8.敵情偵察される側
敵さん視点。6・7話と併せてお読みください。
猛毒注意。
妙な視線を感じる。
グランティシェクがその視線に気付いたのは、ごくごく最近のことだった。
正確には、昨日の夕方。しかも仕事中に、という何とも奇妙なものである。
視線といっても、気分が高揚する類のものではない。どちらかといえば敵意の籠ったものなのだが、不思議と「悪意」のみによって構成されているわけではないようだった。じゃあ何なのか、と言われても困るのだが。
(今のところ、実害はないか)
突き止めようとすれば簡単なはずだが(何せ、相手に隠す気はなさそうだ)、今すぐどうこうなるものではなさそうなので、少し様子を見ることにした。用事があるなら、いずれ向こうからやって来るだろう。
それに悪意の塊なら、周りにいくらでもある。
そう、今だって――。
彼は今、宮廷図書館の一角にいた。机の上に大量の書籍を積み上げ、その中に埋まっている状態である。さながら要塞を築いているかのようなそれは、この場所では頻繁に見られる光景でもあった。
二階の第二閲覧室には、ここ最近、ほぼ毎日訪れている。宰相秘書官といっても、常に執務室に詰めているわけではない。複数の秘書官が分担して業務をこなしているので、仕事場所も一箇所とは限らず、業務内容によっては執務室を離れる場合もあった。
グランティシェクは、「一人で図書館調べものコース」が大半である。それは能力を買われているのか、あるいは性格的なものを勘案されているのか、もしくは気を遣われているのか。いずれにしろ、他の同僚とは異なった仕事を回されることが多く、その所為であれやこれや言われることが多いのもまた、事実だった。
これほど面倒なことはない、と彼は思う。
上官の、部下に対する仕事の割り振りは的確で、采配も見事なものだ。それが分からず、無駄に騒ぎ立てる無能共。
今の仕事は満足のいくものだし、職場環境も概ね良好だが、一部同僚に恵まれていないのは嘆かわしい。あの連中を一掃出来たら、どれだけ全体の効率が上がるだろう。
しかし、直ぐにそれが実行できないところが、世の中――いや、貴族社会の弊害でもある。今はただ、耐えるより他になかった。
そう、今だって――耐えるしかない。
グランティシェクの陣取っている場所は、書架によって死角になっている。だから彼の姿は、入口近くからは全く見えず、離れている閲覧席からも見えづらい。
しかも彼は今、大量の書籍群に埋まっている状態である。誰かいるな、くらいは分かっても、人物を特定するには、かなり近付かないとならないはずだ。
であるからして。
仕方がないのかもしれない、この状況は。
まさか悪意の矛先である自分が、ここにいるとは思っていないのだろうから。
本人がいると知った上で、わざと悪口を並べ立てるほど、彼らも考えなしではないだろう――と、信じたい。
そう割り切ったものの、グランティシェクは盛大に溜息を吐きたい気分になった。もう、いい加減うんざりだった。
何故、こう、毎回毎回同じ会話を繰り返すのだろう。あれか、ボキャブラリーが不足しているのか。オツムが弱いのか。単純な頭の構造をしているが故に、単調な会話と行動しか出来ない、可哀想な人たちなのか。だとしたら、憐れんでやろう。それこそ、盛大に。
彼らが日々を無駄に過ごして、いや繰り返しているのは、あるいは願ったり叶ったりかもしれない。そうやって時間を無駄にしている間に、こちらは着々と準備を進められるのだから。また、いずれ彼らの評価が下がっていく様を見るのも、悪くはなさそうだ。
そう思えば、目の前で繰り広げられる茶番も風景の一つとして、人物もオブジェの一つとして認識出来る。
(まあ邪魔は邪魔だが)
例えて言うなら、目の前を飛び回る虫の如く。
どんどんエスカレートしていく罵詈雑言(のレベルに達した、遂に)。どれだけ言われようと、おまえたちのような低知能生物は相手にしないぞ、と言ってやりたい。いっそ、言ってしまおうか。「黙れ、莫迦」とでも。ああ、シンプルでいいかもしれない。
などと投げやりなことを思っていると、予想外の出来事が起こった。
「黙りなさい」
第三者の声。凛とした、まだ若い女声。張り上げるような大きな声というわけでもないのに、その声は一帯に響き渡った。
途端、静かになる二人組。
グランティシェクのいる場所からは、声の主は見えない。聞き覚えのない声なので、直ぐには人物を特定出来ないのが残念だ。
察するに、おそらく、相手はまだ少女の域を出ていない。落ち着いた声色ではあるが、それでも大人ではないだろうと考える。口調からすると、王族であることはほぼ確実だ。もう少し何か喋ってくれれば、特定出来るのだが。
「貴方たち……先ほどから、庶民だ貴族だと、随分と身分に縛られた発言をしていたようだけれど、その考え方は古いのではなくて?」
思いがけない言葉だった。
てっきり、図書室で騒いでいることを咎めたのだと思ったからだ。
そんな低レベルなことで王族(しかも年若い少女)に窘められる貴族(しかもいい大人)って何だろうかと一瞬思ったが、深く考えないことにする。
それよりも、彼女の発言が気になった。
少女の言葉は続く。
傾聴していると、なるほど筋が通っている。バルトン公を引き合いに出したところも、なかなか上手い。効果は絶大だろう。
とっさにこれだけ言えるのだとすれば、大したものだと思う。頭の回転も悪くないようだ。
最後に「くだらない」と一蹴した少女を前に、困惑したような様子の二人。
もごもごと一人が何か言うも、言葉になっていない。
(どうでもいいが……まさかこいつも、相手が誰か分かってないのか)
名前を呼んでいない辺りが、いかにも怪しい。きっと、「え、誰、この子。王族? でも顔分かんない。やばい、どうしよう。取り敢えず“殿下”でいっか」とでも考えているに違いない。
いいざまだ。せいぜい、不興を買わないように努力するんだな。
と他人事のように思ってみても、彼自身も首を捻る。例えば、あの場に自分も出て言って、相手を認識できるかどうか。
グランティシェクは頭を働かせる。彼にとって、こんなことに頭を使うのは、珍しいことだった。
(現在、王宮にいる姫は……)
去年、第十二王女が輿入れをしたはずなので、残っているのは十三番目と十四番目。これは、現国王の姫君たち。そして厄介なことに、王太子にも年頃の娘がいる。
四十代中頃の王太子には、既に独立した者を含めて、十八人の子供がいる。しかも、現在も何番目かの妃が懐妊中。どれだけ王位継承者を増やすんだ、という勢いである。
これだけいるのだから、王族全員の顔と名前が一致しない、もしくは覚えられなくても、仕方がないといえる。まあ、自分の顔を覚えていない奴は不敬罪だ! などとのたまう王族もおらず、これまた実害がないので、グランティシェクにとってもこれまで放置してきた問題だった。
該当しそうなのは、十三番目と十四番目。そして、王太子の娘達。
そのなかで、この少女は誰なのか。
(分からないな)
おそらく、目の前の連中と同じ状態になってしまったことが、唯一無念だ。
(マリーヴィエ殿下でないのは確かだろうが)
国王に最も愛されているという、病弱な第十三王女。
(彼女がここに来るはずはない)
そうこう思考しているうちに、同僚二人は退出していく。そそくさと出ていく様子が直に見られなかったのは残念だ。どんな顔をしていたのやら。
他人の不幸を喜ぶほど性悪ではなかったはずだが、今のやり取りはグランティシェクの心を満足させるものであったことは認めざるを得ない。
一言でいうと、すっきりした。
自分の心を晴れやかにさせてくれた人物を拝もうと、少し位置を変え、積み上げた本の隙間から顔を覗かせる。
腰にまで届く髪の毛が、ふわりと揺れた。薄暗い室内に映える、明るい茶色。
目に映る横顔には、まだ幼さを残している。美しく見せようと着飾っているわけでもなく、どちらかというと素のままといった感じだが、年相応の愛らしさがあった。
そして、その王族らしからぬ服装――まるで庶民のような恰好に目がいく。
(あれは……)
そこで、はっとした。
この春から王立女学院に通っているという、変わり者の王女がいた。
尊敬する宰相から良く聞く名前。マリィ。いや、違う。確か――。
(マリーヴィエ)
もう一人の、マリーヴィエ殿下。
普段、ヴィレム・バルトン宰相は、彼女のことを「マリィ」と呼ぶ。彼以外にそうと呼ぶ者は知らないが、「マリィ」が愛称だということだろう。
ふと思う。あの連中は、この王女が誰か分かっていたのだろうかと。だからこそ、敢えて名前を呼ばなかったのだろうかと。
勿論、それを確かめる術はない。だが、もしかしたら。
頭を軽く振る。こんなことで頭を悩ます必要があるだろうか。
しかし、つい考えてしまったことは否定出来なかった。
自分が彼女と出会ったとき、何と呼ぼうか――ということを。
普段は考えないような内容に気を取られていると、第二閲覧室の扉が開いた。気が付くと、王女殿下はもういない。またあの連中が戻って来たのかと思ったが、違った。
「相変わらずだな、グラン」
おそらく友人と呼んで差し支えないであろう人物は、自然の明かりが薄くなった室内に影を落とす。
「何かあったのか」
「や。何もないけど……って、え、その用がないのに何で来たんだ的な顔されると、帰らないといけない気になってくるんですが」
「じゃあ帰ればいいじゃないか」
「やっぱおまえ酷いよ!?」
図書館でわぁわぁ騒ぐな、と言ってやりたいが、彼は別に大声を上げているわけではない。その辺りは弁えているのだろう。
注意されない範囲で、最大級の自己主張をする――たちの悪い友人を持ったものだと、グランティシェクは溜息を吐いた。
王立学院時代の同期である彼、ライナーとは、かれこれ十年近くの付き合いになる。
由緒正しき伯爵家の三男であるというのに、何故か庶民のような言動を好む彼は、入学式の日から、こんな感じでグランティシェクに絡んできた。入学式で隣の席だったことが――それぞれ首席と次席で合格したことが、そもそもの始まりといってもいい。ちなみに、卒業式も隣だった。
と。ライナーは急に真面目な表情になり、声を落とした。
「さっきそこでマリーヴィエ王女殿下――あ、妹の方な。……とすれ違ったんだけど、何かあったのか? 泣いていらっしゃったぞ」
「泣いていた?」
どこに、彼女が泣く要因があったというのか。
グランティシェクは首を傾げる。あの低能二人組が泣いていた、というのなら理解……したくはないが、まあ出来る。
(――まさか)
グランティシェクは本の頁を捲る手を止め、顔を上げた。
「その場に、いかにも頭の悪そうな二人組はいなかったか?」
「いやそれ、特定出来ないから。誰だよ。ていうか、誰もいなかった」
「そうか」
それならいい、と作業を再開するグランティシェク。
「良くねぇよ。――こら、こっち向け」
影が濃くなる。
(ああ……)
頭上の友人の下で、グランティシェクは覚悟した。
これから最大級に鬱陶しい展開が待っている。
「お・ま・え・が!
泣かせたのか、泣かせたんだな、泣かせたんだろう!? 何かあったんじゃないな、何かしたんだな。ほら吐け、はよ吐け、今すぐに!」
鬱陶しい。何という鬱陶しさだ。そして人を指差すな。
責めているにしては、やけに楽しそうな表情のライナー。嬉々として迫ってくるその様子は、鬱陶しいことこの上ない。
しかも彼の場合、分かってやっている分、余計にたちが悪い。ちょっと知恵のついた初等科生並みの扱い辛さである。
グランティシェクは手を止めた。
「何かはあったが、少なくとも俺は一切関与していない。何があったかについては、それと泣いていたことの因果関係が明確にならない以上、むやみに話すのは控えるべきだと判断する」
「ああ……うん、そうだね……。そんなまともに反論されると、反応に困るけどね……」
一瞬静かになったライナーは、しかし数秒後には勢いを取り戻した。
まだ猛攻は続くのかと、げんなりしたグランティシェクに構わず、彼は喋り続ける。
「そうか! 実際におまえと会って、聞いてた話と違ってたから、とか。そうだな、きっと。ほらおまえ無愛想だし。どうせろくに話もせずに、その仏頂面晒してたんだろ。おいおいおいおい……嫌われたら色々と不味いんじゃないかぁ?」
今日の彼の舌には、随分と油がたっぷり塗り込められているらしい。
地味にイライラ感が募っていく状況を自覚しつつ、グランティシェクは友人に再び反論しようとし――、
(何を言ってるんだ?)
話が噛み合わないというか、話が見えないというか。
何故、マリーヴィエ殿下と自分が会っていることが前提なのか、とか。
何故、マリーヴィエ殿下が自分の話を聞いていることになっているのか、とか。
何故、マリーヴィエ殿下に嫌われたら不味いのか、とか。
そこで、あることに気が付いた。
この友人は、自分の知らない情報を持っているようだ。
グランティシェクは、ライナーを目視する。情報通で知られた、こと貴族社会のあれこれに関しては、誰よりも正確な情報を入手しているであろう、友人を。
「マリーヴィエ殿下と俺の関係を教えてくれ」
「は? 何言ってんの、おまえ。大丈夫?」
憐憫を纏ったその表情は、やはり地味にイライラ感を増長させるものだったが、今は気にするまい。
「悪いが、彼女との接点が思いつかない。だがおまえの話を聞く限り、何らかの接点があるようだ。俺の知らないところで何が起こっているのか、教えてくれ」
ライナーは思わず天井を仰いだ。
一通り聞き終えたグランティシェクの第一声は、
「ああ」
だった。
他に感想はないのか! とライナーは思ったが、じゃあどんな反応を期待していたのかと言われたら、首を捻るしかない。
取り敢えず、納得――ライナーの言動との整合性が取れたことについてであろうが――してくれたので、良しとしよう。
「それで今日、ヴィレム様のお屋敷に呼ばれたのか。いきなり夕食を共に、と言われたから何の話かと思ったが……これか。確か、俺の将来に関わる大切な話だと仰っていたが」
「それだよ! ぜってーそれだよ!?
てか、だったら何悠長なことしてんだよ。さっさと帰れ!」
辺りは徐々に暗くなり始めている。直ぐにでも出ないと、ヴィレムを待たせてしまうことになるだろう。
「ヴィレム様は仕事が終わってからで良いと――」
「にしても限度があるだろ! そろそろ出ないと不味いんじゃないのか。まさか、そのまま行くとか言わないよな。ちゃんと帰って、身支度してから行けよ」
先回りをされた感じで釘をさされ、グランティシェクは口を噤んだ。実は、帰りがけに寄ろうと思っていたのだ。いつものように。
「ほら、さっさと片付けるぞ」と積極的に片付けを手伝ってくれる友人とともに(何だかんだで、彼は面倒見が良い方だと思う)、書籍を書架に戻していく。中途半端になってしまったが、進捗状況は頭に全て入っているので問題ない。戻した本もその位置を把握しているから、明日直ぐにでも再開出来る。
(ん?)
本を戻そうとしたグランティシェクは、書架と書架の間に、ペンとノートが置かれていたのを見つけた。落ちていた、というよりは置かれていたという表現が正しい。
先ほど通った時にはなかったので、それ以降に訪れた人物の忘れ物だろう。
(マリーヴィエ殿下か)
あの二人ではないだろうから、彼女しか該当しそうにない。
これからバルトン家に向かうのだから、宰相に渡しておけば良いかと考え、彼はその忘れ物を手に取った。
意図せず、ノートの最後の頁が捲れる。
(これは…………)
人のノートを見るのは悪いことだと思っている。今すぐ閉じて、見なかったことにするのが正しい選択だとも。
しかしそこに書いてあった奇妙な――間違っても、学校の授業では教わらないような文は、彼に注視させるのに十分だった。
(「敵に関する調査報告」?)
残念ながら、それ以上のことは書いていない。題目だけ書いてみた、といった風だ。
それでも、何故授業用のノートにこんなことが書いてあるのか、そもそも「敵」って何なんだと、普段なら絶対に気にも留めないようなことを真剣に考えてしまい、彼はそんな自分に驚いた。
(一体、何と戦っているんだ?)
首を傾げる。
珍しく興味を覚えたが……まあ、それを知ることはないだろう。
聞こえてきたライナーの呼びかけに答え、彼はノートをぱたりと閉じた。
こんな非コミュ人間ですが、主人公共々、これから成長(ていうか矯正)していく……はず。