今の勢いを起き上がりに利用して、アリトはぐらつきながらも立ち上がり、きっと闇人形に視線を向ける。
まさしく間一髪だった。もう少し自覚が遅ければ今頃真っ二つにされていたであろう。
それから次に、間髪入れることなく覚醒した意識でもって周りを確認する。
底までぶち抜かれた橋のアスファルトに、その破片。さらに脱出経路となるであろう背後の道を横目にちらりと確認し、最後に闇人形を見る。
その動作は、いつもアリトがやっているVRFPSでのネギ戦士そのものであり、その眼はまさしく闘う者の眼であった。
反対に闇人形は、固まったままモノアイだけをこちらに向けているだけで、もしこれにまともな顔があったならば、恐らく驚愕の顔が張り付いているだろうことは容易に想像できた。
――よし……とにかく逃げることだけ考えよう。この世界にだって痛みはしっかりとあるんだ。ほんと、なんで馬鹿みたいに竦んでたんだよ、俺!
自らを何とか奮い立たせ、今となってはどうしようもない罵倒を自分自身に浴びせつつ、これからどうやって脱出するかを、その頭で必死に導き出そうとしていた。徐々に思考が加速していく。
しかしアリトは勘違いをしていた。闇人形が一体どういう存在だったのかを。
その時、たった今目の前に"いたはず"の闇人形が姿を消した。
「……あっ!?」
その消え方は、影が揺らいだような一瞬で、闇人形に意識を集中していたアリトにも、何が起こったのかは全く分からなかった。
次の瞬間、何故だか右肩が軽くなったような気がした。
さらに、同時に一瞬だけ右肩を突き飛ばされたような感触もあり、アリトはその奇妙な感触に疑問符を浮かべた。
そして、そこは本当に軽くなってしまっていた。
「…………え……?」
今まで生きてきた中でこれ以上の間抜けな声があっただろうか。
アリトは不自然な身体の感覚の元を辿るべく、自身の右肩を見た。困惑。
無かった。
それは本来、腕に対して使う言葉ではないだろう。しかし、今のアリトの身に起こったその現象は、それ以外に言い表しようがないほどに合致していた。
「え……ぁ……へ?」
――なにこれ……? なんだよこれ、嘘……だろ…………?
そして、認識はすぐさま自覚へと移行し、アリトの右肩は思い出したかのように激しく泣き叫ぶ。すぐ近くにその片割れが●●ていた。
「……う……ぐぁああああああああああああぁぁぁぁぁーーー!!??」
それは痛みと呼べるものなのだろうか。あるべき場所にあるべきものが無いだけで、ここまでのことが本当に有り得えてしまうのか。灰色の世界が次から次へと赤く染め上げられていく。
アリトは焼けるような激痛に顔を歪ませながら身悶えた。ただ必死にその痛みから解放されることだけを強く願い、それ以外のことは全て思考の埒外に追いやった。
だからアリトは、闇人形がいつの間にか自身の背後にいたことにも全く気づかなかっし、そもそも闇人形の存在すらも一瞬にしろ忘れていた。
「あああぁぁ……ぁぁぁ…………っ!?」
長く、長い数秒間の後に、そこでようやくその存在を思い出した。アリトは振るえながらもばっと背後を振り返る。
そこには、先ほどのようなゆっくりとした足取りで近づいてくる、闇人形がいた。
アリトはその得体の知れない魔物に向かって、自分でも信じられないほどか細い声をかけていた。
「……や……めろ……」
右肩を押さえながら震える足で後ずさる。闇人形もそれに合わせて歩き続ける。僅かに残っていた抵抗心が崩れていった。
――なんだよこいつ……最初から俺で……遊んでたってことかよ……!
深い絶望と、恐怖の眼差しで闇人形を見る。
果たしてそれは錯覚だったのか、はたまた事実なのか、闇人形はそのモノアイに僅かな微笑を浮かべていた。
そして、それを見た瞬間、アリトは全てを悟った。逃げられない、と。
しかしそれでもアリトは足を動かし続けた。逃げられないと悟ってしまったからこそ、尚更逃げる以外の選択肢が思いつかなかったからだ。
未だに響き続ける右肩の痛みに耐えながら、アリトはさらに後ずさる。
その間も闇人形は歩く速度を緩めることは無く、ひたすらにアリトの歩行に合わせて歩き続けていた。
そして遂に、いつかは起こるであろう後ろ向きに歩いていたが為の必然が起きてしまった。
「うわっ」
上擦った声を上げながら、アリトはたまたまそこにあったアスファルトの破片を踏んだ。そして成す術も無くバランスを崩し、尻餅をついて倒れこむ。
それがこの演目の最終章の合図となった。
闇人形は当然のようにその隙をつき、一瞬で距離を詰めてアリトの目の前に立つ。
その動きは、早すぎてまともに認識できなかったが、何となくホバー移動のようにも見えなくもなかった。
しかし、それに対しアリトは、全く動くことが出来ずに、声すらも満足に出せず固まっているだけだった。
闇人形は音すらも立てずに目の前で浮いていた。それが異様なまでに不気味に感じられて、アリトは戦慄した。
そして、無機質でいて確かな邪悪さを纏って佇む闇人形を見上げながら。
その時確信した。
――あぁ……俺……死ぬんだ……。
それは簡潔にして、皮肉にもアリトがこの世界に迷い込んでから初めて理解できた正解だった。
そんなアリトの感慨など気にも留めることはなく、闇人形はその腕の刃を無感情に振り上げる。二者は偶然にも先ほどと全く同じ構図で対峙していた。
しかし、先ほどとは違って、今この瞬間にも右肩からは止め処なく血が流れ続けており、意識は流石に朦朧としてきていた。腕は相変わらず悲鳴を上げ続けている。
――……ん?
薄れ行く意識の中で、アリトはそれに気がついた。
――……あぁ……まただ……。
振り上げられた刃を無視しアリトは凝視する。それは、先ほどにもアリトが闇人形に見ていた、その眼だった。
アリトはその眼を見ながら、今度は声に出してその疑問をぶつけてみた。
「なぁ………どうしてそんな眼をするんだ……?」
しかし闇人形は、その疑問に応える代わりに、鋭利なその腕を勢いよく振り下ろしたのだった。
そこで力尽き、アリトは瞳を閉じた。