2.放課後は、真っ直ぐ家に帰りましょう
終業の鐘が鳴ると、いつもマリィは真っ先に教室を出る。一年生の教室は三階にあるので、階段を降りる時間がもどかしい。
新緑の美しい校庭には目もくれず、一目散に校門へ。そこには、いつもと違って侍女の姿があった。
「ごめんなさい、待たせてしまったわね」
「いえ、そんな、とんでもないですっ」
首と両手を同時に振って、全力で否定するエナ。
そんな彼女の態度に、マリィはくすりと笑い――直後、真剣な表情になる。
「行くわよ」
「彼」の通う王立学院は、王立女学院に隣接している。そのため、登下校の際の遭遇率も高い……はずだ。
こそっと塀の影に隠れ(どこぞの貴族の屋敷のはずだが、気にしない)、通学路を窺う。ちらほらと学生が下校しているので、期待が持てた。
以前は王立学院の正門付近に待機していたものの、エナに指摘されてから、場所を変えることにした。
彼女が言うには、「分かり易い」らしい。
この発言には、マリィも焦った。何しろ、今までの行動が相手に知られていたかもしれないのだから。そうだとすると、恥ずかし過ぎる。今すぐ自害出来るレベル。
それに、自分の知らないところで、笑い者にされていたとしたら?
(無理。絶対、無理)
この先、生きていく自信がない。
ぎゅっと、目を瞑る。
「大丈夫ですよ」
「え?」
考えていることがバレたのかと、マリィは驚いた。
「きっと、今日はお会いできますよ」
マリィの懸念とは違ったことを想定していたようだが、それでもエナの言葉にほっとした。
「そうね」
「はい。
――あ! マ、マリィ様!! あの方ではないですか!」
「ちょ、ちょっと! 声、声! 大きいから!」
声をあげ、且つ身を乗り出した侍女を押さえながら、マリィは彼女の視線を追う。
何やら、全然「大丈夫」じゃなくなっていく気がする。他ならぬ、エナの所為で。
「ほら、あの木の向こうの――」
「何処? 何処?」
「あそこです!」
(「あそこ」って……)
ますます身を乗り出して騒ぐエナとは反対に、マリィは冷静に一点を見つめる。
「……何処にも、いらっしゃらないわよ」
「あれ……? えっと……あの方では?」
そろそろと指した先に見えるのは、三人組の男子学生。
三人とも良家の子息らしく、育ちの良さそうなオーラを醸し出していた。年頃の娘ならば、すれ違いざまに頬を赤らめるかもしれない。
エナが「彼」だと考えていたのは、三人組の真ん中にいる、爽やか系男子(エナ視点)だった。
「全然違うわ」
対する、マリィの態度は冷めている。
エナは、己の失敗を悟った。
「もももも申し訳ありませんっ!! あれ、えっと、その」
「いいわよ。貴女は一度しかお見掛けしていないのだから。
もう少し待ちましょう。前にお会いしたのは、もう少し後の時間帯だったのだし、あちらも今授業が終わったみたいだから」
「マリィ様……意外と、落ち着いていらっしゃいますね」
「周りに冷静さを失っている人がいると、逆に自分は冷静になるということに、気が付いたの」
貴女のおかげよ、と続けて言われたものの、素直に喜べないエナだった。
二人の「出待ち」は依然続行中であった。
あれからエナは、自分からは「彼」の姿を指摘しないことにしている。というのも、似た雰囲気の人物が何人も通り過ぎていき、誰が「彼」なのか、見当がつかなくなっていたのだ。ここは、マリィに委ねるしかない。
勿論、マリィは己の想い人を見付けることが出来る。
入学式に出会って此の方、その姿を忘れたことなんて、一度もない。
ひと目でもその姿を見たくて、当時従者として連れてきていたカレルや、交代で付き添ってくれていた侍女には、時間をずらして迎えに来て貰っていた。自習をして帰るから遅くなる、と言って。
今思えば、結構な無茶をしたものだ。
(って、いけない)
その時のことを思い出していた所為で、マリィの意識は少し、その場を離れていた。「見て」いるけれど、「視えて」いない状態とでもいうべきか。
そして不幸なことに、そうした一瞬に事件は起こってしまうものなのだ。
「――――あ」
きっと、今の自分は、とても間抜けな顔をしているに違いない。
たった今、「彼」が横――と言っても距離はあるが――を通り過ぎていったのだから。
(こ、心の準備が……!)
完全に動作停止中のマリィは、口が「あ」のまま、閉じられていなかった。
主の様子に、何事かと慌てたエナも、直後に状況を理解した。男子学生二人の背中が遠ざかる前に、主をけしかける。
「今です、マリィ様!」
「え、ちょ、待っ」
とっさに、塀にしがみ付くマリィ。
両手に吸盤がくっ付いたかの如く、ぴったりと身体を密着させる。傍から見ると塀に張り付いたカエルそのものな王女様に、しかし誰も突っ込む者はいない。
後ろを振り返ろうとしない主の背中に向かって、エナは必死に呼びかける。
「さあ、行きましょう!」
「そんな、やっぱり無理だわ」
『あのう』
「大丈夫ですよ!」
「でも」
『もしもし』
「それとも、お供致しましょうか?」
「――いえ、それは」
『お嬢さん方』
「ほら、勇気を出して下さい。マリィ様!」
「……そうね。わかったわ。行ってみま――っきゃあ!!」
決意とともに振り返った瞬間、視界に、ぬうっと黒いモノが現れた。
否。正確に言うと、前からそこにあったようだ。こちらが気付かなかっただけで。
『当家に、何か?』
そこにいたのは、いかにも人の良さそうな初老の男性だった。服装から推察するに、職業は執事。仕えている家は――十中八九、この屋敷だろう。
そう。ほんの数秒前まで、マリィが張り付いていた屋敷の。
「……いえ。何でも、ありません」
冷静に答えることの出来た自分に、拍手をしてやりたい。
だが、しかし。
屋敷前で怪しげな行動を取っていたことに対する、何らかのフォローが必要だ。
マリィは考える。
貴族の屋敷の塀に張り付いて、大騒ぎしている、正当且つ納得し得る理由を――。
(そんなもの……)
当然のことながら、あるはずもない。
「申し訳ありません。つい、友人と話し込んでしまいまして……。お騒がせしました」
敢えて変な言い訳をせず、素直に頭を下げる。「学校帰りにはしゃいじゃった女学生」を演出する作戦だ。
そんなマリィに、執事は「そうですか」とだけ言い、これ以上追及する気はなさそうだった。有難い。
二人してぺこぺこと頭を下げ(エナはいつもの如く。マリィはなるべく顔を隠すため)、そそくさとその場を立ち去る。
もう二度と、この屋敷には近付けそうになかった。
二人組の男子学生の背中を追う、二人の少女。
そろそろフリッツとの待ち合わせの時間が近付いてくるなか、残されたチャンスも多くない。
そこへ、転機が訪れた。
「あ、別れましたよ!」
向かう先が別方向になったのだろう。二人は軽く挨拶を交わし、道を違えた。一人は左へ、もう一人は右へ。
マリィは大きく息を吸う。彼女の心は、既に決まっていた。
(まずは――そう。あの日のお礼を申し上げないと)
自然な感じで。あの時は有難うございました、と。
覚えられていないかもしれないけれど。それでも。
(大丈夫、大丈夫)
俯いて、目を閉じて暗示をかけていると、
「あ、脇道に入られてしまいましたよ! 見失う前に、追わないと!」
「えっ」
不味いと思い、慌てて顔を上げたが、そこには相変わらず「彼」の姿があった。
幻覚でも何でもなく、マリィはそれを視覚に捉えることが出来た。
(……? 普通に通りを歩いていらっしゃ――って!!)
そこで気が付いた。
エナと自分の見ている方向の違いに。
「エナ!」
「は、はいぃっ!?」
思わず音量を上げた声に、エナが条件反射的に「ごめんなさい」ポーズを取ろうとする。
侍女の見慣れた態度には構わず、マリィは続ける。
これは、重要なことだ。
「私がす……好き、なのは……あの方よ!」
言い慣れない言葉に顔を真っ赤にさせ。
「彼」を指す手は可哀想なくらいに震え。
マリィの言う「あの方」は、エナの向いている方向とは、真逆にいた。
つまり。
「……ええっと……そうでしたっけ?」
そうに決まっている。本人が、ああもはっきりと言っているのだから。
あわわわわわ、となりながら、エナは左右に分かれた二人の、「右」を見る。
そこにいたのは、男子学生だった。
――じゃなくて。いや、でも、どうやって表現したら良いのだろう。
何処にでもいそうな雰囲気で、何処にでも溶け込めそうな容姿で。「男子学生」の初期設定から変更されていないような、そんな――ごくごく普通の人。
髪の毛は、この国に多い茶髪。(マリィも茶髪なので、そこは良いかもしれない)
体格は中肉中背。(健康そう?)
敢えてタイプに分けるなら、人畜無害系。(そんなタイプあるのか)
うーん、とエナは唸った。
申し訳ないけれども!
本当に、申し訳ないけれども!!
彼には、これといって特徴がなかったのだ。
待ち合わせ時間が刻々と近付いてくるなか、「彼」は一軒の店先で足を止めた。そしてそのまま、店の中へ。
マリィ達も、店の近くの脇道へと移動する。
この地区は商店よりも民家が多いので、今の時間帯は人の往来が少ない。不審な目を向けられることもなかった。
(何のお店かしら……?)
看板には、『三十三古書店』と書いてあるものの、異国の文字なので、残念ながらマリィには読めない。
それはエナも同様だったようで、「何屋さんでしょう」と聞いてきた。
店頭には何も並べられておらず、何の店なのか判別し辛い。食品を扱う場所ではなさそうだが。
「中に入ってみましょうか」
「そこまでは……」
わざわざ店内まで追いかけて行くのは、さすがに気が引けた。大切な用事があるならともかく、用件が(差し当たり)お礼だけとか。
「そうですね。でも、何のお店なんでしょう。気になりますね」
それには同感だ。
併せて、「彼」が何に興味を持っているのかも気になる。
「私、偵察に行ってきます!」
「あ、ちょっと、待ちなさ――っきゃあ!!」
今にも突進しそうな侍女を止めるべく手を伸ばそうとしたところ、左腕に軽い衝撃が走った。
何か今日はこのパターンが多いぞと思いつつ、左方――ぶつかった相手を見上げる。
まだ若い(といっても、マリィとは一回り近く離れているようだ)男性だった。庶民的な恰好をしていたが、直感で貴族だと判断する。
そういう、独特の匂いがした。
事実、彼の立ち振る舞いは貴族そのものだった。
「失礼。お怪我はありませんか?」
「ええ。大したことありません。
こちらこそ、ごめんなさい。急に動いたりして」
全面的に悪いのはこちらなので、素直に謝っておく。王族はみだりに頭を下げたりするな! というのは今日日流行らない。これからの王族には、環境適応能力が求められるのである――というのが、マリィの持論だ。
その時、ふと頭にもやっとしたものが過った。
(この方……?)
何処かで見たことがあるような気がする。しかも、王宮で。わりと最近。
が、あまりじろじろ見るわけにはいかない。何てったって、こちらは王女という身分であるが故に、向こうに知られている可能性がある。身元が確か過ぎる生まれというのも、なかなか厄介なものだった。
(あまり深く関わらない方が身のためね)
万が一、想い人を追い続ける行為(註:世間では一般的に、「ストーカー」と呼ばれます! )を王女がしていたことが発覚すれば、周囲から何を言われるか。
想像するだに恐ろしい。
幸いにも、お互いに謝罪したことで、特に何のトラブルもなくその場は収まった。
ほっと胸を撫で下ろすマリィは、しかし次の瞬間、目を瞬かせた。
先ほどの彼が、入っていったのだ。『三十三古書店』という店に。
「本当に、何のお店なのかしら。ねえ、エナ。……エナ?」
「え! あ、は、はいっ!?」
ぼうっとしていたことが丸わかりの反応だった。相変わらず、分かり易い。
「どうしたの? そういえば、さっきから静かね」
いつもならば、マリィが人にぶつかっただけで大騒ぎし、「すみませんすみません」を繰り返しているはずだ。
「う、すみません。その、チェガル様のイメージが少し違っていたので――」
「何ですって?」
思わぬ発言に、声が固くなる。
(チェガル? チェガルって、あの、チェガル子爵? 今の方が?)
脳内検索に引っ掛かるのは、一人しかいない。
実際に会ったことはないが、聞くところによると、慈善事業に力を入れていることで有名な貴族らしい。それ以外は、これといって良い噂も悪い噂も、耳にしたことがないと思う。
ただ、彼は確か年齢が――。
「子爵は、お歳がもっと上だったように記憶しているのだけれど」
「ご子息ですよ」
あっさり回答されたそれに、マリィは青くなる。妙にはっきりした物言いに、嫌な予感が全身を駆け抜けた。
「もしかして、知り合いなの?」
やめて。否定して頂戴。お願いだから。でないと、彼の口を封じなくてはならなくなるから。
「いえ、知り合いではありません。一方的に、お名前とお顔だけ……」
(良かった……)
必死の祈りが通じたのが、最悪の事態は免れたようだ。
そして当のチェガル子爵の息子も、本人の知らないところで命拾いした。
ほっと胸を撫で下ろしたマリィだったが、今日は彼女にとって、人生で最も心臓の悪い日の一つだったに違いない。
何故ならば。
「マリィ様!?」
前方から、聞き慣れた声がする。しかしその声は、いつもとは異なった音を帯びていた。
普段の彼からは考えられない、緊迫感に満ちた声。反射的に身を竦ませるような、そんな声にマリィはびくっとした。
――但し、一瞬だけ。
そう。叱られるかも、なんて思考は即座にゴミ箱に捨てられた。今、こんな場所をふらふらしている事実もポイ捨てた。
もっと重要なことが、確かめねばならないことが、あったから。
「……フリッツ」
低い声で、近付いてきた従者の名を呼ぶ。
フリッツにとっても、予想外だったのだろう。言いかけた言葉を飲み込んだのが見て取れた。
「はい」
「貴方……今、何処から出てきたの?」
真剣過ぎる眼差しのマリィに若干の戸惑いを覚えつつも、そして何故そんなことを問われなければならないのかと疑問を持ちつつも――従者は律儀に、その店を指して答える。
「三十三古書店です」