第11話 下駄箱の置手紙
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生徒たちが昇降口に次から次へと入っていっては通過するを繰り返している最中、アリトだけが棒のように立ち止まったまま動こうとはしなかった。
いや、この場合動けなかったという方が正しいかもしれない。
唯でさえ昨日、アリトの人生の中でもこれ以上は無いんじゃないかと思うぐらい数奇にして怪奇な現象に巻き込まれ、未だに訳が分かっていないというのに、今度は意味深なメモの切れ端ときた。
ここまで来ると、こんな紙切れ一枚にすら何かあるんじゃないかと、多少なりとも疑いを持ってしまう。
しかし、アリトは恐る恐る、この紙切れに触れた瞬間、昨日のような反転世界にまた飛ばされてしまうのではないか、などという想像を廻らせながらも、思い切ってそのメモを手に取ることに決め込んだ。どの道このメモを素通りすることなど端からアリトの選択肢には無いのだから。
上履きを取ろうとしていた右手を左にスライドさせ、置かれていたメモに手を触れさせる。
その瞬間、またしても視界がぐにゃりと歪んで、自分の今いる場所全てが灰色に染まり――――などということは一切無く、メモは物言わずアリトの手によって摘まれていた。
そして、摘まれたそのメモは綺麗に小さく折り畳まれていて、どうやらその裏には何事か書かれているらしいことが、うっすらと滲む黒のペン跡から推測できた。ふぅ、とまずは一息。
「ま、んなわけ無いよな……」
アリトは半ば自嘲気味に今さっきまでの思考を、そう言って一掃した。
それにしても、疑いに出てしまうのは今のアリトの精神状態からして必然だったとはいえ、随分と飛躍した想像をしたものだ。
しかし、何はともあれこれが安全な物だという保障ができたことで、次に起こすアクションは一つしかない。
「どうせならラブレターとかの方が、昨日の見返りとしては嬉しいんだけど……」
そんな下らない下心を何となく口にしながら、アリトはしばしメモを見つめた後、生唾を飲み込みそれを開いた。
文字は横字に書かれていて、一つ一つが惚れ惚れするほど丁寧に書かれていた。アリトもそれに思わず敬意を払い、左から右へとこちらも丁寧に読み進めていく。そして一瞬の硬直。からの驚愕。
「………………えっ!?」
そこに書かれていたことがしばらく理解できず、しっかりと五秒ほども硬直してしまっていた。
しかし、止まっていた思考を直ぐに頭を振って奮い起こし、書かれていた文面をもう一度読み返す。
今度は存外にもすぐに理解することができた。しかし、文として理解することが出来たとしても、その意味までは理解することは出来なかった。
「……どういうことだよ……それ」
アリトは気持ちの悪いものを見るような目でそのメモを無意識に視線から遠ざけていた。
そのメモにはこう書かれていた。
『今日の放課後、屋上で待ってる。知りたいんでしょ? 昨日のこと』
結局、その日の授業は全くと言っていいほど頭に何も入ってこなかった。
昼休みを迎えて、食事をしていても味などはろくに感じなかったし、掃除の時間が終わった時には、自分が一体どこを掃除していたのかすらいまいち記憶が定かでなかった。
ただ頭に廻るのは、あのメモのことばかりで、他のことなどは至極どうでも良くなっていた。
そうしていつの間にか最後の授業が終わりを迎えようとしていて、アリトはそこではっと意識を覚醒させた。
号令が掛かり、周りが立ち上がるのを見て、アリトも急いで席を立ち上がる。みんな馬鹿正直に礼などはしない、それはアリトも同じだ。頭では相変わらずさっきと同じことを考えていた。
しかし、今度はそればかりではいられなくなっていた。遂に約束の放課後がやってきてしまったのだ。
ここで行くか行かないかを決めねばならない。
形ばかりの号令が終わり、気の早いものは早くも教室を飛び出して何処へやらへと行ってしまう者がいる中、アリトはとりあえず自分の席に座りなおして腕を組み、眼を閉じてもう一度あのメモの文面を思い出す。
そこに書かれていたことが本当である可能性、もしくはただの悪戯である可能性の最終審議をしてみる。
アリトの極めて平凡な思考は、未だに警鐘を鳴らしていた。もしこれがただの偶然の一致で仕掛けられた悪戯などであれば、次の日から自分は特定の連中などの笑いの種にされるのは必至であろう。そもそも、書かれていることが余りにも不明瞭すぎる。
しかしそれでも、アリトの極めて本質的な思考部分は、溢れ出る感情の波を助長していた。
悪戯である可能性などどうでも良い、もし本当にあの時のことを教えてくれるなら、自分は何だってしてみせる。
答えは既に決まっていた。
「よし……!」
アリトは閉じていた眼を開いて、机の横のフックに掛けていたカバンを手にとって、教室を出る。
するとその時、学校のチャイムが、アリトの耳を強く打った。
時計の針は午後4時を指していて、多くの生徒はそれに合わせて各々部活や帰宅などを開始する。
そして、アリトとはというと、普段は近づきもせず、遂には一度たりとも足を踏み入れなかった一般棟屋上へと歩を進めていた。
アリトの学校の屋上は二ヶ所あって、一つは立ち入りが許可されておらず鍵の掛かった旧校舎。もう一つは教室などが集中している一般棟の屋上である。
つまりはメモに書かれた屋上というのは、一般棟屋上のことであろう。
教室を出て廊下を真っ直ぐ進んでいって、屋上への階段がある4階校舎に繋がる階段を目指す。
いつもは通らないルートにほんの少しの新鮮味を感じながら廊下を渡り、四階まで一直線で行ける階段に到着する。
そして、その階段を上り始める。
多くの生徒が下に向かって下りていく中、アリトだけが上に向かって上っていて、それが妙に居心地が悪かった。
アリトはそんな気持ち悪さから眼を背けるように、微妙に駆け足になりながら、一段飛ばしで階段を駆け上っていく。
その間、頭の中ではさっきのメモのことを考えていた。
――――知りたいんでしょ? 昨日のこと。
脳裏に知りもしない誰かの声が響いた気がした。
――一体……誰なんだ。
自分は知らないにも関わらず、誰とも知れない存在は自分を知っていた。
そう考えた途端、アリトはますますメモの主に会わなくてはいけないような気がして、より一層階段を駆ける速度を高めていった。
そしてアリトは、同時にあの時のことをもう一度思い返していた。
――あの時のことは、俺だけが知る俺だけに起こった現象のはずだ。
――まさか、俺と関わりのある学校の奴が同じタイミングであの現象に巻き込まれたなんてこと、あるはずが……。
そう、あるはずが無いのだ。
何故なら、あの反転世界は、表であるこの世界とは本来隔絶された閉鎖空間だからだ。もし自分以外の誰かが同時に巻き込まれたのならば、もっと沢山の人がいても良い筈だし、仮に通り魔的に襲われただけだとしても、それでもやっぱり有り得ない。
これは仮説だが、闇人形はアンダーエリシオンに存在する意識データにしか手を出せなかったからだ。
もし、闇人形が人を選ばずに自由に反転世界に拉致できるのならば、アリトがそうなる前から何かしらの行方不明事件の報道があっても良い筈だ。
そして、この仮説が正しければ、巻き込まれた人間はアリトのようなアンダーと関わりのある人間だけになる。
となれば、この学校でアンダーに関わっていそうな人物は、憶測だが恐らく自分しかいない。
だから、有りえる筈が無いのだ。
しかし。
――あれ……?
そこで脳裏に何かが過ぎった。
それは小さな種だった。だが瞬く間に肥大化していったそれは、一気に臨界に達して弾けとんだ。
その刹那、アリトの脳裏にとあるビジョンが浮かんできて、その奔流が濁流のように水かさを増し、一気に頭の中を埋め尽くしていった。
「……まさか、あの時の!?」
そう思い至った瞬間、アリトは階段を上る足を止め、息を荒げながらその存在のことを思い出していた。
それは、自分が闇人形に殺される寸前、突然舞い降りてきて自分を救った黒檀のような少女の姿。
艶やかに流れる長い黒髪、永久凍土から掘り出したかのような白い四肢。
どこを取っても非の打ち所の無い造形美。
あのような完璧な美しさを持つ少女がこの学校の中にいるわけが無い。
そう思っていたからこそ、アリトは今までずっとその可能性を無意識の内に除外し続けてきた。
「いや、でもまさか……そんなわけ……」
けれど、アリトはその存在を自覚しても尚かぶりを振って否定した。
そもそも、自分はしっかり見ていたはずだ。闇人形に対して互角の、いやそれ以上の力で圧倒し、奴の頸を刎ねる様を。
あれは人間じゃない。眼を閉じれば思い出す。
あんな無謀な力を持った者が人間であるはずが無いのだから、当然この学校の生徒であるはずも無い。
しかし、もう一方でアリトの冷静な部分は、あくまで合理的な考えを出していた。
確かに彼女のような存在がこの学校、いやこの世界にいるとは到底思えない。
けれど、アリトはあの世界で確かに彼女の声を聞いていた。
人っ子一人いない灰色の世界で有逸まともに聞けた人の声。
一度それを意識してしまうと、アリトの中ではもうその可能性以外が考えられなくなってしまっていた。
有り得ないことだが、一番候補としては有力だった。
しかし、もし本当にあのメモを送ってきたのがあの少女であるならば、どこかで自分と面識があるはずと考えるのが当然である。
アリトは再び階段を上り始め、この学校で彼女のような人物と面識があったどうかを考えてみた。
結果。分からなかった。
そもそもあの時、顔を見たのがほんの一瞬のことだった為、あらためて思い出してみると、いまいち顔立ちが浮かんでこない。
というかそれ以前に、アリトはこの学校で女生徒などという別次元の人間とは関わった記憶がそもそも無かった。
――くそっ、とにかく会ってやる。そんで確かめてやる。
アリトは、これ以上出ない答えを探すのを断念し、ひたすら残りの階段を上ることだけに専念した。
一段、また一段と飛ばしながら上っていく。その心にあるのは、ひとえに屋上にいるはずの人物に対する好奇心だけだった。
そして瞬く間に4階屋上前の階段へと辿り着き、アリトはその階段をも一段飛ばしで上っていった。
そこは微妙に薄暗かった。目の前には屋上へと繋がる扉がある。
アリトはその扉の取っ手に手を伸ばす。
「…………う……」
しかし、寸でのところで躊躇った。
ここを開ければ全てが分かるかもしれない。アリトの溢れ出る好奇心の渦は、一秒でも早くこの扉を開けたがっていた。
しかし、同時に恐ろしくもあった。ここを開いた瞬間から、自分は何か大きな出来事に巻き込まれるかもしれない。
アリトの直感がそう告げていた。
しかし、それでもアリトは扉を開くことに決めこんだ。やはり知りたかったのだ。自分の知らないところで何かが起きている。なのに自分はろくに知りもせずただ巻き込まれているだけ。それがどうしようもなく許せなかった。
アリトは伸ばしかけていた手で取っ手を掴み、一度大きく深呼吸をしてから、それを躊躇わずに捻ってみせた。
ガチャン。
家のドアとはまた違った音を立てながら、扉は僅かな抵抗と共にアリトによって開けられた。
瞬間、ぴゅうと冷たい一筋の風が頬を撫で、それはさっきまで屋内にいたアリトにとっては気持ちの良いものに感じられた。空はとっくに晴れていた。
屋上は校舎の一部に鉄柵を用いて設置された、割と大きめのスペースになっている。
そこからは東京都心が見渡せて、元々この学校がちょっとした丘の上に建っているせいか、たかが5階相当と言えどもそれなりに高く見渡せた。
アリトは未だに手を掛けたままだった扉の取っ手から手を離し、そのちょっとした絶景に息を呑んでいた。
「……凄い、こんなのがこの学校にあったんだな……」
そう言ってアリトが素直な感想を述べていると、途端に後ろの扉がバタンと勢い良く音を立てて閉まった。
「…………っ!?」
それに驚いたアリトは、とっさに後ろを振り返った。
――なんだ!? やっぱり罠か何かだったのか!?
――冗談じゃねぇよ! せっかくここまで来たっていうのに!
アリトは素早くドアに取り付いて取っ手を握り、それを思い切り手前に引いた。
「あ、あれ……?」
しかし、扉は鍵が掛かっているわけでも、開かないように押さえつけられているわけでもいなかった。
扉は勢い良く開かれて、そこには誰がいるわけでもなく小さな塵たちが外の光を受けてキラキラと輝いているだけだった。
「…………あ」
その瞬間アリトは気がついて、恥ずかしさのあまり顔を一瞬で紅潮させた。
――なんだよ……! たんに勝手に閉まっただけじゃん……!
この世界に存在する全ての扉が、開かれたらそのままであるわけがないのだ。
もっと早くに気づくべきだった。
アリトは掴んでいた取っ手から再び手を離し、恥ずかしさで微妙に目を伏せて、周りに人がいなかったかどうかをキョロキョロと確認しだす。扉はまたしてもバタンと音を立てて閉まっていった。
――クソ、こんな所誰かに見られでもしたらそれこそ密かに笑い者にされ……ん?
アリトが必死に周りに誰もいなかったかどうかを確認して見ていると、その時何かが視界の隅を横切った気がした。
「…………えっ」
思わず小さく声を漏らす。しかし、それはこの屋上での自分の愚行を見られたかもしれない、という危機感からではなかった。
もう一度それに視線を合わす。今度はしっかりとその存在を確認した。
その刹那、アリトの脳裏にまたあの時のビジョンが過ぎった。
「うそ……だろ……?」
その姿を見た瞬間、アリトはとある女生徒の存在を思い出した。
いつもでもどこでも黒縁メガネをかけていて、少し暑苦しい言動が目立つ現生徒会長の横で、いつもクールに佇む姿は全校生徒の中でも有名で、密かに男女問わずの憧れの存在になっていた。
しかし、とかく他人に興味の無かったアリトは何故だかその存在のことを忘れてしまっていた。
女生徒は鉄柵に両手をつきながら、吹き抜ける風に黒檀のような髪をたなびかせ、夏用のブレザーに身を包む身体からは、永久凍土から振り出したかのような白い四肢を伸ばしている。
アリトは信じられないものを見る目でその上級生を見つめていた。
「副……生徒会長……?」
アリトの通う高校の2年生にして副生徒会長、姫塚沙耶がそこにいた。